『美の祭典』1938,レニ・リーフェンシュタール

 



再鑑賞しました。2回目となりますが、今回の方がズッシリきました。オリンピックものの総元締め、本家本元&元祖、お手本のようなテクスト。こっから守破離が始まるようなもんだと思います。
 
そもそも「オリンピックとはなんぞや」が、窺い知れる作品でもあります。また直近の東京オリンピックについて河瀬作品のSIDE:A、Bを観て、60年近く前の市川作品を観直した鑑賞者には、この『美の祭典』は今回非常にインパクトがありました。結論をまず申し上げると、本作品も市川作品も河瀬作品も3作ともつまるところ本質は全く変わっていない、という恐るべき事実です。河瀬作品だけがSIDE:Bによってやや変容の可能性を残しているような気もしますがこれは後段で詳述します。
 
さて本論に入りましょう。オリンピックの本質とは一体なんなのでしょうか。それはズバリ戦争準備です。戦争とは近代国家成立後国民皆兵の元で実施される戦争のことです。近代国家の本質は国民国家であり均質で上質な金太郎飴的国民の弁証法的因果律に基づく拡大再生産による支配権の拡張にあり近代スポーツとその集大成たるオリンピックはその端的な表象なのです。スポーツのほかに教育や官僚制度などもその一端を担っています。こうしたイデオロギーが貫徹すればするほど『ゆきゆきて進軍』に出演した奥崎謙三のような“常軌を逸した人物”は排除されていくでしょう。フロイトに端を発する精神分析とはそのための“発明品”なのです。ロシア共和国連邦も中華人民共和国もアメリカ合衆国も朝鮮民主主義人民共和国も我が大日本民主主義帝国も全ては近代のパラダイムの中で同根であり異人の排除と国民の均質化に余念がありません。
 
まず何と言っても、高台にキャメラを据え付けて、俯瞰で撮った有名なショット。リーフェンシュタールの発明とは言わないけれど、スタジアムの観客席から溢れんばかりの“群衆=マス”を捉えたモブシンーンのパンショットこそオリンピックの本質を形象化しています。ナチス政権下で開催されたオリンピックは、実は全体主義と民主主義が、フランス革命以降の自由平等友愛をベースに人間主義=ヒューマニズムを同根のイデオロギーとした派生物であることを雄弁に明証しています。ついでに言えばかつてソ連政権下で発生したスターリニズムもお仲間です。人間主義を極限まで推し進めた結果として発生する極北の非人間性という皮肉。
 
さらに作品の中心を馬術系競技が占めているのは偶然ではありません。選手たちのコスチュームに注視すれば一目瞭然です。それはまごうことなき国民国家の象徴である軍隊のユニフォームであり、各国別に特徴的なそれらを凛々しく身につけた選手=兵士たちが果敢にクリークや沼地を越えんと誇らしげに奮闘する姿を、リーフェンシュタールは延々と撮り続けています。現に我が大日本帝国(当時)からも、やがて硫黄島で玉砕する宿命を背負った、あのバロン西をはじめとする数人の大日本帝国軍人たちが出場しています。また、競技を誘導し見守る運営組織側のスタッフも、不案内な私には詳らかにすることはできませんが、所謂ナチス・ゲシュタポ的制服に身を包んだ者たちが競技の補助者として脇を固めて“監視”をしています。
 
この『美の祭典』という映画で可視化されシンボライズされたイデオロギーは後の1964年の市川崑が撮った『東京オリンピック』(公開は1965年)にも大きな影響を与えています。いや、影響というよりは構造的に同一作品なのです。イデオロギーの内容がナチス的全体主義から高度経済成長期の戦後民主主義へと変質しただけで、近代思想に基づくイデオロギーそのものはより強化され巧妙に延命され続けています。唯一の差異は東京近郊の当時の前近代的農村部が収められていることです。しかしこのショット群は結果として経済成長イデオロギーの強化に繋がっていきます。二度目のオリンピックが回ってきた2021年の東京では、河瀨直美の『東京2020オリンピックSIDE:B』(2022年公開)がリリースされ、年老いた行政責任者やIOC指導者たちのグロテスクでマカロニウエスタン張りの超クローズアップの映像群は、近代オリンピックがいかに優秀な行政官僚組織に依存し、運営をゆだねているのかを白日の下に晒し、その意味で近代思想に準拠したイデオロギーの脱構築的崩壊の萌芽になり得るかもしれないかすかな不可視の領域を仄かに感じ取らせているように思います。最終的にそうなって欲しいけれどそうなる確信も私にはありません。
 
さて縷々述べて参りました、本来の批判の対象である近代イデオロギーの悪魔のような恐ろしさについてもう一度述べておきます。それは私たちの批判態度についてです。近代の本源悪に蓋をして、やれ東京で開催された安倍自民主導のオリンピックを論争のネタにして大騒ぎしたり、やれ河瀬直美のオリンピック作品をあーだこーだと揶揄する人たちは、左右どちらの陣営に依拠するものであれ、次の二つのタイプに必ず大別されます。つまりそれは近代思想のいいとこ取りのご都合主義的偽善者であるか、近代に対して無知であることで免罪符を求める虚ろな怠け者であるか、のどちらかだということです。
 
最後に私たちがもう一度確認しておかなければならないのは、この近代思想に準拠したイデオロギーの表出物たる近代オリンピックを記録し再現しているのが他ならぬ映画という近代が生み出した最大級の暴力装置だということです。全ての映画はプロパガンダ映画である、と喝破したゴダールの言葉を借りるまでもなく、映画とイデオロギーの極めて親和する関係性をもう一度、再検討、再批判しなければならないと強く思うのです。このための足掛かりを、私はゴダールや原一男や青山真治の一連の作品、パゾリーニのボルガータと中上健次の路地の比較検討、香港映画の現在などに寄り添うことで見出そうと思っています。

  作品データ


※以下出典根拠映画ドットコム

監督
レニ・リーフェンシュタール
製作総指揮
レニ・リーフェンシュタール
製作
ワルター・トラウト、ワルター・グロスコプ
撮影
ハンス・エルトル、ヴァルター・フレンツ、ギュッチ・ランチナー、クルト・ノイバート、ハンス・シャイブ
音楽
ヘルバート・ヴィント
原題
Fest der Schonheit Olympia Teil 2
製作年
1938年
製作国
ドイツ

  解説


「民族の祭典 オリンピア第一部」とともに映画オリンピアを形づくるものであるから、製作スタッフは勿論すべて第一部と同様である。ただ音楽だけは、ポロ競技及び近代五種競技のシークェンスに限りワルター・グロノスタイが書いている。スタッフの詳細及び解説は「民族の祭典 オリンピア第一部」を参照。

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