平成30年3月6日から8日まで、東日本大震災の被災地を見学した時のご紹介です。
前日、石巻市の被災地を日和山公園から見学し、更に多くの児童が亡くなった大川小学校跡の見学をした後、すっかり暗くなった南三陸町まで走って、 「 南三陸ホテル観洋 」 に宿泊しました。
このホテルに宿泊した理由は、
このホテルは、2階まで津波の被害に遭いながら、600人以上の被災者を180日間も受け入れ、客のようにもてなしたこと。
それに、このホテルに宿泊すると、一人でも希望者があれば、このホテルが行っている 「 語り部バス 」 に乗って、説明を聞きながら被災地の見学ができるからです。
「 語り部バス 」 代は500円。
毎朝午前8時45分にホテルを出発して、被害の大きかった戸倉地区、町内の中心部にある高野会館、防災対策庁舎を回り、ホテルの語り部さんが色々と説明をしてくれます。
8日、この日の語り部さんは、ホテルの渉外部長の伊藤文夫さんでした。
伊藤さんです。
南三陸町の人口は約1万7000人。このうち死者、行方不明者は832人で、建物の7割が流出したそうです。
この写真は、戸倉地区だったと思いますが、はっきり分かりません。
民家があった所だそうですが、全面更地になっていました。
戸倉小学校に津波が襲ってきたときの写真を示して説明をされる伊藤さんです。
津波で被災した戸倉小学校は、海から約300メートル内陸の海抜約1.5メートルの所にあったそうです。
低地にあることから、昭和35年のチリ地震の際は、1階まで津波が押し寄せたそうです。
このため小学校では、第一避難場所を校庭の隅、第二避難場所を約400メートルくらい離れた宇津野高台にしていました。
しかし、隣接する戸倉保育所の避難場所が小学校の屋上となっていたこと。 また、宇津野高台に避難するには時間もかかり危険を伴うことから、教職員の間で、避難場所を小学校の屋上にしたらどうかという意見が出て、避難場所をめぐり、何度もかなりの議論がなされたとのことでした。
この議論では、消防からは、小学校の屋上への避難でOKの回答を得ていましたが、地元の出身の教職員が、絶対に避難場所は宇津野高台にすべきだと、譲らなかったそうです。
最終的には、避難場所を宇津野高台にするか学校の屋上にするのかの判断は校長がすることになったそうです。
今回、この小学校では大きな地震が鎮まるのを待って、校長が教頭と相談して、
点呼の後、第一次避難をせずに直接第二次避難場所の宇津野高台に向かいました。
その結果、当時学校に居た児童91人全員が無事、宇津野高台に避難できたそうです。
その後、津波は小学校の屋上を遥かに越えて、学校を完全に飲み込み、10日前に引き渡しのあったばかりの体育館も、完全に流出してしまったそうです。
宇津野高台に避難した児童、教職員ですが、更に高い津波が押し寄せて来たので、
この学校では、2日前の地震で津波注意報が発表された際も宇津野高台に避難していますが、その際、寒さ対策として高台から更に上の方にある五十鈴神社の実査をしていたので、
避難場所の小学校の屋上には行かず、直接高台に避難した戸倉保育所の園児18人と共に、五十鈴神社に避難したそうです。
この直後、津波がこの高台を襲い、高台にあった民家や車が流出したり浸水したそうです。
戸倉小学校、そして戸倉保育園の教職員の判断力、決断力、そして統率力は素晴らしいですね。
被害を最小限に止めたこの差は何だろう。
私なりに考えてみますと、
常日頃から、津波に対する知識を得て、「 過去の津波のデータ、プラスα 」 を基本に、常に津波が発生した場合の避難について柔軟に考え、
また、津波が来ないとの前提で訓練を実施するのではなく、絶対に津波は来るとの前提で訓練をしていたか。
の差ではないかと思います。
五十鈴神社に避難した児童や地域の避難してきた住民は、全部で約150人だったそうです。
それで、全員が神社の中に入れないので、5年生と6年生は雪の降る外で野宿をしたそうです。
野宿をする際には、寝てしまうと凍死することも考えられるので、火を焚いて、教職員のアイディアでキャンプファイヤーを行い、卒業式に歌うために練習してきた、川島あいさんの 「 旅立ちの歌 」 などを朝まで歌い続け励まし合ったそうです。
こんな話を聴いていると、本当に涙が出てきます。
この後、高台に戻ったり、戸倉中学校に避難したりしましたが、最終的には、登米中学校に全員無事避難しました。
小学校の惨事のお話を聴きながら、戸倉中学校跡に向かいました。
写真の右上に見えている建物は、現在の戸倉公民館ですが、この場所に中学校があったそうです。
この中学校のあった場所の海抜は17メートルだそうです。
津波は、中学校の1階部分まで押し寄せたそうです。
当初津波は6メートルと言われていましたが、その後10メートルに訂正されました。
でも、実際に津波は、この場所で22メートルの所まで来ました。
南紀白浜でも、南海トラフ巨大地震が発生した場合は、津波の高さが最大16メートルと言われていますが、実際には、それよりもかなり高い津波が来る恐れがあります。本当に恐怖でしかありません。
中学校の校舎を修築して造られた戸倉公民館です。
公民館に取り付けられているこの時計は、被災した中学校に取り付けられていたもので、時計の針は、地震の発生直後を指していました。
( この時計は電気時計で、時計の針は、停電になった時点を指しているそうです。 )
なお、中学校では、校庭に避難してきた車などの誘導などしていた先生1人、生徒1人が流されて犠牲となりました。
次に、戸倉地区から、南三陸町の中心部に向かいました。
部分的に10メートルの土地のかさ上げ工事が行われていて、全く元の形がどうだったのか分かりません。
これは、道路工事ではないかと思います。
遠く、上の方だけ見えているのは、結婚式場の高野会館です。
この地区には、こんなにも家が密集していたそうです。
かさ上げ工事が終わった地区です。
南三陸さんさん商店街です。
これまで仮設の商店街でしたが、昨年3月に、本設の商店街としてオープンしたそうです。
ここでは、飲食店、鮮魚店、菓子店、生活用品店、理美容店などがあるそうです。バスの中からの見学でした。
次に見学した、結婚式場 「 高野会館 」 です。
民間所有の建物とのことですが、取り壊しせず、保存することが決定しているそうです。
津波は、建物の上の方に表示されているところまできたそうです。
当時、高野会館では、老人会の歌や踊りの発表会が行われていたそうです。
屋上に330人が避難し助かったそうですが、建物から出て逃げようとする人に、元漁師の、会館の営業部長が、「 生きたかったらここに残れ。」 と必死になって呼びかけ、出て行こうとする人を阻止したそうです。
それでも、数名の人が出て行ったそうです。
この建物の横には病院があり、ベットに寝たまま流されていく人を見た人もいるそうです。
写真は、津波により屋上に入った海水です。
海辺に見えているのは、元の魚市場で、現在はそのずっと左の方に建てられているそうです。
次に見学した南三陸町防災対策庁舎です。
慰霊の祭壇が設けられていて、この場所からの見学でした。
防災庁舎の横には、南三陸町の役場の建物があったそうです。
南三陸町の職員で、最後まで防災無線で町民に避難を呼び掛けていて亡くなられた遠藤未希さんは多くの命を救いましたが、写真は、遠藤さんが避難を呼び掛けた南三陸町防災対策庁舎です。
この避難の呼びかけが二人で行われていたことについてはあまり知られていませんが、課長補佐の三浦毅さんと遠藤さんの二人で、2階から行っていたそうです。
今でも、ネットで、悲痛な声で呼び掛けている実際の声を聞くことが出来ますが、この呼びかけで助かった人が大勢おられるそうです。
改めて、職責を全うされ多くの住民を救われた三浦さん、遠藤さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
JR気仙沼線の志津川駅も線路も流出したのですが、どの辺を走っていたのか全く分かりませんでした。
現在、JR気仙沼線は、バスが代行運転をしています。
これで 「 南三陸ホテル観洋 」 の語り部、伊藤渉外部長さんによる被災地の見学は終わりです。
この後、再び町の中心部をレンタカーで走って気仙沼へ向かいましたが、カーナビは、中心部は、道なき道を進みました。