3回目の今回は、「3 沖縄修学旅行を真の平和学習に改めるための指導実践」の前編をお送りします。

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3 沖縄修学旅行を真の平和学習に改めるための指導実践

(1) 沖縄修学旅行事前学習の充実をはかる『平和学習』の教材化

 そこで筆者は、前任校で沖縄修学旅行の学習指導を統括する立場に身を投じ、物見遊山に堕したその深刻な現状と真正面から向き合い、数年来、その改善を声高に提言し続けた。そして、その事前学習を充実させる指導こそ、沖縄修学旅行を真の「平和学習」が意欲的に展開される学校行事に改善できる有効手段になり得ると考え、その充実に努めてきた。

 以下、その指導実践例を幾つか紹介したい。なお、事前学習の指導は、『総合的な学習の時間』の授業を割いて学年全クラス一斉に行った。


(2) 沖縄修学旅行事前学習の指導実践例(その1)

 まず最初に、修学旅行が学究的な学校行事であることを自覚させるため、特別に学年合同の学習会を企画。2回にわたって筆者がマイクを手に取り、沖縄戦と本土復帰までの経緯を生徒(・教師?)に説明した。

 初回の合同学習会(H23.5.10)で、まず沖縄戦の惨禍を強調した。まず、生徒にも馴染みがあり、反戦の歌としても知られる『島唄』を採用。体育館の音響設備を活用し、同曲を生徒に聴かせた。その直後、作成資料を配付し、歌詞の意味を詳しく説明【資料1・2】。他にも、デイゴの花の画像を拡大し、可動黒板に掲示して興味・関心を誘った。

 筆者は説明だけに終始せず、時折生徒に質問を投げ掛けた。また、趣味のギターを手に取り、レとラがない独特な沖縄音階を弾いてみせ、沖縄文化の独自性を聴覚にうったえた。授業の締め括りはミニライブ形式で、筆者が『島唄』の弾き語りを披露。同僚の音楽科教諭に特技のフルートを持参して頂き、一緒にステージを飾った。

 さらに、歌詞に登場する「ウージぬ下」がガマを意味することに触れ、「沖縄戦とガマ」をテーマに資料を作成し、沖縄戦を振り返る上でガマは冒すことのできない神聖な場所であることを詳しく教えた【資料3。以後、同様に事前学習を深化させるために、学年通信で沖縄戦に関わった人物を中心に記事を作成、発行した【資料4】
 
 補足ではあるが、筆者は毎年、事前学習で、訣別電報で沖縄県民の敢闘を伝えた太田実海軍中将、そして最期まで戦場行政の指揮を執り続けた「島守の神」島田叡元沖縄県知事の両名の紹介を決して忘れない。とくに2日目の午後以降のコース選択については、太田中将が司令官として戦闘の指揮を執り、自決した海軍司令部壕の見学を薦めている。なぜなら、先述した通り、「平和学習」が戦争の追体験だけで完結し、かつて大東亜戦争を感情論で全否定する「反戦イデオロギー学習」に堕した現状を、命を賭して祖国と沖縄県民のために奮闘した両雄を取り上げることで何とか打破したいとの願いからである。



【資料1】 修学旅行事前学習用資料①


南米でも大ヒットした「島歌」ですが、その歌詞の意味を知っていますか?


   島唄  THE BOOM                 作詞・作曲:宮沢和史

 
でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た 
 
(台風など災いを告げる)デイゴの花が咲いた頃(=1945年4月1日)、(沖縄に)嵐(=米軍)が上陸した。


でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
 
(同年、)デイゴが(例年以上に)咲き乱れるなか(=4~6月)、米軍が次々に上陸した。


繰りかへす哀しみは 島わたる 波のよう
 (米軍による殺戮が)島の海辺に寄せては返す波のように繰り返された。


ウージぬ森で あなたと出会い
  サトウキビ畑であなたと出会い、


ウージぬ下で 千代にさよなら
 
サトウキビ畑の下(ガマ=鍾乳洞=防空壕)で、二人ともこの世と永遠のお別れ(=自決)をした。


島唄よ 風にのり  鳥と共に 海を渡れ
 
島唄(沖縄民謡)よ! 風にのり (死者の魂をあの世へ運ぶ)鳥と一緒に海を渡っておくれ!!


島唄よ 風にのり  届けておくれ わたしぬ涙
 
島唄よ! 風にのり (日本本土に)伝えておくれ! (沖縄の)私の涙(悲しみ)を!!


 

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
  デイゴの花も(たくさんの人の命も)散った頃(=1945年6年23日)、地上戦が終わり、海辺にはさざ波が ただ静かに揺れていた。

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
  (生存者がほとんどおらず、)私たちのささやかな(日常の)幸せさえも簡単に奪い取られてしまった。


ウージぬ森で うたった友よ   ウージぬ下で 八千代ぬ別れ
  さとうきび畑で一緒に謡い合った(大切な)友よ!   ガマの中で永遠のお別れとなってしまった…
 
島唄よ 風に乗り  鳥とともに 海を渡れ
  島歌よ! 風に乗って死者の魂と一緒に海を渡っておくれ!!         


島唄よ 風に乗り  届けておくれ 私の愛を    (間奏4小節)
 
島唄よ! 風に乗り(亡くなったあの人がいるニライカナイ=天国まで)私の愛を届けておくれ!!


海よ 宇宙よ 神よ 命よ このまま永遠(とわ)に夕凪を
 
海よ! 宇宙よ! 神よ! (そして大切な)命よ! 今のまま永遠に夕凪(=平和)を(祈る)!!



 『島歌』誕生トリビア 

 この『島唄』を作詞した宮沢和史さん(山梨県出身)は1991年の冬、沖縄の「ひめゆり平和記念資料館」を訪問。そこで出会った「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんから戦争の生々しい体験談を聴き、衝撃を受けると同時に、無知な自分に怒りさえ覚えたそうです。そして、ガマの中にいるような悲しい造りになっている資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れていました。この対比を曲にして、おばあさんに聴いてもらいたいと思ったのがきっかけのようです。つまり、この名曲『島歌』は、たった一人のおなあちゃんのためにつくった歌なのです。

 ところで、『島歌』の旋律は、沖縄音階(ドミファソシド)で作られています。だが、「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」という下りだけは転調し、意図的に本土で使われている西洋音階に戻しています。なぜなら、この部分はガマの中で自決した2人のことが歌われています。2人とも本土の犠牲(捨て石)になって死んだことを考えると、この部分を沖縄音階で歌うのは辛すぎるため、意図的に本土風の西洋音階に替えたのだそうです。  「へえ!」×5 (「Yahoo!知恵袋」を参考に編集)


【資料2】 「島唄」の主な指導ポイント

①『島唄』は、レとラのない独特な音階(沖縄音階)で作られている。


②沖縄では、「デイゴ」がより見事な花を咲かせる年ほど、台風など大きな災禍が発生し易いという言い伝えがある。つまり、「嵐」に喩えられた米軍との激しい地上戦が展開される予兆として、その直前の昭和20(1945)年の春、沖縄では例年以上にデイゴの花がよく咲いた。


③米軍による容赦ない攻撃が繰り返されるなか、民間人も甚大な被害を受けた。「繰り返す悲しみは島渡る波のよう」の一節は、戦争の最中、生死の境を彷徨った沖縄県民の心の様相を表現している。また、地上戦が終結し、焦土と化した沖縄の惨状を「ささやかな幸せはうたかたぬ波の花」と詠み、戦争がもたらした悲しい結末を強調することで、『島唄』は反戦姿勢を鮮明に打ち出している。


④「ウージ(ぬ森)」とは、沖縄の特産物であるさとうきび(畑)、そして「ウージぬ下」 とはさとうきび畑の地下、つまり珊瑚石灰岩からなる沖縄島に多く見られ、戦時に防空壕として使われた鍾乳洞(地元の呼称は「ガマ」)をそれぞれ指している。「ウージぬ下で千代にさよなら」や「ウージの下で八千代の別れ」などは、ガマで発生した民間人の自決という凄惨な史実を物語っている。


⑤「島唄よ風に乗り鳥とともに海を渡れ」という歌詞の一節は、沖縄では近年まで続いた鳥葬(風葬)という葬送儀礼を物語っている。かつて日本では鳥は死者の魂を天国に運ぶ動物とされてきた。


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 今回は以上です。ご訪問頂き、有難うございました。

 次回は、【資料3】(修学旅行事前学習用資料② 沖縄戦とガマ ~ウチナーンチュの琴線に触れ、わが国の「平和」について学ぶ~ )お送りします。乞うご期待!