
しばらくぶりに小林秀雄の【私の人生観】を再読しました。
そこには若いころ読んだ時と変わらぬあの小林独特のトーンが充満していました。
慧眼に満ち満ちた文章の中で、小林秀雄の宗教観を浮き彫りにしている文章をまとめてみました。
【 】は引用文
【人間の事業も、人間の喜怒哀楽も、更に、さようなものは果敢無いとか果敢無くないとかいう一切の尤もらしい人間の思想も、凡て、此れあれば彼あり、此れ滅すれば彼滅すという非人間的な縁起の法に帰する。
更に又、帰するところ、かような法こそ真実だと考える主体も亦、縁起の一法に過ぎないとする。
諸法無我である。一切は空である。
人生は春の夜の夢の如きものだが、人生という夢を織る縁起の法も亦夢の如きものだ。
かような場所から、釈迦はどうして立ち上がる事が出来たか。さような空を観ることによって、体験することによって、立ち上がった。】
「空を観ることによって、体験することによって立ち上がった。」
いかに小林の造詣が人並み優れて深いものでも、空の体験無くしてこのような文が可能だろうかと強く感じます。

【ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して回答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について回答を求める負傷者の様なものだ。どんな回答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死には何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えるだけである。そう答えた。これが、所謂如来の不記であります。】
こうして阿含経の如来の不記について語ったあとさらに続けて。
【つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行なう事だ】
『空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である』
と力強く断言します。

われわれ人間の悲しさは、悟性の桎梏から逃れることができないということです。
【過去から未來に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)】
「無常ということ」から
悟性のもたらす、過去から未來へ一方的に進行する時間の概念は、絶え間なくわたしたちを苛むとともに、無常の無間地獄の中での存在苦を作り出しています。
【釈迦は、諸行無常を又、一切諸行苦とも言っているのでありまして、無常と苦とは同じものなのだ。】

たとえ悟りをえて、解脱をして、空の体験をしても、わたしたちが生物を生きる以上は、【人間になりつつある一種の動物】を生きなければなりません。
「無常ということ」から
【無我の法の発見は、恐らく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。人間どもを容赦なく焼きつくす火がみえていたのである。進んで火に焼かれる他、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。
不死鳥は灰の中から飛び立たぬ筈があろうか、心ない火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰が言おうか。それが彼の空観である、私にはそういう風に思われます。】
【人間どもを容赦なく焼きつくす火がみえていたのである・・・】
【不死鳥は灰の中から飛び立たぬ筈があろうか】

人間は決して自身を救うことはできません。人間は社会の進歩を鼻にかけ、未來には完璧な社会が作られると妄想していますが、人間の思考は常に相対的であり、二律背反の中で、何ひとつ真実を確立することができません。
わたしはこの状態こそが、容赦なく人間を焼きつくす業火だと思っています。
しかしこの炎に焼かれ苦しむその中から、【心ない火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃え】る時、『空』の体験の中で、私たちのコアともいうべき魂が不死鳥のようによみがえる。これこそが【真空妙有】、まことの空は妙なる有であると小林はいっているのだと思います。
わたしが小林秀雄の慧眼に驚愕するのは、よくある大乗仏教の論理的解説に堕ちていないということです。
大抵の論者はたとえば【真空妙有】【諸法無我】【縁起の法】などの仏教の基本的なキーワードを悟性に訴えて解説を始めてしまうのですが、小林はただ一言、体験するのみだと言い切るのです。
これは凄いことで、まるで小林は聖(ひじり)であるかのようです。小林秀雄は若いころ『いっそ死んでしまおうかと思った』そうですが、小林の集中力を思うとき、恐らく解脱(悟り)があったに違いないと感じます。
わたしが小林を『聖』といったのは単なる修飾ではないのです。
坂口安吾が尊敬をこめて小林の文学を『教祖の文学』といったのは、坂口が悟りというものを知らなかったからだと思います。
もし坂口安吾が悟りというものを知っていたら、迷わずに『聖の文学』といったでしょう。

小林秀雄独特のトーンとは、我が国伝統のリアリストが持つ徹底したストイックさと、それがもたらす静謐さだと思います。
小林秀雄は聖者や聖人という一種社会的馴馳の影を負った者と異なる、わが国独特の『聖』の系譜、吉田兼好や明恵上人さらに西行や芭蕉、宮本武蔵など、厭人でも厭世でもない、『私の人生観』で小林が取り上げた孤高の聖たちに連なっていることを自覚していたと思います。
今日の話しは昨日の続き今日の続きはまた明日
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