昔、昔。

 私が結婚した頃はまだ、だんなが飲むビールは近所の酒屋さんに配達してもらっていた。

 しかし、だんだん「配達はしないけど安く売る酒店」が増えて来て、昔ながらの酒屋さんはかなり経営が厳しくなってきている、と噂に聞いていた。

 

 そんなある日。

 配達に来た酒屋のおじさんが、こんな提案をしてきた。

 

 前もって1万円預けてもらえば、翌月は無料で配達に来ます、と。

 そのとき配達した分は無料だけど、そのときに翌月分としてまた1万円預けて欲しい、と。

 

 うーん。その論理、おかしいよねぇ?

 そのとき配達した分は無料と言いながら、翌月分を払うなら、結局そのときの分のお金を払ったのと同じだよね?

 

 しかも、翌月分を前払いしてさ、うちがお酒の配達を注文しなくなるとか、その酒屋さんが廃業したらどうするんだ? って、考えるよねぇ? 経営難だって噂は聞いてるし。

 

 そして案の定と言うべきか、それから1年もたなかったよねぇ。夜逃げしちゃうまで。

 ああ、あのとき1万円預けなくて良かったー。預けてから返って来なかったよな、絶対。……と、いうことがあった。

 

 

 

 でも、馴染の酒屋さんだけに、こういうこと言われたら何て言って断るか、すごく難しいところ。

 

 ただ、そのときたまたま、私とだんなはお酒代をめぐって、結婚してから3本の指に入るんじゃないか、というくらいの大ゲンカをしていた。

 理由はただ一つ、だんなが休肝日を作ってくれないってこと。

 そのくせ、世間で適量と言われている分量の、2倍くらい飲む。

 

 

 私の父は、まだ40代で亡くなった。

 死因は、肝硬変からの肝臓がん。

 父は、夜勤のときしかお酒を飲まなかったし、暴飲暴食をするようなお金もなかった。

 

 肝臓を悪くする人全員がお酒を飲んでるわけじゃないし、お酒を飲んでる人全員が肝臓を悪くするわけでもない。

 

 だけど、早くに父を肝臓がんで亡くしているから、やはり週に1度でいいから休肝日を作るか、毎日飲むならせめて適量くらいにしてほしかった。

 

「酒飲みはねぇ、お酒を飲むなとか量を減らせとかって言われることが、何よりも頭に来るんだわ」

 とは、同じ職場で働く人も言っていたことで、だからうちのだんなも、これを言われると怒ってしまってケンカになるのだ。

 私はただ、「健康で長生きしてほしい」だけなのに、だんなは「どうしてそんな意地悪をするのか」と思ってしまうらしい。

 

 

 で、何度も何度もの大ゲンカの末に。

 だんなには毎月酒代として1万円を渡す。

 それ以上に飲みたかったら、好きに飲んでください。

 自分のお小遣いで。配達の電話くらいはしてやるからさ。

 

 ということで、大ゲンカにケリをつけた。

 酒屋さんが、1万円前払いの話を盛って来たのは、この直後のことだった。

 

 なので、

「申し訳ないけど、離婚の危機ってくらいの大ゲンカをして、だんなに酒代を渡すことにしたから。その話は、直接だんなに言ってください」

 酒屋さん、会ったこともないだんなとはやはり話をしたくないらしくて、「そこを何とか奥さんから」と食い下がって来た。

 

 でも、こちらもたぶんお金は返って来ないだろう、って分かってるから、

「その話は蒸し返せないので。本当に申し訳ないけど、だんなに直接言って」

 で、とにかく押し切った。

 

 まあ、結果としてはこれが正解だったわけだけどね。

 酒屋さんが確信犯でやっていたのか、本当に何とかしようとしてならなかっただけなのかは分からないけど、詐欺まがいと言われても仕方のないことだと思う。

 あのとき、お金を出して返って来なかった人もいるのかな、やっぱり。