教育とは?!(初等教育編??) | 次郎とマーマの なんじゃこりゃ日記

次郎とマーマの なんじゃこりゃ日記

知的しょうがいA1判定=次郎 
その次郎がマーマと呼ぶ私とのなんじゃこりゃな日々



「おばちゃん、次郎っちバカ~?」わるがね(悪がき)が聞いてくる。

「そうよ。バカなんで。でもな~バカな子ほどかわいいっち本当なんで!」と答える。

するとその子はこう言った。

「そうなん。あんな、ボクもな、バカなんで!」

かわいい!君も相当かわいいよ!!



花子が小3、太郎が小1の時に、柔道を習いたいというので、武道場に通っていた。まだ、5歳だった次郎も、小さな柔道着を着てついて廻らせてもらっていた。まともに、歩けないし、何一つ出来ないというのに。でも、じっと見学して待っているのは、かわいそうだと思って、練習の邪魔にしかならないのに参加させてもらっていた。

そんな次郎を指導者の先生はかわいがってくれていた。抱っこしたり、おんぶしたり、転がしてくれたり、練習の中に入れてくれていた。

ある日、この悪がねは、先生にも「次郎だけずりぃ(ずるい)、先生えこひいき、しちょるやろ(しているでしょ)!」と言った。

先生は言った。「当たり前じゃ!次郎は出来んのに、しようとしよるんぞ(しているのだぞ)。お前は出来るのに、しようとせんじゃろが(しないだろうが)!!えこひいきして当然じゃ!!」

それ以来、その子は、次郎のことをバカとは言わなくなったし、先生にもえこひいきしているとは言わなくなった。納得してくれたらしかった。

ちなみに、柔道の指導は、全くのボランティアで、週に3回も行ってくれていたのでした。本当にありがたかった。花子も太郎も柔道に行きたさに、宿題をすませ、洗濯物をたたみ、片付けをして、「連れていってください!!」と、言ったものだった。



次郎は4歳で初めて立ち、つかまりながら歩くようになったけれど、ひとりで歩けるようになったのは、5歳だった。保育園の児童が10人くらい。その保育園児が敬老の日にプレゼントを作るのは100人分という、限界集落で暮らしていた。次郎が立って歩く姿に、涙するお年寄りもいたくらいだ。そして、私にも、「あんたが、ようしてあげたけん、歩けるごとなって、よかったよかった」と言われたものだった。「いえいえ、私はなにも・・・」と口ごもるのだったけれど、見守ってもらって次郎は成長していた。



いよいよ次郎が、小学校に上がるという年。当然、花子も、太郎も、本人の次郎も、地元のみんなが行く小学校に行くと思っていた。だから、私も、その自然な流れで、地元の小学校に通わせたいと思っていた。そう思って選んだ過疎地の小学校でもあったのだが。

当時の校長先生が、難色を示した。次郎は身辺自立が出来ていなかった。まだ、おむつも取れていなかった。校長が次郎の主治医に電話で聞いたらしい。「おむつはいつ、とれますか?」と。主治医は言ったらしい。「私は神ではありません。預言者でもありません。医者です。医者として、今までの経緯はお話し出来ますが、これから起こることを、お話することは出来ません」と。

そして、主治医にそんな電話をしたのちに、私を呼び出して、自分の受け持ちではなかったけれど、地元の小学校に通って、パニックになって、大便を投げて暴れた子どもの話をして聞かせた。その子どもは、支援学校(当時は養護学校と呼んでいたが)に転校して、今では、生徒会長も務める優秀な生徒になっているそうだとも。校長先生は、障がい児の教育は、支援学校に任せた方が安心と言わんばかりだったが、生徒会長をするほどの、優秀な生徒が暴れるほどの、なにがあったのか?と心配になる話ではあった。



そんな話で、気持ちが揺らぐというわけではなかったけれど、招かざる客になるのは、次郎だ。次郎がかわいがってもらえないのなら、支援学校に・・という思いが強まっていったのも確かだ。

まだ、共生・共学でなかった時代の話、車いすの子どもを地元の小学校に!という運動があって、大変な反対に会いながらも、地元の小学校に入学することが出来たのに、学校に行ってから、いじめを受けたという話を聞いたのも、この頃だったかもしれない。「お前は、反対を押し切って、この学校に来たのだから、階段を一人で上がれ!誰も助けるなよ!」といったいじめだったと聞いた。



また、ヘレンケラーがハーバード大学に行った理由も目にした。彼女がハーバード大学を選んだのは「ハーバード大学が私を拒んだから」というのだった。この言葉に、胸のすく思いをしたものだった。



とはいえ、次郎はヘレンケラーではない。どうしていいのか、迷っている時に、太郎は「へっ?なんで、次郎ちゃんだけ、別の学校に行くの?」と言った。私が、「ここの学校じゃ、次郎のこと、どうしたらいいかわかんないんだって。」というと、花子が、「次郎ちゃんは次郎ちゃんのしたいように、すると思うよ。先生のしたいようにじゃなくて」と言った。

私が「次郎はどんな大人になるのかな?」言うと、花子は「次郎ちゃんは次郎ちゃんのなりたい大人になると思うよ」と言った。



私は、子どもたちのこの言葉で、腹が据わった。花子と太郎が待っている地元の小学校にやろう。次郎ひとり、遠い学校に行くことは、次郎が他の子どもから見えなくなるということだ。せっかく、今居るお友だちからも、見えなくなってしまう。子どもたちにとっては、居なくなるのと同じだ。



普通校に行くと決まってから、当時の町の教育長さんが訪ねてくれた。どんな支援が必要か?という話をした。県からの支援学級(教員と予算が付く)は作ってもらえないから、町として、教員の加配(町が雇ってくれる)をしてくれると言う。私は「次郎のために、すいません」と頭を下げた。すると教育長は、「いえ、すいませんと言わんでください。次郎君のためじゃないです。すべての子どもたちのためです」とおっしゃった。

校長とのやり取りで、沈み込んでいた気持ちを、ぐっと押し上げていただいた。本当にありがたかった。



そうやって通えるようになった小学校では、担当をしていただいた先生に、本当にかわいがってもらった。毎日、楽しく学校に通った。行き帰りの500メートルの道が、次郎の歩行訓練になっていた。歩くのはまだまだ苦手で、行きはよいが、帰りが、なかなか、足が進まない。

疲れているから、どうしても、「おんぶ」をせがまれる。そんな時に、畑で働いているお隣のおじいさんが、「次郎さん、よう頑張ったなー。偉いぞーおじいさんが、おやつをあげようなあ、ちょっと、まっちょきない(待っていなさい)」そう言って、お菓子をひとつ、持ってきてくれるのだった。次郎はおじいさんに褒められると、嬉しくて、うちまでの道を頑張って歩きとおすことが出来た。これは、車で遠い支援学校に行ったのでは、得られない経験だ。毎日、次郎は帰り道で愚図り、毎日、おじいさんに私は助けられた。そして、次郎がはじめて、太郎と一緒にお使いをしにいったのも、この隣のおじいさんのお家だった。つくづく、地元の小学校に通ってよかったと今でも、思っている。



なんと、これまでの分で、まだ、次郎は小学校一年生だ! 

すいません<(_ _)>まだ、この話、続きます~