お手製の杏子菓子に恐縮
感激の余り、だいぶ会話が盛り上がりました。
どのぐらい時間が経過したでしょうか?
その時、「お茶でもどうぞ」と奥さんが現れました。お茶菓子には何と!奥さんお手製の杏子菓子でした。思わぬ嬉しいハプニングに私たちはすっかり恐縮。なお、杏子は松代の名物。あの素朴な甘酸っぱさは今でも忘れません。
ところで、武骨な日本男児と呼ぶに相応しい直高氏が口にした言葉の数々。どれもズッシリとした重みがあり、これでもか!という説得力まり、私の大脳はすでに飽和状態になりました。
「大変お世話になりました」と謝辞を述べ、席を立とうとした私たちは、直高氏ご夫妻から温かい餞別の言葉を頂きました。
「こうして来て頂けることが(忠道の)供養になります」
胸が熱くなりました。この瞬間こそ、この言葉こそ、私が「冴えない高校地理教師」から「活きた近現代史の学徒」に大転換する、人生の大きな契機となりました。そして、栗林大将と松代の街が大好きになりました。
こうして長時間に及ぶ直高氏への直接インタビューは無事に幕を閉じました。
千載一遇のチャンスをキッチリものに
今、こうして松代研修を振り返ると、まずは栗林大将の故郷で手繰ったそばは、そばグルメを自認する私を喜ばせるにはほど遠いものでした。店名(沙羅樹庵)はだいぶ凝っていましたが、わざわざ遠方から駆け付けるほどの店ではありませんでした(毒舌失礼!でお。値段的には良心的なお店でした)。
とりわけ、そばが苦手な織平先生には申し訳ないことをしました。この日、空腹を数個のテンプラと栗林家の牛乳と杏子菓子でしのぎ、何一つ文句を言いませんでした。それでも、他の3人がそばを手繰る様子をうらめしそうに眺める表情が悲哀に満ちていました。織平先生、申し訳ない!(笑)
冗談はさておき、この松代研修は、学徒としての私の指向性を劇的に一変させた、極めて意義深い一日となりました。松代大本営の地下壕にも潜入できたし、何よりも栗林大将の生家にお邪魔し、大将の魂を継承する現当主直高氏から直にお話に伺うことができました。まさに千載一遇!滅多にないチャンスをキッチリものにできました。昼食のそばは物足りませんでしたが、私はそれだけで大満足でした・・・
栗林忠道陸軍大将 市ヶ谷記念館に展示されている写真です。
ところで、帰り道、鳥居峠を過ぎてから、当時民主党政権が建設中止を検討していた、話題沸騰中の八ツ場ダム関連の工事現場に寄り道しました。すると、そこには水没地区住民が暮らし始めた代替地に豪邸が林立。唖然としました。補償でカネが動くのはやむを得ません。
「何でこんな山奥に?」
「まさにゴネ得じゃん!?」
などなど、非難囂々の私たち。全く遠慮がありません(苦笑)
そして、VOXY君に戻り、再び帰路に付いた途端、容赦ない雹の嵐がVOXY君を直撃!
「ビェーーッ!」
直径3cm程のデカい雹がVOXY君を急襲。外に出ていたら、頭直撃で死んでいたかも(苦笑)。代替地
に降り立ち、で不謹慎にも水没地区住民の悪口を叩き捲った私たちへの天罰かも?
それにしても、私たちの身代わりとなり、激しい痛みに耐えてくれたVOXY君、ありがとう!まるでその姿は硫黄島で本土防衛の盾となり、捨て身の持久戦を展開した日本軍守備隊のようでした(大袈裟か?:笑)
わが心の師匠 栗林忠道陸軍大将
硫黄島の戦いは、昭和20(1945)年2月16日、米軍の艦艇・航空機による同島への猛烈は砲爆撃で火蓋が切られました。それは上陸に備えたものでした。
米軍の上陸準備砲爆撃を受ける硫黄島 昭和20年2月17日に撮影されたものです。Wikipediaさんから引用。
同月19日、米海兵隊が上陸を開始。従来通りの水際作戦は採用せず、米軍上陸部隊を十分に内陸まで引き込んだところで、日本軍守備隊は一斉攻撃を開始しました。
その後、圧倒的な劣勢に立たされるなか、地下陣地を駆使した持久戦を展開。米軍の予想をはるかに上回る粘り強さを示し、米軍幹部に「勝者なき戦い」とまで言わしめました。また、今なお米軍軍人や軍事史研究家たちの間では栗林大将の評価は極めて高く、大東亜戦争における日本軍将兵で最も優秀な指揮官としてGeneral Kuribayashi、つまり栗林将軍の名前を挙げる人が多いそうです。
そして、ついに3月16日午後4時、栗林中将(当時)は玉砕を意味する訣別電報を大本営に打電。その魂の叫びは次の通りです。
<戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来、想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり。
しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れたためにご期待に反しこの要地を敵手にゆだねるやむなきに至れるは、まことに恐懼に堪えず幾重いにもお詫び申しあぐ。
今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。防備上に問題があるとすれば、それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も施す余地なかりしことなり。
なお、父島、母島等に就いては、同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断こ破砕しうるを確信するも、何卒よろしくお願い申し上げます。終わりに駄作を御笑覧に供す。何卒玉斧を乞う。
国のために 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
仇討たで 野辺に朽ちじ 吾は又 七たび生まれて 矛を報らむぞ
醜草の 島にはびこる その時の 国の行く手 一途に思う
陸軍中将 栗林忠道>
翌17日、大本営からその功績が讃えられ、大将に昇進。それは53歳という、日本陸海軍中最年少の大将の誕生でもありました。
そして同日、最後の総攻撃、つまり玉砕を決心した栗林大将は、残存部隊に以下の指令を出しました。
<一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君
○○○〈3語不明〉テ顧ミルヲ許サズ
四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ>
硫黄島で執務に当たる栗林大将 これも上掲と同様、市ヶ谷記念館に展示されている写真です。
この2つの文面は、大将を尊敬する私のバイブルでもあります。
以後、攻撃のタイミングを見計らっていた栗林は、ついに26日、約400名の将兵らとともに、自ら陣頭で指揮を取って米軍野営地に夜襲を敢行。以後消息は分かっていません。それでも、栗林大将は私の心のなかn永遠に生き続けています。大将こそ誇り高い日本人、そして私の心の師匠です。 合掌
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
後日、栗林大将の戦いに影響を与えたペリリュー島の戦いとその指揮官である中川州男陸軍大佐について紹介させて頂きます。実は私、今年の秋、パラオに出掛け、ペリリューに上陸。戦争遺跡の数々に触れて参りました。当ブログでその詳細を掲載させて頂き、日本軍将兵の健闘を後世に受け継いでいきます。乞うご期待!