ラッセンについて4  解剖 ラッセンは青空の大観音(構図について加筆) | 美術作家 白濱雅也の関心事 

美術作家 白濱雅也の関心事 

制作、展覧会、音楽、写真、城などなど
A matter of Shirahama Masaya's concern

$美術作家 白濱雅也の関心事 


ラッセンの絵は薄くて明るくて、そして軽い。あまりにも軽薄で、海の実態を少しでも知っている人ならばこんな海はある一面でしかなく、ラッセンのような海はご都合主義的であると知っている。夜の海や嵐の海を見たことがあるだろうか。実際はかなり恐怖感がある。

$美術作家 白濱雅也の関心事 



そうした厚くて暗くて重い海となれば私はクールベを思い出す。クールベの海はこちらをなぎ倒して来そうで怖い。背景の闇夜は飲み込まれそうな怖さである。その脅威と夜の闇を含んでなお波の造形の美しさや色の複雑な深さを伝え自然の力強さを伝えてくる。そうした単なるリアリズムだけではなく、日本人ならばこの海を見て自然との深い関わりを感じるであろうし、またそこに人生の陰影を投影するであろう。

専門外の人にもわかるように、この二つの絵を実際に比べてみる。
まずモノクロにしてみよう。モノクロにするとレントゲンのようにその絵の骨格が見えるのである。

$美術作家 白濱雅也の関心事 



$美術作家 白濱雅也の関心事 



ラッセンの絵はほとんど昼間のようである。白夜のようでもある。ラッセンの絵には夕景や夜景が多いのではあるが非常に明るい。海と言うよりも照明の完備された水族館である。
ほとんどが中間明度で白が多用され、コントラストが弱い。ソフトな調子である。
クールベの海は曇天にもかかわらず夜のようである。白から黒までのコントラストが強く、激しい調子である。
実際にこうしてみると違いは歴然で私も改めて驚いてしまう。

次に構図を見てみよう。

風景の場合、遠景、中景、近景を組み合わせて画面構成するのが定石である。写真をやっている方ならよくお分かりと思う。ラッセンの絵はこの三つを組み合わせていて非常に安定感がある。広角レンズ的に主題を中継に遠目において、一定の距離感を保っているし、木々に護られてこちらの存在すら明かさないようになり、見ている人は常に安全な場所にいて海の恐怖を感じさせるところはないのである。
これに対してクールベは中景、遠景のみ、望遠系のレンズのみで撮ったような構図で、見るものは海の只中に放り投げ打されたような感覚を覚える。クールベは自然の猛威、人間の小ささを迫真で迫るよう工夫しているのである。

クールベの構図をもう少し分析してみる。
水平線を定石破りで上下二等分においている。こうすると普通は単調になってしまう。しかし対象を正面から見る水平の視線となる。波と対峙する視点を誘導しながら、そこを波涛の曲線で分断する。波濤に導かれた視線は外に向かうことなく、右下のしぶきの中で付き戻される。背景の雲は斜線構図に取られ不安感を煽る。左下の波濤も斜線構図をとり雲と共に水平線の左端に視線を誘導する。こうして視線は左右、前後に循環する。
実は何気なく選んだ一枚であるが、さすがはクールベ。実に計算されていて、緻密である。

$美術作家 白濱雅也の関心事 


ラッセンを見てみよう。
波が幾重にも打ち寄せているが、基本は水平方向で安定している。
月を中心に同心円上にグラデーション状に明度が落ちて行く。暗がりに囲まれた中が光が満ちていて水平方向に安定した世界が広がっている。視点は波、月、浜辺の反射と垂直に穏やかに移動し、安らぎを生むように考えられている。


$美術作家 白濱雅也の関心事 


どちらがいいということではなく、それぞれに意図に合わせた構図が取られていて、これはこれでいい。ただ、ラッセンは単調でダイナミズムといういう点ではクールベに軍配が上がる。


今度は色彩だけを見てみよう。フォトショップを使ってカラーチャートを作る。

ラッセン
$美術作家 白濱雅也の関心事 


クールベ
$美術作家 白濱雅也の関心事 



ラッセンは軽くて極彩色。非常に彩度が高い。子供のおもちゃのような色彩。クールベはコントラストが高く低彩度。まあ爺さんのような色彩。
黒に注目して欲しい。ラッセンの絵には黒はほとんどない。クールベにはかなりの種類が使われている。(このテーブルは面積比は必ずしも反映されていない)

クールベの海には、海の持つ光と闇の両面がある。この闇は、自然の脅威であるばかりでなく、人間の心が持つ闇であり、社会の影であり、無常であり、逃れようのない死へとつながるものである。しかしラッセンの海にはこの闇がほとんどない。暗がりがあってもすぐ脇には燦々とした光が差している。
いったいこの闇はどこへ行ったのか。

モンドリアンの黒い線は絵画の骨のようである。この骨に死と闇は連れて行かれたたのではないか。骨は死や闇とは親和がある。
近代、特に抽象絵画にはこうした闇を象徴する黒やモノトーンがたびたび現れる。
スーラージュ、ミショー、ブラック、ノルデ、
その行き着いた先はロスコ、ラインハート、ステラである。
ここには光がない。暗闇のような死に限りなく近い世界である。

ロスコ
美術作家 白濱雅也の関心事 


ラインハート
美術作家 白濱雅也の関心事 



ステラ
美術作家 白濱雅也の関心事 



制作をしているとこういう地点に到達しそうになる。実際に死なずとも死への誘惑である。近代絵画理論に影響を受けてこういう袋小路に入ってしまった人はたくさんいる。
実際にロスコは死んでしまった。
近代には極端な浄化作用、蒸留作用の影でこのような窒息しそうな絶対死のような作品が生まれてくる。ケージの4:33も、デレクジャーマンのBlueも、(ゲームのことはくわしくないが)飯野賢治の「風のリグレット」もそういう傾向だったように思える。
(こうした近代美術の分裂についての見方は、西側社会の近代美術の高級アートと東側の社会主義リアリズムのキッチュアートに分裂したとの主張する、彦坂尚嘉氏の教示にその多くを依っています)

ステラは自分の出発点を自己解体することで、この袋小路を脱していった。(後半のステラの作品のけばけばしさはラッセンにも通じている)

ステラのレリーフ絵画
$美術作家 白濱雅也の関心事 



モンドリアンが海の絵を描いた少しあと、1920年頃にカラー印刷が発明されている。(ちなみに世界初の多色印刷は日本の浮世絵らしい)写真とともにイラストレーションが大きな力を持ち出したと想像できる。骨と闇を除かれた絵画の血肉(描写、装飾、網膜的色彩)はイラストレーションやデザインのなかで資本(金)、広告、マスとともに生き残ったのである。確かにイラストレーションやデザインでは死や暗闇は希薄であり一種のタブーである。
この血肉を接合再生したラッセンの絵は、死や闇のDNAを持っていない一種のサイボーグでもある。またラッセンが「イラストでしかない」と非難されるのはこうしたDNAを孕んでいるのではないか。
イラスト/芸術絵画、アート/娯楽アトラクションを分けるものとしてこの「死と闇」のDNAの存在があると私は思う。



ここで奇妙な倒錯があることに気付く。
ラッセンについて2で書いたように、カジュアルアートには救済を求めるような宗教性がある。
しかしそこには死や闇がない。宗教性のもう一つの重要な要素である死と闇(悪)は近代美術に付随した。
宗教性がアートにおいて分裂しているのである。
近代絵画は死と闇を孕みながらその拠り所を宗教から科学に変えたのである。

宗教性の本質は死と闇と向き合い、それに屈せずに自己のあり方を強化し乗り越えようとするものである。一方で布教が広まる中で本質が潜み、通俗化、形骸化し、縁起を願い現世利益を都合良く求めるものへと変質する。仏教であれば遠い将来の彼方に救済に現れる「菩薩」信仰である。その菩薩信仰の形を借りて一儲けしようとしたものが「大観音」である。ラッセンの作品は「大観音」のようでもあるのだ。大観音は宗教テーマパークだ。そもそもお伊勢参りなどの宗教行事は江戸時代にはかなり娯楽だった。
「大観音」は時代の移り変わりとともにだいぶ色褪せて衰退してしまった。ラッセンの寿命はまだ続いている。同じように色褪せていくのだろうか。

$美術作家 白濱雅也の関心事 



近代絵画以降の終着の一つが絵の墓場だとするならば、もう一方のカジュアルアートの行き着く先はどこだろう。阿片窟かディズニーランドのようなテーマパークなのだろうか。
ラッセンの絵はテーマパークである。というのは確かである。しかしそれだけではちょっと簡単すぎて、まだなにかがあるような気がしてどうももやもやする。
ラッセンの絵の核心、あの押しの強さと吸引力はなにか。

その答えはラッセン展をみて発見したのである。やはり実物は見なければならない。
だいぶ長くなりましたね。次はかなり結論に迫れると思います。

感想など歓迎です。