平成23年の秋、勤務先にJ毛新聞社の記者Nさんが来校。それは、依頼された群馬の城(戦国城郭)を紹介する特集記事の執筆・編集に関する打ち合わせのためでした。
その結果、数ある群馬の城の中から6つをピックアップして記事をまとめることになりました。ただし、その時点で私が真っ先に考えたのは名胡桃城を記事の6城の先頭に据えることでした(参照:名胡桃城のメジャー化を目論んだ私の執筆活動:その1)。この件につきましては、予めNさんに快諾を頂きました。
その次に考慮することになったのが地域バランス。群馬県の伝統的な地域区分を意識しながら、残る5城を次の通り選定させて頂きました。
北毛: 名胡桃城(先に確定) 岩櫃城
西毛: 箕輪城 国峰城
中毛: 上泉城
東毛: 金山城
取り上げた計6城について、数的には北毛・西毛に偏っているように思われがちでしょうが、利根川を基準にした場合、その西側は北から名胡桃城・岩櫃城・箕輪城・国峰城の4城、東側は上泉城・金山城の2城とその差は縮まります。
あれあれ
そんなことはどうでもいいことですよね
だいぶ前置きが長くなってしまいました
私の記事が掲載された新聞の表紙 平成24年1月24日付のJ毛新聞。私が執筆させて頂いた記事を含む新聞の表紙を飾っていただいたのは、高崎ご出身のタレントJOYさんでした。
それでは、名胡桃城以外で私がピックアップした5つの城について、当時J毛新聞社編集部さんに提出させて頂いた原稿をそのまま紹介させて頂きます。
岩櫃城
●城の説明(40字程度;1行以内)
「武田領内の三堅城」の一つと称賛され、武田勝頼を迎え入れる御殿まで築かれた戦国大城郭。
●城址データ
◇所在地 吾妻郡東吾妻町大字原町
◇区 分 山城
◇城 主 吾妻氏?、斉藤氏、真田氏(幸隆・信綱・昌幸・信幸)
◇年 代 南北朝時代?~慶長19(1614)年
◇その他 岩櫃山南麓に残る潜竜院跡(東吾妻町大字郷原字古谷)は、天正10(1582)年に岩櫃城主真田昌幸が、織田・徳川連合軍に攻められていた武田勝頼を迎え入れ、再挙を図るために築造した御殿の遺構と推定。
●城に最も関わりの深い武将の名前(原則1名)
真田幸隆(1513~1574)
●本文(最小200字、最大550字:目安は最小5行、最大14行)
「吾妻八景」の一つに数えられる岩櫃山(802m)。岩櫃城は、その南面に聳え立つ岩肌を要害に見立て、山の中腹東面に築かれている。なかでも、本丸・二の丸などの牙城部分から続く傾斜地に放射状に掘られた長大な竪堀は圧巻である。竪堀は、攻め上る敵兵の自在な動きを遮ると同時に、城兵を牙城から出撃させる通路として積極的に用いるための工夫であり、戦国城郭特有の攻撃的な性格を象徴している。また、城域東方の台地には、後に移築されて現在の原町市街の原型となった「平川戸」と呼ばれる城下町が営まれていた。
城の起源については、吾妻太郎の伝説と結び付けられることが多いが、実際には憲行に始まる斉藤氏の時代に築かれたとされる。戦国時代末期の永禄6(1563)年、武田信玄は上州侵略を企み、信濃国小県郡から出た重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命令。幸隆は謀略を駆使して城を奪取し、城主斉藤憲広を追放した。なお、真田軍の旗印に「六連銭(後に六文銭に転訛)」を用いたのは幸隆が最初とされる。以後、幸隆は武田氏から吾妻郡代を任され、岩櫃城主に君臨。岩櫃城は、孫信幸(1566~1658)が沼田城を手にするまでの間、真田氏の上州における主城、そして沼田城を攻略するための最重要拠点とされた。信幸の弟で猛将の呼び声高い幸村(1567~1615)も、少年時代を岩櫃城で過ごしたと言われる。
●アクセス(70字程度;最大1行半以内)
関越道渋川伊香保ICから国道17号・353号・145号を道なりに進行。原町市街外れの陸橋手前を左折し、次の三叉路を右折して道なりに進む。駐車場あり。車で約45分。
◎写真のタイトル 「真田昌幸が武田勝頼を迎え入れようとした御殿の遺構『潜龍院跡』」
※この写真は平成23年12月25日に現地で撮影したものです。先日のNHK大河ドラマ「真田丸」で岩櫃城がとり上げられた際、最後の史跡紹介でこの潜龍院跡がチラッと登場しました。皆さん、覚えておられますか?
箕輪城
●城の説明(40字程度;1行以内)
武田信玄の侵攻を何度も挫いた堅城として知られ、後に高崎城の起源となった戦国大城郭。
●城址データ
◇所在地 高崎市箕郷町西明屋
◇区 分 平山城
◇城 主 長野氏、内藤氏(武田氏城代)、北条氏邦、滝川一益、井伊直政
◇年 代 永正9(1512)年?~慶長3(1598)年
◇その他 長野業政の墓が長純寺(高崎市箕郷町富岡)の境内に安置されている。
●城に最も関わりの深い武将の名前(原則1名)
長野業政(1491~1561) ※「業正」と書かれることも多い。
●本文(最小200字、最大550字:目安は最小5行、最大14行)
箕輪城は、榛名白川左岸の段丘崖を要害に見立て、その上部に築かれた大城郭である。城域を南北に隔てる大堀切はそれに相応しい遺構で、発掘調査でいくら掘り下げても堀底に至らなかったという。
弘治3(1557)年以降、武田信玄は西上州への侵攻を繰り返したが、城主長野業政は西上州の武士を束ねた一揆(箕輪衆)の頭目として徹底抗戦。鷹留城(高崎市下室田町)を始めとした支城網を駆使し、いずれも撃退。信玄に「業政がいる限り上州は攻略できない」と言わしめた。業政は、主君に仰ぐ上杉憲政が北条氏に本城の平井城を追われた後も忠節を尽くし、北条氏や武田氏と戦い続けた孤高の名将である。
しかし、業政が72歳で病没し、子の業盛が14歳で家督を継いだのを機に、信玄は西上州侵攻を再開。次々と支城を攻略された箕輪城は孤立し、永禄9(1566)年陥落した。城を枕に自害して果てた業盛は辞世の句で、滅び行く長野氏一族を春風に散る梅の花に準えたという。梅は古来、箕郷町のシンボルである。
その後、武田氏は、足掛け10年で攻略した箕輪城を上州支配の拠点として重視し、重臣を城代に任命。天正18(1590)年徳川家康が北条氏に代わって関東に封じられると、城主には徳川四天王の一人井伊直政が据えられた。秀吉没後の慶長3(1598)年、直政が和田城(修築後に高崎城と改称)に移ると、箕輪城は廃城となった。
●アクセス(70字程度;最大1行半以内)
関越道前橋ICから県道前橋・安中線を安中方面へ。「浜川町」の信号を右折後、「西明屋」の信号を左折し、次の信号をすぐ右折。「箕輪小学校前」の信号を右折し、約600m先の三叉路を左折するとすぐ左手に入口。二の丸跡に駐車場。車で約30分。
◎写真のタイトル 「戦国大城郭に相応しい箕輪城の大堀切」
※この写真も平成23年12月25日に現地で撮影したものです。
上泉城
●城の説明(40字程度;1行以内)
不世出の剣聖にして新陰流の開祖上泉伊勢守信綱が生まれ育ち、城主を務めた戦国城郭。
●城址データ
◇所在地 群馬県前橋市上泉町1168番地
◇区 分 平城
◇城 主 上泉氏
◇年 代 康正元(1455)年?~天正18(1590)年前後?
◇その他
①西林寺(一の郭跡)には、信綱のもの、もしくは嫡男秀胤のものとも伝わる墓が安置されている。
②信綱が木刀の代わりに考案した袋竹刀は、叩かれても負傷しないように竹の上半分を8~16に割って革袋に入れた竹刀であり、現在剣道で用いる竹刀の起源。
●城に最も関わりの深い武将の名前(原則1名)
上泉伊勢守信綱(1508?~1577?) ※武勇を知った信玄から一字授かり、秀綱から信綱に改名したとされる。
●本文(最小200字、最大550字:目安は最小5行、最大14行)
上泉城は戦国時代に赤城山南麓一帯を支配した大胡氏の支城で、旧利根川(現桃木川)を要害に見立て、その左岸に流れ込む藤沢川との合流部に築かれた。東西600m・南北400mに及ぶ城域は全体的に遺構の改変が目立つものの、郷蔵(県重文)の建つ本丸跡が辛うじて往時の面影を偲ばせる。
城・城主の起源については、大胡氏を再興した京都の一色義秀が康正元(1455)年、大胡城に近い当地に築城して移住し、上泉氏を名乗ったという。その曾孫で4代城主秀綱は関東管領上杉氏に仕えていたが、天文21(1552)年に憲政が越後に逃れると、箕輪城主長野業政・業盛父子に属した。秀綱は上州侵略を狙う武田信玄や北条氏康の大軍を相手に奮戦し、業盛から「上野国一本槍」の感状を賜った。
永禄9(1566)年に信玄と箕輪城で戦うが敗北。信玄からの仕官要請を固辞し、自ら創始した剣術の流派「新陰流」を広めるために上京した。以後、秀綱は多くの門下生を抱えたが、その一人が後の新陰流の継承者柳生宗厳(1527~1606)である。入京後、信綱は剣豪将軍足利義輝に剣技を指導し、「兵法新陰、軍法軍配天下一」の称号を賜ったほか、正親町天皇の御前で演武を行い、御前机下賜、従四位下昇叙という栄誉に輝いた。それ以後、新陰流は多士済々の剣豪を輩出。日本を代表する剣術流派に上り詰め、今なお生き続けている。
●アクセス(70字程度;最大1行半以内)
関越道前橋ICから国道17号を経由し、「千代田町三丁目」の信号を右折して県道3号線へ。約3.5km東進し、桃木川の橋を渡って左折。上泉町自治会館(二の丸跡)に駐車場。車で約15分。
◎写真のタイトル 「上泉城本丸跡を背にして構える上泉伊勢守信綱の銅像」
※銅像の後ろに見える建物が、寛政年間に本丸跡に建てられた郷蔵。銅像は上泉伊勢守 信綱の生誕500周年を記念して上泉町自治会館の敷地内に建てられた。銅像の高さは約2m。自ら考案した袋竹刀を手にした信綱が、どんな状況にも応じられる「無形の位」の構えで立っている。なお、銅像を制作したのは前橋市の彫刻家桑原秀栄氏。
※この写真は平成23年12月24日に現地で撮影したものです。地元では上泉伊勢守を「剣聖」として再評価する活動がさかんです。
金山城
●城の説明(40字程度;1行以内)
上杉謙信の猛攻を凌いだ難攻不落の戦国大城郭。城郭史研究の定説を覆した本格的な石垣。
●城址データ
◇所在地 太田市金山町・長手町・東金井町など
◇区 分 山城
◇城 主 岩松氏、横瀬氏(改姓して由良氏)、清水正次(北条氏の城代)
◇年 代 文明元(1469)年~天正18(1590)年
◇その他
①落城後の金山には赤松が多く生え、将軍家や皇室に献上されるほど有名な松茸の名 産地に。
②全盛期の城主由良成繁の妻妙印尼は、天正12(1584)年に金山城が北条氏に攻撃さ れた際、71歳で篭城戦を指揮した女傑。忍城攻防戦で戦功を上げ、後に豊臣秀吉の 側室に入った甲斐姫はその孫。
●城に最も関わりの深い武将の名前(原則1名)
由良成繁(1506~1578)
●本文(最小200字、最大550字:目安は最小5行、最大14行)
金山城は、太田市のシンボルである金山(235.8m)に築かれた大城郭である。城域は金山のほぼ全域に及び、97.8haが国の史跡に指定されている。公園として整備された山頂部には、最高所の本丸を中心にヒトデ状に延びる尾根を造成した数々の曲輪のほか、堀切・土塁などの遺構が随所にみられる。また、尾根の先端に配された各々の出丸が城の防御を固めている。
本丸跡の建つ新田神社の北西側などに石垣が残っていることから、「戦国時代の関東の山城に石垣はない」とする城郭史研究に一石を投じてきた。近年の発掘調査の結果、堅固な石垣をはじめ、石敷き通路・階段、石組み排水路などが広範囲で出土。金山城は石材を多用した希少な戦国城郭であることが証明された。
新田義貞の築いた砦が金山城の起源と伝わるが、実際には文明元(1469)年に新田氏一族の岩松家純が長楽寺(太田市世良田町)の僧に縄張りを任せて築いたとされる。まもなく横瀬泰繁・成繁父子は下剋上を果たし、享禄元(1528)年頃岩松氏から金山城を奪取。由良に改姓し、正式に東上州の戦国大名として名乗りを上げた成繁は、城主として天正2(1574)年に上杉謙信の猛攻を凌いだ。以後、金山城は難攻不落の城として名を馳せ、関東七名城の一つに数えられた。天正12年に金山城は北条氏に明け渡されたが、まもなく豊臣秀吉に敗れた北条氏と運命をともにした。
●アクセス(70字程度;最大1行半以内)
北関東道太田桐生ICから県道316号線に進んで太田駅方面へ。「東今泉」より一つ先の信号を右折し、道なりに進行すると案内板あり。山上に駐車場。車で約15分。
◎写真のタイトル
候補1 「金山城本丸跡に残る本格的な石垣の遺構」
候補2 「金山城の聖地とされる『日ノ池』」
候補3 「金山城の歴史を見守った樹齢800年の大ケヤキ(御台所曲輪)」
※これらの写真は平成23年12月29日に現地で撮影したものです。なお、候補3は掲載を見送りました。
国峰城
●城の説明(40字程度;1行以内)
北条・武田両氏の西上州侵攻を援け、小幡氏を西上州の有力武将に育てた戦国城郭。
●城址データ
◇所在地 甘楽町国峰
◇区 分 山城
◇城 主 小幡氏
◇年 代 仁治元(1240)年?~天正18(1590)年
◇その他 宝積寺(甘楽町轟)の境内に小幡氏代々の墓、崇福寺跡地(甘楽町小幡)に 織田信雄以下織田宗家七代の墓がそれぞれ安置されている。
●城に最も関わりの深い武将の名前(原則1名)
小幡信貞(1540~1592) ※信実とも。
●本文(最小200字、最大550字:目安は最小5行、最大14行)
国峰城は、群馬サファリパークの南に聳え立つ城山(434m)を要害に見立て、在地豪族小幡氏によって築かれた戦国城郭である。城域は山頂に築いた主郭と東西に伸びる尾根を掘り切って連ねた郭群で構成され、周囲の斜面には竪堀が放射状に張り巡らされている。北東中腹に階段状に連なる郭群「御殿平」は、城主小幡氏の居館跡や家臣の屋敷跡と見られる。
小幡氏は関東管領上杉氏を後ろ盾とし、相次ぐ関東の争乱の最中で勢力を拡大。箕輪城主長野氏と並ぶ西上州の有力武将に成長した。しかし、天文15(1546)年河越夜戦で上杉憲政が北条氏に敗れると、小幡憲重(生没年不詳)は上杉氏から北条氏へと離反。天文21(1552)年に憲政が越後に亡命すると、憲重は子信貞とともに武田信玄に臣従。信貞は義父長野業政と袂を分かち、信玄の西上州侵攻で先鋒を務めた。赤備え騎馬隊を率いて奮戦した信貞は、武田二十四将の一人として名高い。
天正10(1582)年に武田氏が滅ぶと、信貞は織田信長の軍門に降った。同年、本能寺の変で信長が横死すると北条氏に従った。しかし、天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家らに国峰城を攻め落とされ、信貞は旧友真田昌幸を頼って信濃に亡命。上州小幡氏は本領を失った。後に小幡氏の旧領を与えられた信長の二男信雄は、7代約150年間続いた小幡藩主織田氏の先駆けとなった。
●アクセス(70字程度;最大1行半以内)
上信越道富岡ICから県道46号に入り、「善慶寺」の信号を右折。次の「善慶寺原」の信号を左折し、長善寺前をさらに左折するとすぐ城山入口の案内杭。車で約15分
◎写真のタイトル
候補1 「国峰城主の居館跡とみられる『御殿平』」
候補2 「城山の山頂に築かれた国峰城本丸の遺構」
※この写真は平成23年12月25日に現地で撮影したものです。J毛新聞の紙面に掲載されたのは候補1(居館跡)でした。
そもそも中世城郭に関して不勉強であった私でしたが、当時はこの記事を仕上げるために猛勉強。そして、ねむの会の仲間に声をかけ、実際にあちこちの城をめぐりました。そこで感じたことは、群馬県の文化財保護行政のだらしなさでした
あっ、言っちゃった
でも、最後まで言わせてください
とりわけ最後に紹介させて頂いた国峰城に至っては、その城主小幡氏は箕輪城の長野氏と並ぶ西上州の有力武将であるにも関わらず、それを文化財として積極的に保護しようという行政側の姿勢がほとんど感じられません。本丸跡に向かう山道は転落や落石の危険を伴うほど管理が杜撰で、そもそも案内板もお粗末でした(毒舌失礼)
縄文・弥生時代や古墳時代の考古学オタクだけが喜びそうなくだらない、金太郎飴みたいな遺跡の発掘などに余計な税金を投入せず、戦国時代から近現代の史跡の整備を充実させてもらいたい
あっ、また言っちゃった
このヘンでやめとます
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