野州佐野が生んだ偉人 田中正造先生


 およそ2年前の平成23年9月23日。わがねむの会は隣国野州の佐野方面へ。お目当てはズバリ!野州佐野が生んだ偉人、田中正造先生でした。


 ところで、田中正造先生と言えば、中学校社会科や高校現代社会でわが国の公害・環境問題を習う際、教科書や資料集に顔写真(下掲)がよく登場します。だから、学歴に関係なく、余程不勉強な人でない限り、名前を知らない人はいないはず(エッ?知らない??そりゃ日本人としてヤバいでしょ!)。











 亡くなる1年前に撮影された正造先生 この顔写真は有名なものです。誰でも一度は見たことがあるのでは?



 ただし、どのぐらい凄い人なのか?そのことを正確に説明できる人は少ないのでは?


 実はかくいう磨人も、正造先生については、日本で最初に公害問題(足尾鉱毒事件)を提起した人物であり、谷中村の困窮農民を救済するために明治天皇への直訴を試みた義人ということ以外に、満足な知識を得ていませんでした。正直、それほど関心を持っていませんでした(そう言えば、昨年秋の園遊会で今上天皇陛下に手紙を手渡した、東京都選出の不埒な国会議員が話題になりました)。


 でも、今回の野州佐野研修で、今まで知り得なかった正造先生にまつわる事実が次々に判明。改めて日頃の勉強不足を痛感。今まで地理・歴史科教諭として高校の教壇に立たせて頂いたことが恥ずかしい・・・


 やはり、現地・現物観察主義に勝る教材研究はありません。というか最近では内容よりも教え方、すなわちICT機器などを活用して展開する授業に重点が置かれている始末。全くもって本末転倒。しかも行政がその先頭に立っているのだから情けない・・・


 おっと!話題がつい横道に逸れてしまいました。すみません(苦笑)。


 以下、念のため、正造先生の略歴を「田中正造 ~その行動と思想~」(「佐野が生んだ偉人」:http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index4.html )を参考に紹介させて頂きます。


 田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町(旧旗川村)で、旗本六角家の名主である富蔵、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。


 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし、国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴した。


 その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まったが解決せず、正造は悲痛なおもいで谷中村に住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組んだが、大正2(1913)年9月4日に71歳10か月で世を去った。



 田中正造先生の本当の凄さとは?


 当時は「現人神」とされた天皇陛下への直訴。つまり、正造先生は死刑を覚悟した上で、旧谷中村の農民たちの心の叫びを天下国家に知らしめるため、天皇を政治的に利用しようと考えました。それだけでも十分凄いのですが、正造先生の本当の凄さは他の理由によります。それは・・・


 そもそも、彼は地元佐野の名主の出身。しかも長男。そのまま名門の家督を継ぎ、体制に従い続ければ、何の不自由もない暮らしを死ぬまでGuaranteeされたはず。


 でも、人一倍正義感の強い正造は社会の矛盾を決して諦観、そして傍観しませんでした。真正面から鉱毒事件に向き合い、孤立無援の困窮農民にも寄り添い、彼らを救うために自らの地位(衆議院議員)と財産を投げ出し、最期まで闘い続けました・・・



田中正造先生の邸宅前に立つねむの会の同志たち 

 




 



 ところで、正造が生きた時代、日本は江戸幕府による封建制を脱却し、富国強兵・殖産興業を旗印として世界の列強諸国に肩を並べようと努力していました。


 当時、足尾を始めとした国内産の銅は絹と同様、国際商品としての価値をもち、重要な外貨獲得源でした。そこで明治政府は銅の増産を奨励し、足尾銅山を経営した古河鉱業〈現古河機械金属㈱〉を始めはじめ、大口生産者に強力に肩入れをしました。

 

 簡単に言えば、当時の日本は、銅と絹を売り捲り、稼いだ金を元手に軍艦を購入するなど、軍備拡張を画策しました。つまり、鉱毒事件の原因企業「古河鉱業」は典型的な国策会社でした。なお、足尾の銅生産量は当時、国内シェアで40~50%。国内第1位を誇りました。


 こうした時代背景の下で、正造先生は「足尾銅山の操業を止めさせろ!」と明治政府に迫りました。つまり、これは明治維新以来、政府が推進してきた殖産興業政策を全否定すると同時に、軍拡路線の見直しを迫る極めて激しい要求であったと言えます。 
 

 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。


 次回は、正造先生がお墓に関する謎について紹介させて頂きます。乞うご期待!