春はあけぼの
やうやう白くなりゆく山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜
月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかに光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮
夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、
三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。
まいて雁などのつらねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて
雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、
またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして炭もてわたるもいとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

 

平安時代中頃、清少納言さんが書き綴った「枕草子」の冒頭です。

人の言動や心から自然まで、日本最古の観察感想日誌、いわゆるエッセイですね。

昨日の「すきなもの」の流れで、今日は清少納言さんの好きなものを記載してみましたが、

今から千年以上も前のものですが、感性に昔も現代もないんですね。

 

「794 鳴くよウグイス平安京」 
藤原氏の数が圧倒的に多く、

天皇の側近をはじめ政権を独占するようになっていた時代です。
この藤原氏の「初めの人」というと、「大化の改新」で有名な中臣鎌足さんです。

聖徳太子さんが亡くなった後、また統制が取れなくなり、

天皇中心の政治を目指した中大兄皇子さんと中臣鎌足さんは、

共に蘇我入鹿さんを倒し、中臣鎌足さんはその功績を認められ、

天智天皇となった中大兄皇子さんから、藤原という氏(家柄ですね)をもらい、

藤原鎌足さんとなりました。

そこから繫栄し、南家、北家、式家、京家の藤原四家となるまでになりました。

誰がどこそこへ嫁ぎ、誰それが婿になって、一族は全国へと広がって行きました。

奥州藤原氏はこの北家の流れだそうです。


清少納言さんが宮仕を始めた頃は、北家の藤原道隆さんという、

藤原道長さんのお兄さんが仕切っていました。
平安初期はイケメン歌詠み人の在原業平さんが一番人気でしたが、
平安中期は藤原道隆さんがイケメンで歌が上手いと人気だった様です。

その藤原道隆さんが34歳くらいで亡くなった後は、

実弟の藤原道長さんが権力を引き継いだんですが、
道隆さんの息子の藤原伊周さんとその時に対立し、

伊周さんは罪を着せられて、流罪になったんだそうです。

藤原道長さんは物静かな印象の裏には、激しい顔を持つ人です。
ちなみに、藤原道隆さんの死因は天然痘だったとか、

お酒で体を壊したとか、はっきりしなかったみたいです。

 

清少納言さんが枕草子を書いた時期、

藤原道長さんが平安貴族のなかで権力№1の頃で、

道長さんは歌がすきだったので、歌会も盛んだった様です。
25歳頃に離婚した清少納言さんはその後、

一条天皇の奥さんの、定子さんのもとにお仕えしたんですね。

定子さんは藤原道隆さんの娘さんです。
でも、藤原道隆さんが亡くなり、弟の藤原道長さんが実権を握ると、
道長さんの娘の彰子さんを天皇に嫁がせたので、内部抗争になりました。

もともと藤原道隆さんは定子さんをゴリ押しで皇后の座にねじ込んでいましたので、
同じ様に権力№1となった道長さんも、まだ12歳くらいの彰子さんをねじ込んだので、
一条天皇の奥さんが2人になってしまったんですね。
お産が元で定子さんが亡くなると、正妻は彰子さんということになったんですね。

それからもゴリ押しを続け、娘たちをねじ込んでいった道長さんは、
「この世をば 我が世とも思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この世界は自分のためにある、自分の権力や盤石はこの満月みたいに欠けがない。
という意味の、驕りゴリゴリの歌を詠んだ様です。
でも、そのあたりから病が悪化してゆき、娘さん達も次々に亡くなったことから、

お決まりの祟りじゃ、呪いじゃと言われていた様ですが、今でいう糖尿病だったそうです。

そして、寂しい中62歳で亡くなられた様です。

 

話が長くなりましたが、
その藤原彰子さんに仕えたのが紫式部さんで、定子さんに仕えたのが清少納言さんでした。

清少納言さんは、28歳頃から2年ほど定子さんに仕えたとされています。


さて、今回はその清少納言さんを拝見しました。

本名は清原 諾子さんというらしいです。
15~16歳くらいで、橘則光さんという下級貴族へ嫁がれ、
その時橘則光さんは、一つ年上の16歳か17歳くらいだった様です。
橘則光さんは、武芸には優れてはいましたが、

歌詠み人からはほど遠く、センスのかけらもない、無骨者だった様です。
本当にこのお名前だったとしたら、そうだったと思います。
短気ですが、少しおっちょこちょいで、でも親切で良い人だったと思います。
下級というくらいですから、それほど裕福ではなかったのでしょう、

お金や野望、権力を望む気持ちがとても強かった人の様に思います。
お酒が入ると、しつこいというか、日頃の不満からか、人に絡む様な面があったと思います。

雅で派手、華やかさといった世界にあこがれる、才気あふれた清少納言さんは、

あまりかしこくない橘則光さんをどこか下に見ていたのかもしれません。
清少納言さんのはっきりした言動は的確過ぎて、ズバリ相手の心の的を射抜くので、
橘則光さんが望む、癒し系の女性でなかったのだと思います。

お互いに求めるものが違い過ぎたのだと思います。
10年後に離婚したとありますが、どちらからともなく、自然消滅的な形に感じます。
清少納言さんは学問や歌に、橘則光さんは別の女性に安らぎ求めていった感じです。
お二人の息子さんは歌人となった様で、お母様似だったんですね。

 

面倒見が良く姉御肌で、一途で正義感にあふれた清少納言さんは、

定子さんへの理不尽な扱いに憤慨し 「私が守ってあげないと」と感じていた様です。

彰子VS定子の様になり、紫式部VS清少納言の様になり、
清少納言さんは、気が強くプライドが高いと言われていた様ですが、

定子さんに肩入れするあまり、敵対心丸出しの時もあったのかもしれませんね。


定子さんがなくなった後、しばらく摂津に身を寄せていたとされ、
そこで二番目のご主人、藤原棟世さんと知り合ったと、清少納言集に記載がある様です。
すでに清少納言さんの勢いも過去のものでしたが、その名は地方へも知られていたと思います。
地方へ行っても、歌や書き物への情熱は残っていたのだと思います。
そんな時に藤原棟世から「素敵です~尊敬しています~教えて欲しいです~」

という様なやり取りがあれば、心沸き立ったと思います。
あくまでも想像の世界ですが・・。
親子ほどの年齢差だったと残っている様ですが、清少納言さんは34歳くらいの時の様です。

まるで「中学聖日記」の様ですが、男性でも16.7歳で結婚する時代です。
しかし、藤原棟世さんは、本当にこのお名前であれば「浮気者でチャラ男です。
藤原棟世さんは、さほどイケメンではないのですが、「やさ男」でセンス良く、

若い子特有の、爽やかな男の色気があり、モテルお人だったと思います。
清少納言さんの方が、どんどん惹かれてゆき、好きで仕方なかったのだと感じます。

もしかしたら初めて、心底好きになった男性だったのかもしれません。
娘さんが生まれてますから、藤原棟世さんと結婚したとなっている様ですが、

棟世さん、他に奥さんの様な女性が居たと思います。
平安はまさに自由恋愛の時代ですから、今の様にがんじがらめでもなかったのだと思います。

 

いつも政権や野望に利用されてきた女性たち、そんな政略結婚は今も続きます。

1300年経てもまだ変わりません。

女性の幸せって何でしょう。

家庭でしょうか、仕事でしょうか、恋愛でしょうか。

人と生きることでしょうか、ひとりで生きる事でしょうか。

自由意思で、それを選べる事が幸せな事なのだと思います。

清少納言さんは思う様に生きることができた、数少ない幸せな女性だと思います。