愚将十奸 ~帝国陸海軍の名誉を貶めたトンデモない将校たち~

其乃陸:「統率の外道」を具現した自己陶酔型底抜け軍人 大西瀧治郎 海軍中将 

1 航空主兵論・戦闘機無用論を主唱した「喧嘩瀧兵衛」


 大西瀧治郎海軍中将は明治24(1891)年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現在は丹波市青垣町)で小地主の父亀吉と母ウタの次男として誕生。帝国海軍軍人として神風特攻隊の結成とその運用に深く関わりました。また、戦闘機無用論を支持し、日本軍の真珠湾攻撃に反対したことでも知られています。




 大西瀧治郎 海軍中将
 特攻の生みの親と紹介されることが多いようですが、正確には神風特攻隊の創設者です。写真はWikipediaから転用。



 大西が旧制中学校在学中、日本軍は日本海海戦で大勝利を収めました。それ以来、大西はとりわけ「軍神」広瀬武夫海軍中佐を崇拝。自らも海軍軍人を志すようになりました。


 そして明治42年、大西は海軍兵学校に入学。大西は棒倒しで大活躍し、山口多聞閣下と並び立つ猛者として名を馳せました。また、剣道と柔道もそれぞれ上級者腕前で、性格的にも乱暴なところがあったため、「喧嘩瀧兵衛」の渾名が付けらたそうです。


 海軍兵学校を卒業後、海軍少尉に任官。大正元(1912)年7月に「宗谷」に乗り組み、職業軍人としてのスタートを切りました。そして、海軍砲術学校普通科や海軍水雷学校普通科で在籍した後、大正3年12月に航空術研究員となり、練習将校として飛行操縦術を学びました。


 大正4年4月に横須賀海軍航空隊付となった大西は、中島知久平機関大尉(わが群馬県出身)から、海軍を辞めて飛行機製作会社(後の中島飛行機。現在の富士重工)を創りたいという胸の内を打ち明けられました。すると、大西は直ちに中島に同調し、その起業に向けての資金集めに奔走。それが海軍省内で問題となり、大西は出頭を命じられました。その際、大西は軍人勅諭を三回暗誦させられた上、始末書まで書かされました。


 なお、当時大西も軍籍を離れ、中島の会社に入ろうと本気で思っていたそうです(ただし軍が却下)。なお、中島は「退職の辞」として、➀戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を放棄して新航空軍備に転換すべきこと、➁設計製作は国産航空機たるべきこと、➂民営生産航空機たるべきことの3点を強調。こうした先見性に富む中島の影響を強く受け、以後大西は航空主兵論や戦艦無用論を強調するようになりました。


 大正6年11月に横須賀鎮守府付となった大西は、イギリスとフランスに留学。帰国後の大正9年8月に横須賀海軍航空隊付となり、センピル教育団の講習の参加者の一人に選抜され、日本で初めて落下傘降下を行いました。


 その後、大西は、海軍砲術学校教官や海軍水雷学校教官、横須賀海軍航空隊教官、霞ヶ浦海軍航空隊教官、海軍省教育局員を経て、大正13年に海軍大学校を再々受験。結果は不合格。学科試験をパスして口頭試問に臨んだものの、数日前に料亭で泥酔して暴れ、芸者を殴る暴力事件を起こし、それが新聞沙汰になっていました。つまり、大西は、海軍大学校側から素行不良を理由に受験資格を取り消され、最後のチャンスを自ら手放したわけです。


 以後、霞ヶ浦海軍航空隊教官、佐世保海軍航空隊飛行隊長、第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀、「鳳翔」飛行長、海軍航空本部教育部員、第三艦隊参謀を歴任。


 昭和7(1933)年11月に「加賀」副長に着任。航空演習の当日、天候不良でパイロットが演習への参加を躊躇していたところ、副長の大西は「みんな行って死んでこい!」と檄を飛ばし、パイロットは出動。大西は当時、「人間その気になってやれないことはない。演習は実戦さながらの訓練であり、もちろん自分の責任で命令した」と語りましたが、それは後に自己の戦争論・国家観に陶酔する余り、部下たちに強いることになる十死零生の愚策、すなわち特攻を予感させるものでした。


 昭和8年10月に佐世保海軍航空隊司令に着任後、大西は民間防空指導の軍事講演で海軍代表として出席。そこで大西は、「民間防空もさることながら、防空の本旨は敵機をして本土上空に進入させない事にある。それには海軍航空隊の充実が先決的急務というべきで、国民はこれを重点に考えてほしい」と述べた後、「もっともいくら航空隊を充実しても、敵機を全て討ちとることは不可能だから、侵入機に対する民間防空は必要だ」と付け加えました。


 すると、陸軍は反発。大西が民間防空を軽視したとして、久留米師団から佐世保鎮守府に抗議文を送りました。そこで、海軍は大西の所説は間違いではないものの、表現が率直すぎたとして事態の収束を図りました。


 昭和9年11月に横須賀海軍航空隊副長兼教頭に着任後、すでに急進的な航空主兵論者として知られていた大西は、昭和10年に予定される戦艦「大和」・「武蔵」の製造に関し、一方を廃止して50000t以下にすれば空母が3つ作れると主張。また、福留繁軍令部課長に対し、「大和」一つの建造費で1000機の戦闘機が作れると主張し、その建造中止を要望しました。

 


 戦艦「武蔵」
 今年3月、フィリピンのシブヤン海の海底でその船体が発見され、大きな話題になりました。写真はWikipediaから転用。

 


 さらに、大西は大型機論(戦闘機無用論)を支持。横空研究会において、➀戦闘機より優速の双発陸上攻撃機の完成が近いこと、➁戦闘機は航続距離が短く、空母での使用制限があることなどを根拠に戦闘機無用論を唱え、横空の戦闘機関係者を論破しました。その際、援護戦闘機も不要と主張したそうです。


 昭和11年4月に海軍航空本部教育部長に着任。大西は大村空飛行隊長池上二男少佐を呼び出し、「今度初めて九六艦戦(九六式艦上戦闘機)が大村空に配属される。戦闘機出身でない君がその飛行隊長に選ばれたが、この全金属単葉の性能の優れた九六艦戦をもってしても戦闘機は無用と言えるのかどうか、専門外の人の方が客観的に正当な意見を出しやすいから、そのつもりで(自分の)意見をまとめてもらいたい」と要請。そこで翌年4月、佐世保鎮守府で鹿屋の九六式陸攻が攻撃側、大村空の九六式艦戦が防御側で防空演習を実施。その結果、皮肉にも攻撃機側の奇襲が成功し、防御側、つまり九六艦戦は完敗を喫しました。


 同年7月、海軍航空本部教育部長に着任。それと同時に、大西は「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを各方面に配布。それは大遠距離、大攻撃力、大速力を持つ大型機による革新を説くもので、大型機が将来的に戦艦の役割も担い、新艦艇として制海権をも獲得しうると主張するものでした。また、そのなかで、持論である戦闘機無用論についても言及。潜水艦以外の艦艇は航空に対抗できないとした上で、小型航空機は現在の戦略戦術を根底から変えることはできないほか、戦闘機、対空防御砲火は現在も信頼できず、将来的にも爆撃機の速度、高度増大でさらに必要がなくなると断じました。


 さらに大西は昭和12年、命中率の低い水平爆撃の廃止を主張。しかし、水平爆撃廃止論については、山本五十六元帥閣下が続行を宣言したことで終息しています。



2 九死に一生を得たシナ事変


 昭和12年8月、シナ事変が勃発。すると、第一連合航空隊司令官戸塚道太郎大佐が上海渡洋爆撃を指揮。前例のない渡洋爆撃は実施前から成功を危ぶむ声が多く、実際に被害が続出。太平洋諸島に配備すべき中攻隊の消耗が進みました。


 そこで、音を上げた軍令部は、当時海軍航空本部教育部長であった大西を台北に派遣。赴任先の済州島で大西は、「台湾の司令部が中攻で戦闘機狩りをやらせようというのが間違っている。本末転倒の作戦だ」と戸塚を敢然と批判。軍令部の強襲緩和の申し入れに対し、戸塚は「たとえ全兵力を使い尽くすとも、あえて攻撃の手を緩めず!」とキッパリはね付けました。


 その直後の8月21日、大西は海軍航空本部参謀大佐としてシナ事変に参加九六式陸上攻撃機6機で中国軍飛行場に夜間爆撃を行うために指揮官機に同乗。しかし、作戦は失敗。中国軍戦闘機に迎撃され、4機が撃墜。大西は九死に一生を得ました。


 なお、大西の搭乗機は最も襲われやすい編隊最後尾でしたが、後に大西は「作戦の方に気を取られて、何にも感じないんだ」と語ったそうです。それを聞いた源田実少佐は、「『胆、かめの如し』という言葉があるが、この人のは底抜けだ」と大西を評しました。


 昭和14年11月4日、大西は第二連合航空隊(二連空)司令に着任すると、直ちに同航空隊に昼間爆撃を命令。自らも指揮官機に同乗し、直接陣頭指揮を執ろうとしました。


 ところが、幕僚たちは、司令に死なれては隊員たちの士気に関わるとして大西の出撃を反対。代わりに13空司令の奥田喜久司大佐が出陣することで大西を説得しました。


 非情にも、奥田はその出撃で戦死。遺書には戦死の覚悟、そして大西への感謝の言葉が記されていましたが、大西は「いったん出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から(死を)充分覚悟すべきである」と断じ、部下たちの動揺を抑えました。でも、大西は、奥田の葬儀で弔辞を読み上げた際、絶句して崩れ落ちる場面もあったそうです。


 翌月5日、大西は陸軍の第三飛行集団を訪問。陸海軍共同での蘭州(蒋介石ルート拠点)の昼間爆撃を提案しました。その結果、同月8日、陸海軍による「百号作戦」が決定。同月26日から28日の3日間で多大な戦果を挙げました。


 その後、大西は第一連合航空隊(一連空)司令山口多聞閣下と協力し、一連空と二連空を統合して連合空襲部隊を創設。その後、連合空襲部隊は昭和15年5月12日の重慶作戦に参加。その際、大西は重慶への無差別爆撃を主張しましたが、山口多聞閣下に反対されました。



3 真珠湾奇襲作戦の立案に深く関与


 昭和16年1月、大西は第十一航空艦隊参謀長に就任。ちょうどその頃、連合艦隊司令長官山本五十六元帥閣下から手紙を受理。その内容は、日米開戦の可能性を示唆した上で、帝国海軍が執るべき作戦について言及するものでした。とりわけ、アメリカに勝つためには、帝国海軍は緒戦でハワイに拠点を置くアメリカ艦隊の主力に対し、第一、第二航空戦隊の全力をもって痛撃を与え、西太平洋への展開を阻止すべきとした点は、後のハワイ真珠湾への奇襲攻撃を予感させるものでした。


 つまり、この段階で奇襲作戦の敢行を決意していた山本は、大西に対し、その具体的な実施方法について研究を依頼しました。その直後、大西は戦艦「長門」の山本元帥閣下を訪ねています。


 その後、鹿屋司令部に戻った大西は、幕僚の前田孝成に対し、詳細を伏せながらも真珠湾での雷撃(魚雷の発射)に可否について相談。しかし、前田は案の定、真珠湾は水深が浅いため、技術的に雷撃は不可能だと回答しました。


 さらに2月中旬、大西は次に第1航空戦隊参謀源田実を呼び出し、山本元帥閣下からの手紙を見せ、再び真珠湾での雷撃の可否について質問。その際、源田は、雷撃は専門外であると断った上で、「研究あれば困難でも不可能ではない。できなくても致命傷を与えることを考えるべき。空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にある」と回答。


 そこで大西は、源田に作戦計画案の作成を依頼。源田はおよそ2週間で原案を仕上げ、大西に提出。大西はそれに修正を加えた上で、3月初旬に最終案を山本元帥閣下に提出しました。


 それにはアメリカ戦艦に対して艦攻の水平爆撃を行うこと、そして帝国海軍の出発地は単冠湾と明記されていました。なお、後に源田が大西から受け取った参考資料には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、そのまま小爆弾を抱かせて補助艦艇を爆撃。たとえ戦艦に致命傷を与えることができなくても、その動きを封じ込むべしと記されていたそうです。




 真珠湾攻撃
  写真は、日本海軍空母機動部隊の空爆を受けて炎上するアメリカ海軍戦艦「アリゾナ」です。Wikipediaから転用。



 しかし、その一方で大西は、真珠湾内の雷撃は水深が浅いために不可能であること、ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持が困難であることの2点を山本元帥閣下に説明。福留にも「長官にあの計画を思い止まるように言ってほしい」と懇願。さらに周辺に対しても、「日米戦では武力で米国を屈服させることができないから、早期戦争終末を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのためにも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである」と漏らしています。


 そして、同年9月24日、軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃悲観論に同調。10月初旬、2人で山本元帥閣下に対し、帝国陸軍が主導するフィリピン作戦を支援すべきと具申。しかし、山本元帥閣下は大西と草鹿に対し、「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」と述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといって、そう投機的だ、投機的だと言うなよ。君たちの言うことも一理あるが、僕の言うこともよく研究してくれ」と語り、2人を説得しました。


 読者の皆さんはすでにお気付きでしょうが、そもそも大西は真珠湾奇襲作戦の立案に深く関わった人物のはず。しかし、いつのまにか自らの立ち位置を反転させ、積極的に同作戦の反対を論じました。つまり、大西は節操を欠いた風見鶏そのものでした(怒)


 結果はどうであれ、大西のこうした多重人格的な行動をどのように評価すればいいのでしょうか?(苦笑)



4 大東亜戦争で「統率の外道」を具現


 昭和16年12月8日、ついに日米開戦、その時、大西はフィリピン攻略戦に参戦。さらに翌年3月1日、航空本部出仕として内地に戻る途中、連合艦隊司令部が置かれた旗艦「大和」を訪問。フィリピン、インドネシア方面の作戦状況を報告しました。その際、大西は私見として「軍備の中心は航空である。戦艦はこれまでとは違った役割に使える兵器に転落した」と説きました。しかし、連合艦隊参謀長宇垣纏から、フィリピンやインドネシアなどの陸続きの作戦から結論を出すのは時期尚早と諫められました。


 昭和17年3月20日に大西は海軍航空本部総務部長に就任。この頃、大西はすでに「何とか戦線を縮小しなければならぬ」と周辺に漏らしていたそうです。


 昭和18年6月、帝国海軍はマリアナ沖海戦で敗北。その直後、大西は絶対国防圏であるサイパン島を確保するため、米機動部隊に対する陸海合同による全力の片道攻撃を軍上層部に具申。しかし、認められませんでした。


 結局、サイパン島の守備が危機的に状況に陥ると、軍内部に放棄論と死守論が対立。その際、大西は「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張。ところが、大本営が放棄論に傾くと、大西は天皇直訴を画策。しかし、周囲から妨害され、それは未遂に終わりました。


 そこで、大西は軍令部次長に立候補し、米内光政海軍大臣に航空部隊再建を願い出ました。しかし、米内はそれを了解したものの、後に大艦巨砲主義者たちに反対され、約束は反故にされました。


 そして、昭和19年7月、ついにサイパン島の戦いで日本軍守備隊は全滅。以後、日本本土は、マリアナ諸島に展開したアメリカ軍のB-29による爆撃の脅威にさらされることになりました。


 ところで、帝国海軍がマリアナ沖で敗北を喫した頃、大西の下には特攻の創設を求める意見が多数寄せられていました。


 まず城英一郎大佐は、敵艦船に対して特攻を行う特殊航空隊編成の構想を大西に上申。その際、大西は「意見は了解したが、まだその時期ではない」と回答。しかし、日本軍がマリアナ沖海戦で敗北を喫すると、再び城は大西に特攻隊の編成を電報で具申。岡村基春大佐も大西に対し、特攻機の開発と特攻隊編成を要望しました。さらに252空の舟木忠夫司令も、体当たり攻撃以外に敵空母への有効な攻撃はないと大西に訴えました。


 これらの意見を具申された大西自身も、「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」「もう体当たりでなければいけない」などと語り、特攻に同意を示したそうです。


 そこで、大西は昭和19年7月1日、航空兵器総務局で作成した航空機生産計画において、増産の重点を戦闘機とし、その全てに爆装を付すことを決定。その後の新聞取材に対し、「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」と発言。また、特攻兵器「桜花」についても賛成を表明しました。


 同年10月5日、大西は第一航空艦隊司令長官に内定。この人事は事実上、大本営が特攻を認めたものとされています。大西は妻に「平時ならうれしい人事だが今は容易ならず決意が必要」と語ったそうです。


 また、大西は当日、海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道してほしい。よろしく頼む」と依頼。つまり、大西は、作戦としての特攻の採用、そしてその実行がどのような世論を導くのか、強い関心を示しました。


 そして、大西はフィリピンに出発する直前、米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝え、承認を得ました。また、及川古志郎軍令部総長も決意を熱く語る大西に対し、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します」「指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」などと発言し、特攻に事実上の承認を与えました。大西はその際、「中央からは何も指示をしないように」と応じたそうです。


 また、大西は軍令部航空部員の源田実中佐に対し、零戦を150機準備することを約束させ、場合によっては特攻を行うという決意を示しました。


 同月9日、大西はフィリピンに向けて出発。その途中、台湾新竹の航空戦の日本軍が苦戦している様子を見かねて、同行の多田武雄中将に「これでは体当たり以外(にとるべき)方法がない」と語りました。また、連合艦隊司令長官豊田副武大将にも「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しかない。しかし、命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語り、特攻を実施する決意を新たにしました。


 そして、大西はフィリピンに到着。大西は第一航空艦隊司令長官の職を寺岡謹平中将と交代する際、「基地航空部隊は当面の任務は敵空母甲板の撃破とし、発着艦能力を奪い、水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にし、落ち着かせる必要がある。司令を介さず、若鷲に呼び掛けるか、いや司令を通じた方が後々のためによかろう。まず戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然にこれに続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう、海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法、つまり特攻しか日本を救う方法はないと断言し、前任の寺岡中将から同意を得ました。


 同じ日の夕刻、大西はマバラカット飛行場の第201海軍航空隊本部で会議を開催。その席上で大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう?」と提案。すると、玉井副長は、山本司令が不在のため、自分だけでは決められないと応答。そこで大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するか否かという重大な決定を玉井に一任しました。


 その後、玉井は、飛行隊長の指宿、横川らと相談した末、ついに体当たり攻撃を決意。そこで猪口力平参謀が体当たり攻撃を行う航空隊に対し、「神風特別攻撃隊」の名前を提案。なお、その名前は、猪口の郷里の道場「神風(しんぷう)流」に由来しています。よって、正式な呼び方は「しんぷう特別攻撃隊」なのですが、訓読みの「かみかぜ特攻隊」が定着しました。

 その名前に対し、まず玉井が「神風を起こさなければならない」として同意し、大西もそれを承認。大西はさらに各隊に対し、本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」に因んで敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名しました。


 そして、同月20日、大西は正式に第一航空艦隊司令長官に就任。まず初めに「神風特別攻撃隊」という隊名、次にその編成について発表。とりわけ敷島隊に対し、「日本は今危機であり、この危機を救えるのは若者のみである。したがって、国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示。 神風特攻隊編成命令書を大西、猪口力平、門司親徳の連名で起案し、連合艦隊、軍令部、海軍省など海軍中央各所に発信しました。


 そして、特攻が実行されました。





 神風特別攻撃隊
 写真はWikipediaから転用。昭和19年11月25日、アメリカ海軍空母「エセックス」に突入する第4神風特別攻撃隊「香取隊」の艦上爆撃機「彗星」です。なお、この特攻機には山口善則一飛曹と酒樹正一飛曹が搭乗。エセックスの甲板を大破させたほか、アメリカ軍側に死者15名、負傷44名の損害を与えたうえで、散華されました。合掌
 

 特攻の成功後、大西は福留を説得し、第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成。福留が指揮官、大西が参謀長を務めました。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上を約40名召集し、➀大編隊の攻撃は不可能で、少数で敵を抜け突撃すること、➁現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話して特攻を指導しました。そうした強引な手法に批判的な航空幹部もいましたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と断じ、言論封殺に走ったそうです。そもそも大西のように偏狭な思想性の持ち主に権力を与えたのは大本営。その面々も大西とともに断罪されるべきだと私は思います。


 同月27日、大西は神風特別攻撃隊の編成方法、命名方法、発表方針などを軍令部、海軍省、航空本部など海軍中央各所に通達。特攻隊員の気持ちを落ち着かせるために特別待遇を禁じ、他の身勝手な特攻も禁じました。猪口によれば、同日特攻隊を見送った大西は「こんなことしなければならないのは、日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ」と語ったそうです。


 同年11月16日、福留が特攻の必要と増援の意見具申電を発令。それを受け取った大西は、同月18日に猪口を伴って日吉司令部で豊田副武に戦況を報告。さらに軍令部で及川古志郎軍令部総長に改めて特攻の趣旨を説明。そして、現兵力でのレイテ作戦の続行を明言したほか、「ここ1、2週間が重大な時期」と述べたうえで、別の新しい作戦を展開する上で必要な兵力の充当を要望。軍令部は海軍省と協議し、練習航空隊から零戦隊150機抽出されることが決まりました。それは、大西が「統率の外道」と断じた特攻を実行するために選ばれた若き隊員たちでした。


 昭和20年1月10日、第一航空艦隊はフィリピンから台湾に移転。その頃、「体当たり攻撃は無駄ではないか、中止してはどうか?」という質問に対し、大西は再び「この現状では餌食になるばかり、部下に死所を得させたい」と応じたほか、「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」「白虎隊だよ」と答えています。



5 究極の奇策「剣号作戦(剣作戦)」を発案


 昭和20年5月19日、大西は念願の軍令部次長に就任。なお、同ポストに海軍大学校甲種卒業者ではない人間が就くのは異例の人事でした。


 その頃、すでに日本本土はB-29の無差別爆撃に晒されていました。B-29を迎撃できる戦闘機は少なく、そもそもレーダーでその動きを捕捉できない有様でした。また、B-29は高射砲が届かない高空を飛行していたので、日本側は万策尽きた状態でした。


 そこで大西は同月、剣号作戦を発案。それは、アメリカ軍の手に落ち、以後B-29の根拠地とされたマリアナ諸島(サイパン島・グアム島)のアメリカ軍基地に強行着陸し、Bー29を焼き討ちにするというものでした。


 その手順については、まず爆撃を終えて基地に戻るB-29を一式陸上攻撃機20機で追尾し、マリアナのアメリカ軍基地に強行着陸(アメリカ軍の対空砲火も友軍機があるために攻撃できず、着陸は可能と判断)。次に、海軍陸戦隊250名がオートバイに分乗し、飛行場で着陸したばかりのB-29に時限爆弾を突き刺して、爆破するというものでした。


 なお、一式陸攻には敵基地までの片道分の燃料しか与えられず、その搭乗員にも着陸後に陸戦隊員とともに地上戦への加入が義務付けられていました。つまり、同作戦の参加者は、初めから原隊への帰還が想定されていないことから、現場では事実上の特攻隊員とされました。


 軍令部はこの奇抜な大西の案をたちまち採用。大西の着想で「棒付爆弾」と命名された吸着ゴムの付いた手投げ式の時限爆弾も開発されました。また、8月6日に広島を壊滅させた原爆投下機がテニアン島を出撃したことが判明すると、剣号作戦の攻撃地に同島も追加されました。


 ただし、8月下旬の実施に向けて準備を進めていた矢先に終戦を迎えたため、同作戦は結局中止されました。


 なお、戦後、大平正芳・福田赳夫・鈴木善幸が首班を務めた各内閣で外務大臣を務めた園田直元衆議院議員は、陸軍空挺部隊の指揮官(第2剣作戦部隊指揮官)として同作戦で出撃する予定でした。
 



6 終戦の翌日に割腹自決


 終戦直前の8月9日、大西は勝手に最高戦争指導者会議に出席。その席上で、「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」とする二千万特攻論を提唱。「我々で画策し、奏上し、終戦を考え直すようにしなければならない。全国民二千万人犠牲の覚悟を決めれば勝利は我々のもの」と主張し、戦争の継続を強く訴えました。


 そして、大西は軍令部で会議を開き、御前会議をなるべく引き延ばし、和平派の動きを封じる工作を企図。まず高松宮殿下に参上し、高松宮殿下から米内を説得してもらうように依頼。さらに大西は、土肥一夫中佐には永野修身元帥、富岡定俊第一部長には及川古志郎大将、大前敏一第一課長には野村直邦大将と近藤信竹大将をそれぞれ説得するよう割当を決めました。


 同月12日、軍令部総長豊田副武が陸軍参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、海軍大臣米内光政は豊田と大西を呼び出しました。米内は大西に対し、「軍令部の行動はなっておらん!意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか!最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない!そんなことは止めろ!!」と叱責。大西は涙を流して悔しがったそうです。


 それでも戦争継続を諦め切れなかった大西は、内閣書記官長迫水久常の下に走り、迫水の手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか?」と訴えました。


 しかし、同月15日、玉音放送が流され、日本軍は連合国に対して降伏。大東亜戦争は終戦を迎えました。


 すると、大西はその翌日、渋谷南平台の官舎で遺書を遺した上で割腹自決。午前2~3時頃、腹を十字に切り、首と胸を刺しましたが、すぐには死ねませんでした。


 そこで、官舎の使用人が瀕死状態の大西を発見。多田武雄次官が軍医を連れて急行。前田副官と児玉誉士夫のほか、熱海から矢次一夫も駆け付けました。


 しかし、大西は軍医に対し、延命のための処置を拒否。瀕死の最中、「生きるようにはしてくれるな」と児玉に対し、「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と語りました。


 すると、今度は児玉も自決しようとしたところ、大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と叱責。


 そして、やがて絶命。享年55歳。合掌


 ところで、大西は遺書を5通遺しました。まず「特攻隊の英霊に曰(もう)す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み、日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容でした。別紙には富岡定俊軍令部長に当てた添え書きがあり、「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし」とありました。


 妻淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず、世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないことが記され、最後にはこれでよし 百万年の 仮寝かな」と詠んだ辞世の句が添えられていました。


 他の3通の遺書は、それぞれ多田、児玉、矢次に宛てたものでした。




 児玉誉士夫
 「政財界の黒幕」や「フィクサー」と呼ばれ、大西とも交流があったほか、戦後岸信介が首相になる際にもその力を発揮しました。写真はWikipediaから転用。


 また、友人の増谷麟に宛てた辞世の句で、「すがすがし 暴風のあと 月清し」と詠みました。


 以下、自己陶酔型の極端軍人とも呼ぶべき大西の独特な人柄を表すエピソードの数々を紹介させて頂きます。



◯エピソード1:大西は昭和3年2月、佐世保海軍工廠人事部長井上四郎の仲介で松見嘉子(後に淑恵と改名)とお見合い。しかし、大西はそれを破談にするため、お見合い当日、大酒を飲んで泥酔した上に褌姿で芸者を連れて登場し、踊ったり、卑猥な言葉を浴びせたりと大暴れ。目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、ふざけて「先夜、上のほうからゲンコツらしきものが降ってきましてなあ」と答えました。しかし、その姿を見た嘉子の母親が、大西の傍若無人で飾り気のない人柄をとても気に入り、「海軍軍人として天晴れな振舞い!このような豪傑に娘を嫁がせたい!」と心に決め、嘉子に結婚を促しました。なお、大西の妻の姉久栄の息子(つまり大西の甥)が「ラバウルの貴公子」笹井醇一です。


◯エピソード2:
シナ事変における零戦の初陣の際、搭乗員から同機体の防弾性能の弱さについて不満が出され、「防弾タンクにしてほしい」という要望がありました。それに対し、技術士官は(防弾タンクにすると機体がその分重くなり、)零戦の特長である空戦性能、そして航続可能距離が著しく損なわれてしまうと主張し、意見が対立。その際。大西は「ただ今の議論は技術士官の言う通り」と断じ、搭乗員達を黙らせました。つまり、零戦の防弾性能は、大西のこうした余計な一言が原因で、蔑ろにされました。


◯エピソード3:大西は、第一航空艦隊参謀長の小田原俊彦少将らの幕僚に対し、神風特攻隊を創設する理由を「(自分は)軍需局の要職にいたため、最も日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず、全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く、資材もない現状を一刻も早く改善しなければならないため、レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び、満州事変の頃まで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明しました。


◯エピソード4:矢次一夫は戦後の昭和27年、横浜市鶴見総持寺で大西の墓の建立式が行なわれた際、「大西という男はバカな男でした。豊田副武大将は東京裁判の法廷で『大西の徹底抗戦論は部内の不満分子を抑えるために許したのです』と言っている。誠にそれに踊らされた大西はバカです。高木惣吉少将は大西を愚将だと言いましたが、彼は全く貴重な愚直さを持っていました。彼を軍令部という金魚鉢に入れたのは、鉢の中にナマズを入れたようなものです。なぜなら、大西という男は、たとえ日本が勝っても腹を切るような男だからです」と語りました。


◯エピソード5:源田実は戦後、大西を回想し、「大西とは一年ほどの同勤であったが、数年に匹敵する意義を持ち、戦術思想、人生観に大きく影響を与えられた」、そして「『正しいことを正しいと認めることが大切なのであって何が国のためになるかで考え、無節操と罵られようとも意に介すな』という大西から受けた言葉は、人生においてこれほど胸を打つ言葉はなかった」と語りました。


◯エピソード6:猪口力平大佐は戦後、大西を評し、「日中戦争では攻撃機に乗って陣頭指揮をとり、飛行機、飛行船にも乗る。開戦以前から山本五十六大将に次ぐ日本航空の大立物として知られる人物であった」、そして「大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち、下から慕われ、また大西も可愛がっていた。智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か、実力あり、腹据わり、信頼置けるかが好き嫌いの基準であった」と語りました。



 特攻の生みの親である大西は、大戦末期の厳しい戦況の下で、部下に何もさせることができすに死なせるより、戦果を確信して死なせることができる特攻は「大愛」「大慈悲」であると考えました。そして、特攻が始まった頃、「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである」と主張し、「日本精神の最後の発露は特攻であり、特攻によって祖国の難を救い得る」という確信を得ていたそうです。


 果たして、特攻は「大愛」「大慈悲」なのでしょうか?そして、特攻で出撃した私たちの先人たちは「日本精神の最後の発露」を自覚して散華されたのでしょうか?


 言うまでもなく、特攻に出撃し、祖国の弥栄を念じつつ散華された搭乗員は、私たち日本国民にとってかけがえのない英雄であり、ご英霊です。ただし、特攻を作戦として採用し、その実行を命令した人物を、同じ人間として果たして許すことができるでしょうか?


 私は先の大戦で散華された特攻隊員を尊崇しています。でも、その反面、その背中を押した人間を巨悪と断じます


 つまり、大西こそ、近代戦争が生んだ巨悪。自己の思想に陶酔する余り、他者の生命を軽視し、特攻を積極的に肯定。そうした偏狂的とも言うべき自らの思想を部下たちに押し付け、一言も文句を言わせなかった大西の我の強さには驚かされます。繰り返しにはなりますが、大西のような巨悪に活躍の機会を与えてしまった、無責任で官僚主義的な海軍上層部も同罪。豪放で切符の良い大西の性格を考慮した場合、彼を監督し切れなかった責任は決して軽くはないと私は確信しています。


 
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 今回は以上です。執筆・編集に時間をかけ過ぎてしまったこともあり、今回の記事は極めて長々しいものになってしまい、申し訳ございません。それでも、特攻が作戦として採用された経緯を振り返る際、だいぶ私見も含まれてはいますが、参考にして頂ければ幸いです。ご訪問頂き、誠にありがとうございました。