南関東の大津波 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

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私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して38年経過しました。

南関東の大津波

日本は🗾島国で海洋国家だからどこでも津波の脅威に晒されています。
日本列島は関東地方を頂点とした弧状列島で、長大な海岸線は太平洋に臨んでいて、まるで日本列島は津波を迎え撃つ天然の大防潮堤そのもののように思えます。そして多数の人口を抱える大きなコミュニティーは太平洋に面した河口に発達しました。



近い将来東南海地震が発生した時、わが横浜市には12分後に3mの津波が襲来するという予測が出ています。

これをお読みになられている方のお住まいの場所はいかがでしょうか

最近までは2mの予測でしたが3mに修正されたらしいのです。しかし実際には2mでも3mでも、どちらにしても人間には太刀打ちできないので、高いところに逃げる他はありません。

磯子区から中区にかけては町のすぐ裏に町を見下ろすクリフの丘があって、高さはおそらく50mくらいはあるでしょう。
私の家の根岸ではそのクリフの丘に逃げる計画ですが、実地にシミュレーションをしてみたところ、なんと家からクリフの直下までちょうど12分かかりました。これでは果たして実際には間に合うかどうか。
この界隈は地盤がやや弱く南関東直下地震の予想震度は震度7地帯です。
家々は倒壊し逃げ道を塞いでいるかも知れません…だが他に選択肢はありません。

多数の人は漠然と3~4階の建物に避難すれば良いと考えるでしょうが、東日本大震災の津波の脅威は波の高さだけに留まらず、恐ろしくも波に火を乗せて運んできたのでした。
初めは接触による火花のような火で、すぐにでも消えると思われるような弱いものだったのだろうと思いますが、水面に浮く僅かなガソリンなどの可燃性油への引火から始まって、津波によって倒壊した燃料タンクから漏れた、漁船用の重油に燃え移ったのだろうと思われます。

岩手県山田町や大槌町、宮城県気仙沼市では、町は津波の運んだ火によって水没しながら燃え尽きてしまいました。これは映像で見た人も多いと思います。ですから3~4階の建物に逃げても黒煙に巻かれ、火あぶりになる可能性があるのです。

根岸駅の海側にある石油コンビナートは3mの津波に大丈夫でしょうか。
常識的に考えれば充分備えてあるだろうと思うのが人情というものですが、あの福島原発での東京電力の不作為の例もあります。安心していてはいけません。

西町や中根岸の人々は、根岸小学校(ねぎしょう)裏の階段やエルフイーノ横濱根岸・不動坂近辺を十分研究しておかないと、せっかく逃げる道があるというのに、悔やんでも悔やみきれない事になってしまうと思います。東日本大震災で東北の人々が惨禍を嘗めたように…。

それでも磯子区下町、坂下町、馬場町、上町、原町、西町、東町、中根岸の住民は逃げ場のクリフが遠くないから幸いです。真剣に考えれば津波到達時間の12分でなんとか逃げられるでしょう。

逃げるときには必ず鳥籠や犬猫も一緒に連れて行くことは必須です。特に猫にはリードを付けないと、ごった返す避難所で逃げられて迷子にしてしまいます。
一度避難したら再び戻る時間的余裕はありません。

東日本大震災の津波の映像をご覧になった方は多いと思いますが、あの津波の下でどれほどの犬猫小動物がもがき苦しみ死んで行ったか、思わず目頭が熱くなるのは私だけではないと思います。常に準備を怠らないで頂けたらと思います。

しかし浜や久木町、滝頭、堀割川西側の人々は津波到達までの12分間でどこに逃げる事ができるでしょうか。堀割川西側は比較的地盤が固く予想震度は6強ですが、逃げる道沿いの家々は倒壊しているかも知れませんし、既に火災を起こしている家だってあるかも知れません。車は通行できなくなっている可能性があります。家や車の火災で煙を吸い一酸化炭素中毒になってしまう危険性さえあるのです。
もし直面したらその恐ろしさは計り知れません。

しかし大多数の人々は予め避難計画など立ててはいないでしょう。8年前の東日本大震災では、これだけ科学技術が進み、情報の啓蒙が日常化した環境下で死者・行方不明者、合計1万8432人の被害が出ました。

明治三陸大津波の死者行方不明者、21959人
昭和三陸大津波の死者行方不明者、 3062人
チリ地震津波の死者行方不明者、            142人
平成三陸大津波の死者行方不明者、18432人

いわゆる科学技術が進歩して、TVなどの情報網が発達した現代で、上記の死者行方不明者を出したと言うことは、極めて恥ずかしい事であり、現代人が無意識に標榜するHomo sapienceならぬ『Homo science』などは全くの妄想です。現代人のなんと非科学的な事でしょう。

気象庁は第三者だ

これは岩手県宮古の出来事ですが、大地震直後大津波警報が発令され、宮古港で検潮をしたところ、水位の変動が60㌢だったのを岩手の放送局がそのまま速報しました。ですから視聴者はいつもの津波注意報と同様の『オオカミ少年』と捉えてしまったという事がありました。
潮位は海の干満や風などで変動しますし、直後に検潮してもすぐには有効な反映が出ないものだといいます。

後にこの放送局は拙速な非科学的報道を反省し、視聴者に陳謝をするという誠意は表しましたが、きつく言うなら後の祭りなのです。TV局が科学的であるべきか分かりませんが、とにかく非科学的及び科学に疎かったのです。

また東日本大震災では気象庁の大津波警報は予想が変遷しまた。始めは3mだったのですがすぐに5m、6mに変わりました。やがて10mになり果ては巨大津波になったのです。この変遷に要した時間は確か10分くらいだったと思います。だがこれは気象庁の罪ではありません。完璧な予想など現在の水準では誰にもできないのです。
だから気象庁は第三者なのであって、参考にすることはあっても、天の声とばかりに依存してはいけないのです。



私は岩手県田老町の大岸壁の山肌に付けられた、明治と昭和の大津波の高さを知っていました。明治が15m、昭和が10mの高さでした。またそれぞれの津波をもたらした地震の震度も知っていました。

盛岡の家が揺れている最中、おそらくこの地震は(東日本大震災)明治と昭和の地震規模を遥かに超えていると思いました。従って大津波の高さは明治を越えると思っていました。つまり15mでは済まないと思ったのです。

なぜ人々は自分で判断できないのでしょう。科学的に考えれば気象庁だって全てを完璧に明示できる訳がないことは、当然分かりきった事でした。
事実TVのニュース番組に出演した日本有数の地震学者、纐纈一起氏はあの日スタジオで人目も憚らず泣いていました。あの時日本の地震学は完敗したのです。纐纈氏は涙しながら敗北を正面から受け止めました。この彼の態度こそ科学者魂なのです。

ゲーテは
『泣きながらパンを食べた経験のない人とは真実の話はできない』と言いました。

一般人も一人前の人間なら何もかも学者に責任を負わさないで自分で判断すべきなのです。人々が際限なく学者に責任を要求していれば学者は萎縮して育だちません。
思えば人間は一人で生まれてきました。誰かに相談したわけではありません。地震雷火事親爺から逃げる場合もまた人に相談している閑はありません。

南海トラフの大津波は、予想されている通りの時間と予想通りの高さで間違いなくやってくるでしょう。
オオカミ少年などはもういないと思わなければいけません。気象庁をオオカミ少年などと揶揄し続けていたら、それこそ人口に膾炙しているスラングのように『豚に喰われ』てしまうでしょう。

科学的とはどういう精神かと言うと、2500年前の賢哲が決定しています。

『汝に知るを教えんか、知るを知るとなし、知らざるを知らぬとせよ、これ知るなり』                      孔子

三陸沖日本海溝で発生する大津波は陸地に到達するまでに大体30~40分の時間があります。震源の日本海溝までは200㌔ほどあり震源が遠いからですが、津波の速度は新幹線なみの速度だと言われる中で、この距離は不幸中の幸いでした。ほとんどの人々は充分逃げられた筈でした。しかし多くの人々の心に隙がありました。
いつまでもあると思うな親とナントカと言いますが、次に続く言葉は『いつまでもないと思うな運と災難』ですね。

岩手県宮古市閉伊川河口を襲った東日本大震災大津波
         下記の友人の家は手前約100mにありました

         『我々の世代には大津波は伝説で終わる』

これは岩手県宮古市の閉伊川沿いに住んでいて津波の直撃を受け、家を失った大震災当時60歳の友人の言葉です。

東日本大震災大津波はその前の大津波、1960年のチリ地震津波から51年が経過していました。
大津波のリアリティーは風化して、津波が襲ってくるという感覚も時間の波に鈍磨していたと言います。
そして彼は三陸海岸の人々は日々上記のような気分で生きてきて、みずからが精神的陥穽に落ちていた事も知らずにいたと韜晦しました。

私は仕事の事情から盛岡市にも家があります。
盛岡から岩手陸中海岸各都市まではどこも大体100㌔の距離です。
沿岸部に仕事に行くと車中泊になる事が多く、北は久慈市から南は仙台・石巻まで行きました。
三陸海岸は国立公園ですから観光地でもあるので、車中泊に便利な道の駅や鉄道の駅も海の直ぐ際に作られていました。多くのオートキャンパーやアングラーにとっては非常に便利にできていたと言ってもいいでしょう。

しかし三陸海岸では海のすぐそばで車中泊をしては非常に危険です。私は絶対に海のすぐそばで車中泊をしませんでした。

車中泊はあまり人気のない辺鄙な場所では危険かもしれません。東北地方ではあまり心配はありませんが、関東以西では人気のない場所は危険ですね。

試みに私の三陸海岸車中泊の場所を以下にお示ししてみます。

久慈市         古墳の湯(スーパー銭湯)


田野畑村     思唯大橋(🚻)


宮古市         浄土が浜駐車場(🚻)
                                                                                                                                                                                                  (道の駅なあどは便利ですが絶対に車中泊は危険です。東日本大震災の大津波の第一 報は、多数の宮古魚市場の車両が流されている映像でしたが、画面右上遠くに水没している「道の駅なあど」が写っています。幸いなことに当日は休館日だったので 人的被害を免れました。)

山田町         道の駅船越(🚻)


大槌町          城山駐車場(図書館、スポーツ施設有り)


釜石市          鉄の歴史館


唐丹町           国道45号脇NTT施設の駐車帯
                       🚻は三百㍍下った唐丹駅にあります。
                       駅は津波で水没しました要注意


三陸町            三陸町道の駅(🚻)


大船渡市        通岡峠駐車場(🚻)かよおかとうげ
                        道の反対側に簡易宿泊のスーパー銭湯有                            り


気仙沼市        安波山駐車場🚻


私は泊まった事はないのですが、私がここを取り上げたのは8年前の東日本大震災のあの日、偶々あのサンドイッチマンさんが仕事で来ていて、大津波警報に遭遇したのを報道で見ました。
報道ではサンドイッチマンさんを乗せたミニバンが躊躇することなく避難している映像が写し出されていて、スタッフの機敏な対応に感心しました。
後に避難先がこの安波山だと知り、完璧に高い所を目指すという的確な判断だったことに再度感心しました。
おそらく彼らは気仙沼が大津波で打ちのめされる一部始終を見たのでしょう。


石巻市             日和山
        

      日和山山頂 標高60ⅿ
     
   
車中泊をするときは必ず車の向きを出口に向け、ラジオはNHKに合わせ確認して、エンジンをかければ鳴るようにしておきました。

今はスマホがすべてを教えてくれるので便利ですが、スマホで時間をとられて瞬発的機動性が失われる恐れがあります。
どのような情報が入るにせよ、自己の堅固な決断が事態を左右します。情報によって行動を選択・変更するのは一見賢明なように思えますが、実際には不確かな情報もあります。

事前に計画を立て実地に予行演習をして見れば、必ずや最善の方法が創造できます。
その時がきたら愛するもの達と一緒に迅速な避難を実行して下さい。











今日の話は昨日の続き今日の続きはまた明日





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