人間力 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して38年経過しました。

                   幼い子供を岩山に捨てよ
                   彼に牝狼の乳房で乳を飲ませよ
                   鷹や狐とともに冬越しをすれば
                   活力と速力が手となり足となるだろう

                                                                     Ralph Waldo Emerson

悲しい事件が起きた。
人々があと一歩進んで事態と向き合っていれば、心愛ちゃんには素晴らしい人生が開けていただろう。

心愛ちゃんは真っ直ぐな強い子だった。
心愛ちゃん以外の、父親である加害者も関係者もみな一人前の人間(男)ではなかったと私は思う。

『与えられた困難だけをその都度何とか乗り越えてきた人間の精神には子供のように弱々しいところがある』と、ある批評家は言ったが、皆が皆、事態を何とかやり過ごすだけで、出来事に対峙した者が一人もいなかった結果である。

私の母はシングルマザーで私には父親がいなかった。母の弟の伯父は強い男で、伯父方と叔母方の両方の親戚を一人で束ねていた。私はその伯父があまりにも独善的で、威圧的で、私たち子供にもうるさく小言を言うので好きではなかった。事実正月や法事の時は親戚の全員、子供たちも集まるのだが皆びくびくしていた。

私の祖父、つまり伯父の父親は日露戦争に近衛兵として旅順戦役に従軍し、帰還すると愚連隊になり、博徒と行動を共にした。その時の博徒仲間数人は、現在横浜港でも名の通った荷役会社をそれぞれ設立した。
祖父は綱島の兄弟分と博徒として日々を過ごした。兄弟分は綱島一帯を支配するまでにのしあがったが、祖父は付かず離れず一博徒として暮らした。私には祖父の気持ちがよく分かる。組織やそこから派生する名利などは真っ平だったろう。そんなものはうるさいだけだ。兄弟分には子供がいなかったので私の母は請われて養女に入った。やがて兄弟分が懲役になったので母は戻されたが、懲役にならなかったら私の背中はどうなっていただろう。
当然伯父もその水を飲み泳いでいた。しかし伯父もまた祖父や私と同様に群を好まなかった。やがて自分の会社を設立した。
しかし人の使い方は悲しいかなそれらの組織のやり方を踏襲していた。

私は幼いときから祖父や伯父と同様に生意気だった。『祖父ゆずりの無鉄砲でいつも偉そうな奴と争っていた』。理屈では人に負けなかったし、自分を個人的偏向のない自然科学的な人間だと思っていた。人からは文学少年などと言われる事があったが、独善的な女々しく感じる文学などは大っ嫌いだった。

強い人間にはまた自己主張があり、よせばいいのに私に何かしら言ってくるので、たとえ小石でも投げ入れられれば波風が立とうというものだ。ある時体育の先生といがみ合った結果、なんと通知表の体育の成績が【1】だった。先生も所詮小さな人間だと思った。

17歳の時、あまりにも私が生意気だったからだろう。伯父に呼び出されてお説教を食らったが私は絶対に折れなかった。やがて伯父は気色ばんで私を殴打した。吸っていたタバコの火を私の半袖の腕に押しつけた。床に叩きつけられて初めて恐怖を感じた。
伯父はケンカが強かった。誰も敵うものはいなかった。ある時会社に嫌がらせに三人の男が乗り込んできたが、伯父はその三人を完膚なきまでに叩きのめしてしまったと聞いていた。誰もが伯父ならやるだろうと信じていた。
伯父は窓から社員に命令した『薪雑棒持ってこい!』私は社員さんに仲裁に入って貰いたかった。
見ていた社員さんが慌ててきた。すると社員さんは伯父に言われた『薪雑棒』を伯父に手渡したのだった。
私が薪雑棒で頭を殴られている間、社員さんはただ立ち尽くしていた。
やがて伯父は落ち着いてきたのだろう。ゆっくりと言った。『親族会議を開くからあさって(日曜日)家にこい、俺がみんなに連絡しておく!』。
私は怖かったが絶対に軍門に下るのは嫌だった。それに伯父は母を脅し言いくるめるに決まっていると思ったし、親戚の人たちだって伯父には逆らえないから私に折れるように言うに決まっている。親戚の人たちのそんな惨めな姿は見たくはないと思った。

タバコの火による腕の火傷が心配なので外科で見てもらうと全治二週間と診断されたが、火傷のあとは3~4年は消えなかった。頭には七ヵ所の瘤ができていた。
病院では警察に行った方が良いと言われたが、母が困るといけないから「母と相談してから」と言って診断書なども保留にしてもらった。

まだ宵の口だったから家にも帰れなかった。ひょつとすると今日の事で伯父が家に来るかも知れないからだった。
一人で暮らしている兄のアパートに行って仔細を話すと、家に帰って母と三人で相談することになった。もう日付も変わる頃だから伯父も来ないだろうと思いながら家に帰って母に話した。

母は常々祖父の強情さを時には恐ろしげに、時には懐かしげに回顧していて、伯父も祖父にそっくりだと言っていた。だから母は伯父も絶対に退かないだろうと言った。兄は最悪血を見ることになりかねないと言った。兄はすぐに逃げるしかないと言い、後の事は全部任せて長野に逃げろと言った。

私は諏訪の原村に他人だが懇意にしてもらっている人がいた。八ヶ岳で売店を開いていて中1の夏に知り合ったおじさんだった。
しかしおじさんは前年に病気で亡くなっていておばさんだけになっていた。伯父に知られずにいるにはおばさんの所に行くしかなかった。

だが行くにしてももう根岸線も中央本線も終わっていた。私は虫屋だったからヒッチハイクに慣れていた。何台も乗り継いで八王子まで出ると、あとは国道20号で大型トラックを選んで茅野を目指した。
おばさんに経緯を話した。もちろん母からもおばさんに電話で挨拶があった。私は自分の生意気さで多くの人に迷惑をかけていて申し訳ないと思った。自分がもっと穏やかな人間なら、伯父もあのように怒り狂う事はなかったはずだとも思った。特に横浜にいる母は私と伯父の板挟みで大変な心労だろうと心配する毎日だった。生意気な私でも反省の日々だった。

心愛ちゃんも自分さえ我慢していればお父さんは許してくれるだろうと思った筈だし、さらに自分が至らないために母親にも大きな迷惑をかけていると思っていたと思う。人間というものは生まれて5~6年もすればもうちゃんと人間的な情緒が育まれているものだ。
心愛ちゃんのような子のためにも、両親と引き離されて寂しさは募るけれども、親族ではない公認の一時里子預託機関を設けるべきだと思う。

いつになったら横浜に帰れるか伯父の様子次第だから何も決められなかった。おばさんの知り合いの人から山小屋でアルバイトをしてみないかという話があって私は喜んで紹介してもらった。それは美ヶ原頂上の大きな山小屋だった。いつ横浜に帰っても良いという約束で住み込みのアルバイトを始めた。それから約一年2000mの高原で四季を過ごした。
   
          わが心のサナトリウム    美ヶ原王ヶ頭ホテル(旧高原荘)

私は運が良かったのだと今さら思う。あの時先生や警察などに相談していたらどんな事になっただろう。
事態は深刻な方向に進み、あるいは伯父も私も刑事事件の犯罪者になっていたかも知れない。

教育委員会や児童相談所がもっと強く出ていたら、心愛ちゃんの両親も犯罪者にならなくて済んでいた。

心愛ちゃんを保護し両親から引き離すことを恐れているのは、彼らの人間力が弱いからである。一種の悪縁が膠着状態になっている場合は、たとえわが国では神聖とされている親子関係でも、一度は断ち切るべきなのである。距離をおいて時間をはさんで、僅かながら芽生える良心を、じっくりと醸成する機会を作らなければならない。そのような展望に欠け、人間の良心を信ずる事に躊躇するとすれば、悪しき者に見透かされてしまうだろう。

ただどうしても悪の台頭に弱い人間はいる。
伯父に言われて薪雑棒(まきざっぽう)を持ってくる人間もいるのである。
脅されて心愛ちゃんの書いたアンケートを渡してしまえば、心愛ちゃんがどんな目に会うか充分分かっていながら、父親からの脅威を逃れたい一心で渡してしまう弱い人間もいるのである。
社会的責任を言えば彼らの責任は免れないだろうが、しかし彼らとて最前線の一兵卒の歩兵なのだ。
心愛ちゃんの父親とのやり取りはいわば白兵戦である。白兵戦の歩兵には最大限の防具と武器を宛がってやらなければ戦いには勝てないだろう。
現在の法制度の不備では彼らだけに罪を負わせるのは一種の弱い者苛めだと思う。
弱い弱いと言うけれど強いと言ってもそれは五十歩百歩であってそんなに違いはないだろう。

それにもしも人間の世界が強者や非常時の英雄のような人間ばかりだとしたらどんな世界になるだろう。戯れに言ってみるが、モンゴルはジンギスカン、朝鮮は好太王、中国は張飛翼徳、わが国は織田信長、全人口がこの手の人間で構成されていたら争い事は一瞬でも絶える事はないし、第一、大言壮語ばかりで地道な仕事はしないから即食うに困ること請け合いである。

わが国は少子化対策もそうだが、何よりも大切な子供に関わる法整備が疎かに過ぎはしないか。
心愛ちゃんの事件で責められるは立法府に関わる全ての公人の不作為だと思う。

そして心愛ちゃんや結愛ちゃん事件が表沙汰になるといつも応急処置のような小手先の対応に明け暮れる。
日本人は論理的に構築された理念が苦手だと思う。それはなぜかというと例外に対する対応ができないからだと思う。論理を現実に動かせば必ず例外が生じ、それは破綻に見えるだろう。例外を扱うには個人的な人間力が必要だが、わが国では自立した個人性を持った個人は稀である。
『自己信頼』と言うと「独りよがり」と言う言葉が返ってくる事が多い。これは常に多数者や類型が想定されていて、典型については考えられていないからだと思われる。だから火急の時に自己判断ができず、従ってもしも心愛ちゃんや結愛ちゃんが近くにいても救う事も、闘う事もできないだろうと思う。
『薪雑棒』の社員さんやアンケートを渡してしまう職員さんが存在するゆえんだと思う。

私は約一年間、美ヶ原山頂の山小屋に逃げる事ができたから、その後の展開が幸福なものになったと思っている。それも私が17歳だったからできた事で、幼子にはできない…。

一年後横浜に帰って稀に伯父に会う事があっても、伯父は以前のように尊大な態度はとらなくなった。
20年後私が盛岡に住んでいて末期ガンになり、家内だけが余命宣告を受けた。すぐ母に知らせるべきか迷った時、家内はまず伯父に知らせて伯父に判断を仰いだ。家内は伯父に連絡をすることは初めてだったが「何かあって判断に迷ったら、伯父様に相談するよう常日頃言われていた」と言ったそうである。
20年の時間の経過の中で、私は伯父を尊敬するようになっていた。当時四十歳そこそこで一家をなしていた伯父の人間力は、当時でも稀有な事だったし、私には到底及ばないと思ったからだった。伯父としてもまさか私が自分をそのように見ていたとは夢にも思わなかったはずである。伯父は喜んで私には細やかな気遣いをしてくれた。私がミルクケアをやるときにも私の選択したことだからと心から応援してくれた。
私がミルクケアを始めて3年後、長い間肝硬変を患っていた伯父は肝臓ガンになった。症状は急速に進み瞬く間に帰らぬ人となった。

もし20数年前私が美ヶ原に行かず、狭い檻の中で争っていたら、このように幸福で美しい地平に辿り着く事はできなかっただろうと思う。

心愛ちゃんや結愛ちゃんも悲惨な檻から救い出して、親から時間と距離を隔てる策を講じていれば、いつか私のような幸福な世界に邂逅する可能性はあったかも知れない。だから私ははっきりと言いたい。

     悪い親からは完全速やかに隔離すべきであると。


                      
                        





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