ラルフ・ウォルドー・エマソンは悟りをひらいていた。 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

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私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して30年経過しました。

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     R・W・エマソン(1803~1882)

アメリカルネッサンスの哲人と讃えられるR・W・エマソンは、キリスト教徒でありながら禅の悟りを開いていたが、これはほとんど認知されていない。

我が国でも現在のエマソンの扱いは、自己啓発の先駆者としての扱いであり、『皮相的な個人主義』のメッセンジャーだと思われている。

エマソンのEssaysはヨーロッパの哲学のように論理の力で書かれてはいないので、日本人には読みにくいだろう。また情念の力で書かれているので、哲学だと教えられた者には、いかにも二流の哲学のように感じられるのだ。

言ってみればエマソンのEssaysは神学の伝統の上に成り立っているものなので、ヨーロッパ哲学の論理的完結性及び論理的限界性に慣れた読者にとっては暖簾に腕押しのような所があるだろう。

よく軽い会話の中でエマソンの『自己信頼』が出てくると、軽い会話ならではの〈独りよがりか?〉という決まり文句を喋る人がいるが、軽口ゆえの本質性が表されていて、その人にはエマソンは難しかろうと思ったりする。

六千年の歴史をそなえた哲学も、魂の中に連なる部屋や倉庫を探索し終えてはいない。
さまざまに試みてはきたものの、所詮、哲学には解けぬ余剰がいつも残った。
人間は水源が隠れて見えない流れだ。
われわれの存在は、われわれにも分からない高みから、われわれのなかへおりてくるのだ。
すぐ次の瞬間に何か予想もできないものが立ちふさがるようなことがないなどとは、たといこのうえもなく正確な計算機でさえ予知できないことだ。いろいろなできごとには、わたしが自分のものと呼ぶ意思よりもさらに高い起源のあることを、わたしは一瞬一瞬思い知らずにはいられない。

できごとがそうなら、想念だとておなじことだ。わたしには見えない領域から流れ出て、しばらくのあいだわたしのなかへその潮流をそそぎこむ豊かな川を眺めていると、わたしは自分がただの年金受給者だということ、根源ではなくて、この霊妙な水流をただ驚いて見ているだけの者にすぎぬこと、わたしが望み、振り仰ぎ、受け入れようとする態度になっても、想念の力は何か無縁な力から出てくることを悟るのだ。
              ‘The Over-Soul’ in Essays, First Series, 1841

悟り。特に日本の禅の悟りは空の体験であり、その空は言わば無であるから、人間的意味の自己と言うものもなく、あるのは無の自己、つまり『無相の自己』である。形相も位相もないのである。さらにこれは純粋体験でありヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば、『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』のである。

          ヴィトゲンシュタイン
                  (1889~1951)

エマソンは「敬虔な人間的立場」から言っているのだが、彼の時代にはまだヴィトゲンシュタインは生まれていなかったと言っておこう。またこれは小声で言うのだが、敬虔なキリスト教世界のメンタリティーではどうしても「自己」が顔を出す。「自己」とは言葉であるから。

人間は、たといこちらが彼についてどんなことを言ったところで、いつもそれをおいてきぼりにしてしまい、言ったことは古くなって、高遠な哲理を記した書物も無価値なものになってしまうなどと、人びとが感じるのはなぜだろう。
                                                
                                                同上
エマソンは「差延」について言っているようである。「差延」は「脱構築」の哲学者、ジャック・デリダの造語で〈differance〉延期するという意味であるが、真の現実はそれに対する人間の理解とはいつも差があり、言葉による解釈(決定・断定)は無限に遅れ、延期されるという意味だ。
私たちの時代は分析的知性をはじめとする『知性』が巨大化している世界だが、人間は知性に関わりなくただ生きている者であって、知性によって言語化することはできないものなのだ。
デリダは日本で言えば昭和の哲学者。

私の個人的な感想だが、人間のもっているこの言語は、実在に対しては悲しいほど無力だ。

    デリダの自画像(1930~2004)

さてエマソンが悟りの体験をしたという証明をしたいと思います。

さて、いまやこの主題に関する最高の真理がまだ語られずに残っており、しかもたぶん語ることはできないだろう。われわれの語ることはすべて直感したことを遠くへだたったところから回想したものだからだ。
その想念は、いまのわたしにできる限りもっとも真実に近づこうとして言えば、次のようになる。

善が君の身近にあるとき、君が君自身の内部にいのちをそなえているとき、けっして既知の、あるいは踏み慣れた道を経てそうなっているのではない、誰であれ他人の足跡が目にはいることはない、人間の顔は見えない、誰の名前も耳にはいらない、/その道、その想念、その善は完全に異質で新しいものになるはずだ。
先例や経験をしりぞけてしまうはずだ。(中略)
かつて存在した個人は、誰も彼も、この想念に仕え、いまは忘れられてしまっている。
不安も希望も、どちらもこの想念には及びもつかぬ。希望にすらどこか低級なところがある。
幻視を果すひとときには、感謝と呼ぶことのできるものや、歓喜と呼ぶにふさわしいものはひとつもない。
情念の及ばぬ高みにのぼった魂は、万物の同一性と不滅の因果関係をまのあたりにし、「真理」と「正義」の自立を知り、万物が順調であることを知って心を静める。
自然の広大な空間、大西洋、南太平洋、それから時間の長い間隔、たとえは年や世紀であっても、まったくとるに足らぬ。
わたしが考え感じているこの想念は、現にわたしの現在を支え、生と呼ばれるもの、死と呼ばれるものを支えているように、過去の生活と境遇とのあらゆる状態を支えていた。
いま生きていることだけが役に立ち、かつて生きたことは無用のことだ。 
              ’Self-Reliance‘,in Essays, first Series, 1841 

悟りの体験をした者がこの文章を読んだら、誰でも感嘆するだろう。
これはまさしく悟りの経緯を記述したものだからだ。

誰であれ他人の足跡が目にはいることはない、
     You shall not discern the foot-prints of any other;
人間の顔は見えない
    You shall not see the face of man;
誰の名前も耳にはいらない
    You shall not hear any name;

ここが非常に重要なところであって、例えばイエスが出てきたり、モーセなど特定の人間の顔が見えたり、神の名前や天使の声が聞こえたり
、仏教で言えば如来や菩薩などが見えたりしたら、それは錯覚や幻聴などの類いであって、悟りではないと言うことを明瞭に証明しているのである。

『希望にすらどこか低級なところがある。』

これは煩を嫌って英文にしないが、希望というものは人間の欲望が趣を変えたものだからである。それが身にしみて理解されると言おうか。

『幻視を果すひとときには、感謝と呼ぶことのできるものや、歓喜と呼ぶにふさわしいものはひとつもない。』

悟りの体験はまた光の体験と言われるが、確かに悟りの初期段階では光の体験である。そして強烈な歓喜と感謝が感じられる。
だが悟りの最終段階では『空』の体験、つまり『無相の自己』の体験だから感情の高揚はなく、あるのは清々しさだけだと言っておこう。

子供なら悟りは何かの役に立つのかと率直に聞くだろう。だから私は次のように答える。
悟りは人間には何の役にも立たない、人間のような生まれて短時間で死んでしまうような無常の存在に短絡的に役立っても、それはタワシや
ICBMのように限定的な有用性があるだけだ。人間の世界には無数の(欲望の数だけの)有用性をもったものがあるが、本当に必要か?本当に役立つのか?ところでそれらのものが本当に欲しいのか深刻に考えたことがあったかい?と言うだろう。
悟りは人間のものではないのだ。ここで言う人間とはハイデッガーの言う「ダス・マン」の事だ
そして人間には人間以上の要素がある。それがどのようなものか、悟りの鏡に映して初めてそれを知るだろう。それまでは決して知られることはないだろう。

悟りには公定の悟りがあるのではなく、個人によって微妙な色合いがある。それはキリスト教徒の悟り、仏教徒の悟り、ヒンドゥー教徒の悟り、イスラム教徒の悟りがあるのと同様だ。
だがどのような宗教でも真の悟りの体験には相違などはないだろう。
悟りは宗教とは別のものだからと私は思っている。

宗教というものは人種、気質、地域、環境によってさまざまな相違がある。また同一の宗教でも祖師の気質によって大きく異なることがある。宗教とはそういうものだからだ。
だが悟りは異なることはない。なぜなら悟りは宗教ではなく、もっと自然なもので、人為から遠くへだたった言語によらないものだからである。
私は宗教が嫌いだ。あのように徒党を組み、人為的ヒエラルキーに馴れ合い、知らぬことを知っていると思い違いをする。彼らは強くない、優しくない、はっきり言って弱すぎる。

悟りをスピリチュアルとかナチュラルとか呼ぶのは良いけれど、宗教とだけは言って欲しくない、宗教の名は今ある宗教にそっくり差し上げようと常に思っている。

エマソンのEssaysを読んでいると、今私の言っていることがこれでもかと言った調子で書かれている。
エマソンのEssaysは読みにくいだろうと思う。
ただできれば私の言説を信じてエマソンの諸作品は、悟りの体験者が書いたものだと思ってお読みになれば少しは読みやすくなるかと思う☺

今日はエイプリルフールでイースターでした🐰






今日の話は昨日の続き今日の続きはまた明日



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