いくつあるか分からない田中正造先生のお墓


 ねむの会の研修計画を毎回立案しているのは参謀長の私、白髪磨人の役目。出来れば、限られた時間の中でより多くの見学地を順序良く回りたい。そのためには事前の準備が極めて重要です。


 そこで、佐野市を中心とした本研修の見学先について、予め次のような順番を設定しました。


 ①田中正造邸宅・浄蓮寺 ②佐野市郷土博物館 ③春日岡山惣宗寺(以上、佐野市) ④雲龍寺(館林市) ⑤田中霊祠(栃木市) ⑥藤岡町歴史民俗資料館 ⑦旧谷中村合同慰霊碑 ⑧渡良瀬遊水地 ⑨谷中村跡


 田中正造先生の銅像  ②佐野市郷土博物館の敷地に設けられています。 





 上記の9カ所のうち、①・③・④・⑤は正造先生の分骨地、すなわちお墓でした。①の浄蓮寺とは田中家の菩提寺、③は「佐野厄除け大師」で有名です。また、④は正造先生の密葬が行われたお寺であり、鉱毒事件の際、「鉱毒対策事務所」という名前の闘争本部が置かれたことでも有名です。


 ⑤は元々旧谷中村に設けられた祠ですが、後に渡良瀬遊水池の堤外(現栃木市藤岡町)に移されました。他にも、正造先生のご遺骨は利島小学校(現北川辺町立西小学校)敷地内と旧久野村の寿徳寺(現足利市)など納められています。

 つまり、正造先生のご遺骨は、支持者たちによって栃木・群馬・埼玉県で鉱毒の被害が大きかった6箇所に分骨されました。6カ所もお墓を持つ人物って他にいるでしょうか?


 ⑥の資料館にお邪魔し、職員に正造先生のお墓について訊ねたところ、信じられない答えが返って来ました。それは・・・


 「いえ、6つではなく、もっとありますよ。確認されているものだけでも8カ所。ただ、正確な数はよく分かっていないんです。


 「じぇじぇじぇ!・・・(絶句)」


 正造先生のご遺骨は多くの支持者たちに分配され、大切に祀られました。つまり、正造先生の遺徳はそれ程偉大なものでした。職員に見せて頂いた資料には、確かに8カ所の墓所が記載されていました。


 ところで、明治維新の功労者の一人、西郷隆盛は、弟子たちに『死後慕われる人になれ』と説きました。正造先生はまさにそれを体現した人物でした。


 田中正造先生、畏るべし!なお、正造先生の墓石には、愛した渡良瀬川の川石がそれぞれ使われています。


 こうした事実は現地を訪ねてみないと知ることはできません。これこそが郷土史研究、そしてフィールドワークの醍醐味なのです。



 田中正造邸宅跡の前の看板 田中正造先生の邸宅跡の向かい側に立っていた物々しい看板です。先生のお顔をこのように利用するのはいかがなものか?



 それでも多読を誇らしげに自慢し、知識量をひけらかす者をよく見掛けます。残念ながら、私の経験上、生身の人間とのコミュニケーション能力が劣った人に多く見受けられます。そんな連中、ただの頭デッカチの堅物に過ぎません(毒舌失礼)


 大切なのは知識の「量の多さ」ではなく、「質の高さ」なのです。いくらたくさん本や資料を読み、歴史的事実の把握に務めたところで、それは所詮、筆者の主観が少なからず混ざった怪しさは拭えません。大切なのは、歴史的事実を自分の目と耳と心で直接感じ取ることなのです。


 あれあれ?また話が脱線してしまいました・・・

 

 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。


 次回は、渡良瀬遊水池内に眠る谷中村の遺構について、写真を交えながら紹介させて頂きます。乞うご期待!