愚将十奸 ~帝国陸海軍の名誉を貶めたトンデモない将校たち~


其乃漆:騙して死なせた特攻隊員を慰霊した顰蹙軍人 菅原道大 陸軍中将


1 陸軍航空隊の歩みに深く関与


 菅原道大(すがわらみちおお)陸軍中将は、明治21(1888)年11月28日に長崎県南高来郡湯江村で小学校教員の父道胤の息子として誕生。高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て明治40年12月に陸軍士官学校に21期生として入校。同校歩兵科を卒業した後、明治42年12月に歩兵第4連隊付に配属。その翌年、日本最初の動力飛行を見学したのが契機となり、菅原は航空に関心を持つようになりました。

 

 菅原道大 陸軍中将 
特攻を推奨した以上、海軍の大西瀧次郎海軍中将とともに断罪されるべき軍人です(参照:愚将十奸 其乃陸:大西瀧治郎 海軍中将)。


 さらに、菅原は陸軍大学校で学んだ後、大正10(1921)年に陸軍省副官、そして大正14年3月に歩兵第76連隊の大隊長に就任。さらに同年5月、宇垣軍縮に伴い、陸軍航空科が独立すると、菅原は転科を志願。航空少佐として飛行第6連隊に配属。同隊で航空勤務に服した後、同年12月に再び陸軍大学校に専攻学生として入学。


 同校卒業後、菅原は陸軍航空本部員に着任。以後、昭和3(1928)年4月から翌年1月まで航空研究委員会幹事、昭和6年8月から下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員をそれぞれ勤めました。


 昭和10年3月に航空本部第一課長に昇任。翌年1月から8月まで飛行第6連隊、航空本部で航空勤務に服した後、昭和11年10月から翌年2月まで欧州に出張。それはドイツの航空軍備状況の視察が目的とされ、「菅原航空視察団」と呼ばれました。


 以後、菅原は昭和12年8月に第2飛行団長、翌年7月第3飛行団長、翌々年10月陸軍航空総監部付、12月下志津飛行学校長を経て、昭和15年8月に第1飛行集団長に昇任するなど、陸軍における航空部門の要職を歴任。陸軍航空隊の歩みとともに、順調に軍歴を重ねました。



2 第3飛行師団長として「徹底的大打撃」を企図


 菅原は昭和16年9月に第3飛行集団長(直後に「第3飛行師団長」に改組)に就任。その直後の12月に日米両軍が激突。菅原はマレー半島方面の航空作戦の指揮を任されました。


 当時、菅原の配下には、パレンバン精油所制圧作戦に成功した空挺部隊のほか、「軍神」加藤建夫の活躍で知られた飛行第64戦隊(通称「加藤隼戦闘隊」)など、開戦当初多大な戦果を収めた空戦部隊が存在。そうした部隊の華々しい活躍もあって、菅原は陸軍内において秀逸な航空部隊の指揮官として頭角を現しました。


 ところが、次第に戦況は悪化の一途をたどり、日本軍は苦境に立たされました。


 そして、昭和19年3月、厳しい戦況の下、航空総監兼航空本部長安田武雄の更迭に伴い、菅原は航空総監部次長に着任。この頃、すでに参謀本部でも体当たり攻撃、つまり特攻の是非について議論が始まっていました(なお、安田が更迭されたのは体当たり攻撃に異論を唱えたことが一因とされています)。

 そして、菅原は昭和19年7月、東條内閣の退陣に伴い、航空総監兼航空本部長に就任。その直後、菅原は日記で「今や対米勝利を得がたしとするも、現状維持にて終結するの方策を練らざるべからず。之れ、最後に於ける敵機動部隊に対する徹底的大打撃なり」と記しています。


 読者の皆さん、お気付きでしょうか?


 この「徹底的大打撃」の正体こそ体当たり攻撃、つまり特攻そのものです。なぜなら、現有兵力をもって敵軍に大打撃を与えることができる有効な作戦は、特攻以外に見当たりませんでしたから。


 そして、海軍が「神風」特攻隊を最初に出撃から3週間後の昭和19年11月12日、
陸軍も初の特攻隊「万朶隊(ばんだたい)」を出撃。



 九九式双発軽爆撃機
 帝国陸軍の爆撃機の一つで、大東亜戦争
末期には、胴体に爆薬を搭載し、特攻機として使用されました。


 以後、12月までレイテ湾への出撃を繰り返し、多数の戦果が報じられました。ただし、その真偽は不明です。



3 「最後の一機で後を追う」という大ウソ


 陸軍の特攻の様子が報道されると、菅原は日記に「海軍の真似の感ありて打つ手遅しか」「特攻隊の二、三の戦果に気勢を揚げて自己陶酔に陥るは避けざるべからず」などと、自ら推奨した特攻作戦を皮肉ったような記事を書き残しています。


 同年12月、菅原は第6航空軍司令官に就任。翌年3月、沖縄戦が始まると、第6航空軍本部は福岡市に移り、菅原は沖縄方面への特攻作戦の指揮を執りました。でも、特攻隊の編成を整えることができず、海軍から批判を浴びました。


 同月26日、沖縄方面への水上攻撃を目論んだ「天一号作戦」が下達。菅原は当時の日記に、準備不足が否めないなかで実行される特攻作戦に対し、「然し未熟の若者を只指揮官が焦りて無為に投入するは忍び得ざる処なるが、片や戦機は如何。敵の上陸を目前に、特攻隊に両三日の訓練を与うとして、著しく戦力の向上を期し得るや否や」と記述。若輩で未熟な特攻隊員の指揮を執ることへの動揺を正直に吐露しています。


 結局、菅原の不安は的中。エンジントラブルや敵を発見できないまま、多くの特攻機が帰還。わずかに敵に突入できても、戦果ははかばかしくありませんでした。4月14日の日記にも「当方押されがちにて漸次特攻効かなくなる」「特攻の効果如何と惑う」と記されています。実際に、艦艇への攻撃から方針を変じた5月の義烈空挺隊も納得のいく戦果はあがらず、日記で「尻切れトンボなり」と嘆く始末でした。


 菅原は常々、出撃する特攻隊員に対し、「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と語り、7月末には自身が乗り込む特攻機を用意するように命じていました。ところが、終戦時に第6航空軍参謀鈴木京大佐が「一機用意しました。お供します」と言ったが、菅原は「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それより後始末をする方がいい」と言って帰還しました。


 昭和天皇のご聖断による終戦決定を事前に聞かされた際、8月12日の日記で「余りに突然に過早なる此の決を見、正(まさ)に戸惑いの姿なり。徐(おもむ)ろに意を決せんとす。特に軍司令官として完全に任務を終了してのこととすべし」と記述。つまり、性急な終戦決定に戸惑う一方で、自分はじっくりと構え、第6航空軍の指揮官としての務めを果たそうと決意。降伏撤回、徹底抗戦を主張しました。


 しかし、決定は覆らず、日本はそのままポツダム宣言を受諾し、連合国に対して降伏。大東亜戦争が終わりました。


 玉音放送の直後、宇垣纏(うがきまとい)海軍中将が指揮官としての責任を取り、沖縄で特攻出撃。潔く散華された報せを受けた際、菅原は日記で「単に死に急ぐは、決して男子の取るべき態度にあらず。任務完遂こそ、平戦時を問わず吾人金科玉条なれ」と宇垣を批判。「必ずおまえたちの後を追う」として大勢の特攻隊員を死なせた指揮官として、それは支離滅裂でふざけた判断でした。


 さらに9月23日の日記によれば、菅原が自決を思い止まった背景には、まず部下の進言があったこと、そして特攻隊の「精神顕彰事業」が指揮官であった自分の果たすべき務めと確信したことなどが記されているそうです。


 ところで、特攻で散華された将兵たちは、そんな菅原の想いをどのようにとらえるでしょうか?


 「最後の一機で自分も行く」と大ウソをついた指揮官を、いったい誰が迎えてくれるのでしょうか?人命は決して軽視できませんが、菅原も宇垣のように自ら率先して責任をとるべきではなかったでしょうか?たとえ後を追う部下が現れたとしても、それが日本人の美徳に叶うものだと私は断じます



4 特攻を「自発的行為」として美化


 昭和20年12月、菅原は復員。以後、畳のないゴザ敷きの小屋で生活。訪ねてきた旧軍関係者や元部下・遺族はその質素な生活ぶりに驚嘆しました。そして、肝心の特攻隊指揮の責任を問われると、「申し訳ない。私は鬼畜生と思われてもいい。だが、彼らのことは悪く書かないでくれ」と土下座して謝罪したそうです。


 さらに昭和27年、菅原は他の関係者とともに「特攻平和観音像」を建立。昭和31年にそれらを世田谷山観音寺(東京都世田谷区)に移設し、亡くなる直前まで毎月参詣したそうです。ただし、元特攻隊員や特攻遺族の中には、菅原のそうした慰霊活動を快く思わなかった方々が少なくありませんでした。


 ところが、土下座したはずの菅原は、何を勘違いしたのか、後に開き直りとも取れる、不遜な態度を示すようになりました。とりわけ、昭和44年に執筆した『特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官の回想』という投稿で、特攻はあくまでも「自発的行為」であったと断じ、「あの場合、特攻すなわち飛行機を以てする体当たりは唯一の救国方法であり、それが我が国に於いて自然発生の姿で実現したことに意義があるのであって、功罪を論ずるのは当たらないと思う」と記述。公に対して平然と居直り、特攻の美化に努めました。


 特攻を美化することで保身を図ろうとしたトンデモない軍人。それが菅原の正体です。なお、菅原は晩年、埼玉県飯能市に隠遁し、養鶏業を経営。やがて認知症を患い、介護に当たった次男道義に対し、現在を第6航空軍司令官の時代だと錯覚した言葉を度々発したそうです。菅原にとって、同時代は人生最大の試練に立たされた、苦しい時期であったことは間違いなさそうです。

 そして、菅原は昭和58年12月29日に逝去。享年95歳。合掌



◇エピソード1
  また同じ頃、陸軍士官学校を卒業した長男の道紀を特攻隊に加入させようとしました。ところが、周囲から「売名行為と取られる」として反対され、取り止めました。


◇エピソード2
 第6航空軍は福岡女学校(現在の福岡女学院中学校・高等学校)の寄宿舎を接収し、特攻作戦で出撃・突入できずに帰還した隊員を収容(事実上の軟禁)する振武寮を設営。「なぜ死ねない」と厳しく責められ、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られ、反抗的な者は竹刀で殴打されたそうです。実質的な管理責任者は倉澤清忠陸軍少佐ですが、その直属の上司こそ菅原でした。なお、倉澤は平成15年に亡くなる直前まで、生き残った特攻隊員たちなどの報復を恐れ、軍刀や拳銃を隠し持っていたそうです。


◇エピソード3
 戦後、菅原の次男深堀道義(故人)は「父は自決すべきだった、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」と述べています。なお、深堀氏は、海軍兵学校75期の卒業生ですが、戦後童謡作曲家として活躍。父の没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」と罵られたことから、特攻と真剣に向き合い、振武寮の管理者倉澤へのインタビューを交えた著書を出版しています。



 なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける御方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m    白髪磨人





ブログランキングならblogram


 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。

 本シリーズも残すところ、あと3人。果たして誰が白髪磨人に口撃されるのか?乞うご期待!