誰が運動嫌いをつくったのか・其ノニ | 白河清周の脱線する話

白河清周の脱線する話

思っている事、笑い、怒りを書き綴ります。

小学生の頃。地域の子ども会に、半強制的に入らされて、ソフトボールをやれという。やりたくないなら、マネージャーでもいいから参加しろと。

 

マネージャーだろうが、興味が全く持てないことを無理やりやらされて、いい気持ちがするわけがないではないか。もう行かなかったけど。

 

子ども会なんて、任意参加の共同体じゃないか。連帯感? 学校の体育の授業だけでは不十分なわけ? それはどういう理屈で?

 

なぜ、「ソフトボール」「でなければならない」のか? 「電気機関車写生大会」ではダメなの?

 

(小学生の頃から、そんな醒めた考え方をしていた)

 

おそらく、皆が好きそうな事を最大公約数的に取れば、「ソフトボール」になったのだろうが、それがたまらなく嫌な奴だっている。

 

(ついでに余談ながら、わたしは寿司が嫌い。生魚じゃなくて酢飯がダメだから、巻き寿司だろうが稲荷寿司だろうが寿司全般ダメ。だから恵方巻なんてよその星のイベント。世間には、そんな奴だっている)

 

これは、「これで運動嫌いになった」というよりも、「元々嫌いだったのが強制された結果、輪をかけて嫌になった」という話だな。

 

YouTubeを徘徊していて、中国の体操学校の映像を見つけた。泣けてくるぐらい苛酷なトレーニングをしている。小学校低学年くらいの子どもが、大人のコーチに体を押さえつけられて開脚させられて、泣いて歯を食いしばって堪えている。中国のアスリートは国威発揚の使命を国家から課せられた「ステート・アマ」であり、オリンピックや世界選手権でメダルを取れば、庶民は到底手に出来ないような大金を手にする事が出来るのだから、われわれ日本人の感覚で考えてはいけないのだろうが。

 

器械体操でいえば、わたしの知り合いだが、学校では体操部が廃部になってしまって体操をやりたいという希望がかなえられず、大人になってから社会人クラブを見つけて熱中しているという人がいる。こういう人こそ、ジャンルは違えど「趣味人」として敬愛出来る。

 

好きでやる事は続けられる、嫌々やらされた事は身につかないということは身をもって感じている。受験勉強で丸暗記した事は試験が終われば綺麗さっぱり忘れるが、趣味で学んだ知識は一生モノ。

 

お子さんには好きな事をやらせてあげよう。一見役にたたなそうな知識でも、それが役に立つときが必ず来る。

 

近頃、「ブラック部活」なる言葉がニュースで取り上げられる事が増えた。これは二つの意味があるが、一つは生徒にとってのブラック、すなわち苛烈な練習漬け。もう一つは教師にとってのブラック、競技未経験者だろうが無理やり顧問をさせられて、土日も遠征漬けで休めない。

 

こんな体質は昔から変わっていないが、なぜ今まで誰も声を上げなかったのだろうと思うのだ。