広大な大湿原が広がる渡良瀬遊水池
台風の通過にともない、渡良瀬遊水池内は増水。水かさが下がれば普通に車で通れるはずなのですが、残念ながらこの日はGATEで厳重に封鎖されていた。
そこで、ねむの会は予定を変更し、仕方なく徒歩で旧谷中村跡を目指し、外堤防の内側に延びる2車線の舗装道路をしばらく歩き続けました。
渡良瀬遊水池内に延びる道路 普段は日中、車で遊水池内を走ることができます。先を歩くのはねむの会の同士たちです。
30分ぐらいは歩いたでしょうか。先行する同士たちの姿がどんどん小さくなっていきます。前年に野麦峠を目指す山道で置いてきぼりにされた苦い経験がある私は、その後を必死に食らい付きました。でも、同士たちの直線一気のカマシ先行に付き切れず、私は万事休す!
渡良瀬遊水池内で見付けた群馬-栃木県境の標示板 遊水池内は板倉町(群馬県)と藤岡町(現・栃木
市:栃木県)の境界に当たります。
それにしても元気な同士たち。伝蔵先生と寅市先生は還暦を過ぎた御仁。健脚揃いの同士たちに当時はまだ40代の私は早々白旗を挙げました。そして、「ここでそんなに慌てても仕方ねえだろっ!ヘンッ!!」と勝手に敗北主義を決め込み、辺りの非日常的な景色(つまり広大な湿原)をじっくり堪能しながらマイペースにテクテク(トボトボ?)歩き続けました。
渡良瀬遊水池の大湿原 この湿原は平成24年にラムサール条約に登録。つまり、現在、水鳥の生息地として守られるべき世界的な湿地に列記されています(スゴッ!)。
だいぶ足が重くなって参りました。この先、何が私たちを待ち受けているのでしょうか?少し不安になってきました。
すると、前方で立ち止まる同士たちを発見!
「何て優しい同士たち!脚力の弱い私に気遣ってくれていたとは!!」
ところが、近付いてみると、それは大きな勘違い。実は巨大ゲートに行く手を阻まれ、立ち往生しているだけでした(苦笑)。
やばっ!見つかれば磔刑か?
渡良瀬遊水池のド真ん中で立ち往生したねむの会。このままでは、今までの苦労は水の泡。それでも路傍の案内板の地図によれば、旧谷中村の遺構はゲートの先にあるようです。ゲートは普段開いており、同所まで車で楽々行くことができそうなのですが・・・
渡良瀬遊水池内の巨大ゲート ゲート先の谷中湖畔に続く道路はほぼ水没していました。なお、夜間はゲートが閉鎖されます
。
夕闇が迫る、この大湿原に佇むのはねむの会の私たち4人のみ。
「やっちまうか・・・」
ねむの会は決死のゲート破りを敢行。
江戸時代であれば、関所破りは重罪。見付かり次第、現地で磔刑に処されました。国定忠治は大戸関所(東吾妻町)を破った罪で捕縛され、同所で処刑されたことは有名です。
かくいうねむの会同士も、ほぼ全員が公務員。公務員の信用失墜行為で法律で厳しく禁止されていることは十分承知しています。
「見付かったらやベーだろナー・・・」
でも、体は前々に動いていました(内緒です。シィーーーッ!)。
前進するほど辺りの水嵩が増えてきました。
そして、ついに道路が浸水し、行く手を遮られてしまいました。
すると、右手前方に公園のような場所を発見。ただし、台風一過後の増水で完全に浸水していました。
後で調べたところ、公園は「史跡保全ゾーン」と呼ばれ、谷中村遺跡そのものであると同時に、谷中湖畔のレクリエーション施設でした。水が引けば、村役場や正造先生に縁が深い雷電神社、さらに民家の跡地など旧谷中村の遺構の数々を見学することができるようです。
意気盛んな同士たちでしたが、さすがに水中特攻は断念。撤退を余儀なくされました。
そして、夕闇が迫る大湿原の中、帰りを待つVOXY君のもとへ再び歩き始めました。
それから約半年後の平成24年4月、ねむの会は仕切り直し、渡良瀬遊水池に再び足を踏み入れました。
幸い、今度は水嵩が下がっており、谷中湖畔の公園までVOXY君に乗って潜入することに成功。そして、ついに谷中村跡に遺る生々しい遺構を目にすることができました。
その詳細を紹介させて頂く前に、旧谷中村について紹介させて頂きます。
【資料】 谷中村について
谷中村は栃木県下都賀郡にあった村だが、1906年に強制廃村となり、同郡藤岡町(現・栃木市藤岡町) に編入された。現在の渡良瀬遊水地のある場所にあった。
室町時代からこの地は肥沃な農地として知られていた。洪水がない年の収穫は非常に大きく、1年収穫があれば7年は食べられるとも言われた。
渡良瀬川が氾濫するたびに足尾鉱毒事件により大きな被害を受け、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。1902年、政府は鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。
しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村・利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更。1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造先生は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移り住んだ。1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨の度に洪水となった。
同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議(この時、「谷中村遺跡を守る会」によれば、人口2500、戸数387。面積1000町歩)。鉱毒で作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。
末期には、鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。 このため、最後の村長は下都賀郡の書記官鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。
栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく、強制的に廃校になった。5月11日、栃木県は、7月1日をもって 谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、谷中村は強制廃村となる(この時点での人口は推計で1000、戸数140)。しかし、一部の村民は村に住み続けた。
1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり、逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現古河市)などの親類宅に身を寄せた(この年、推計で村の人口400、戸数70)。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかし、この16戸(田中正造先生も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。
1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野(現常呂郡佐呂間町栃木)への移住が開始。しかし、移住民の殆どが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。
1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年に買収額を5割増しとする判決が出ると、村民らには裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。
1917年2月25日頃、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。その後、現在まで無人のままである(Wikipedia「谷中村」より要点のみ抜粋、一部修正)。
お分かり頂けたでしょうか?最終的に栃木県会は谷中村民を裏切りました。これは栃木県の恥ずべき近現代史そのものです。政府の圧力に屈し、秘密会という闇談合で谷中村を切り捨てたのは紛れもない事実ですから。
佐野市・栃木市をはじめ、栃木県民の多くが田中正造先生を顕彰する背景には、こうした過去の過ちに対する贖罪も含まれているのではないでしょうか?
今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。有象
次回は渡良瀬遊水池内に遺る旧谷中村の遺構の数々について、写真を交えて紹介させて頂きます。乞うご期待!