恋愛工学 | 白河清周の脱線する話

白河清周の脱線する話

思っている事、笑い、怒りを書き綴ります。

Twitterで、いつの間にかついているフォロワーを見ていると、やたら多い「起業」。与沢某みたいな情報起業系なのだろう。青年虚業家どもめ。

 

ポイント制出会いサイトにいるような男性は9割方、あわよくば素人とセックス出来ればと思っているのだろう。日記はその手の自慢話ばっかり(他人のセックスの自慢話なんか読んでも、面白くもなんともないよ)、聞かれもしていないのに女性に「条件は?」とか、第三者に見られるようなところでそんな事書いて恥ずかしくないのかよと思う。ああこいつはヤリチンだな、と。

 

昔から、雑誌の『ホットドッグプレス』とか、いかにモテるかというマニュアル本はあった。わたしも若い頃はその手の本を読んだことがある。しかし、前にも書いたとおり極端な口下手だから、合コンみたいな社交的に振舞う場が大の苦手で、学部学科もサークルも女性が少なく、彼女なんか出来なかったけれども。

 

「恋愛工学」なるものの存在を知る。本のほうは読んでいないので、読まずに批判するわけにはいかないのだろうが、それでも、ネットの記事から垣間見える内容を拾い上げてみると、どうやらいかにセックスするかということに終始しているようで、恥ずかしい、男性として、女性に申し訳なく思う。

 

「恋愛工学」はなぜ危険なのか 女性蔑視と愛の砂漠 森岡正博(PDF)

 

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」
「ああ、無料のな」

 

女性を「無料のソープランド」と思っている男性は、逆に女性から「無料のホストクラブ」と思われも仕方がない。

 

女はやさしい男も、誠実な男も求めちゃいない。驚くことに、イケメンや
金持ちといったこともさほど重要な要素ではなかった。女は、単に他の女
とセックスできている男が好きなのだ。人間のメスも、グッピーやメダカ、
それにウズラやキジのメスたちといっしょなのだ。


女と恋愛するのに、愛など必要ないのだ。

 

小林一三が『逸翁自叙伝』で書いていた、といっても、この自伝本は持っていたが、読むのに挫折したので、阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』からの孫引き。阪田も指摘するように、話があっちゃこっちゃに飛びまくって、通読はつらい。

 

小林の慶応義塾時代の学友の一人で、花から花へ甘蜜を吸うのが得手で「蝶々」と呼ばれた株屋の若主人がいた。彼はこう言う。

 

「女といふ奴は、別嬪であればある程、浮気性にきまってゐるから、高くとまってゐる第一流をねらふというのが一番安全だ。射落とすこともラクであれば又いつにても逃げて見せる。故に僕は義理や人情で悪縁だなどといって、一人の女に苦しんでゐる連中を見ると、馬鹿らしさに失笑せざるを得ないのだ。これは誰にでもある自惚れの罪であり、費ったお金に未練のあるシミッタレの証拠だ。逃げようと思へば浮気をし給へ」

 

それから六十年後の、小林の「まとめ」。彼は「蝶々」にはなれなかった。

 

「彼は一生この浮気論を実行して他界したのである」

 

わたしは個人主義者だ。個人主義とは利己主義とは違う。自分にある権利は、他者にも当然あると思うのが真の個人主義というものだ。だから、「恋愛工学」に垣間見える蔑視が、鼻持ちならない。