大将が描いたイラストを拝見


 全て予想外の展開でした。アポなしで栗林大将の生家に訪問し、現当主直高氏にお会いできるとは!

しかも、話が盛り上がってきたではないか!!


 私は、直高氏に「硫黄島には行かれましたか?」と尋ねました。


 







栗林家の現当主直高氏 写真は『歴史通』に掲載されたものを引用させて頂きました。 


 単刀直入な問い掛けに対し、直高氏は 「いえ、行ったことはありません」。しつこくその訳を尋ねた磨人に、直高氏は「(遺族として硫黄島は)あまりにも悲しすぎる島だからです」と応えました。当然といえば当然です。遺族としては決して思い出したくない悲惨な出来事なのですから。


 「ヤバッ!いきなり失礼な質問をしちゃったかも?」と脳内に黄色信号が点灯し、ほぼ思考停止。後は会話の主導権を老獪な伝蔵先生に譲り、私は2人の会話の聞き手に回りました。


 アメリカ・カナダの駐在武官時代から栗林自身が選定した『愛馬進軍歌』に至るまで、伝蔵先生が上手に話を進めてくれました(さすが伝蔵先生。歴史に関する知識がどこからでも泉のように自然に湧き出す、まさに生き字引、いや「知識の泉」のような人だと改めて敬服)。

 
 真剣な私たち四人組の態度に直高氏は心を開き、栗林大将が描いたイラスト(確か馬を描いたもの)を見せてくれました。それが、靖国神社遊就館で展示されている栗林大将の絵手紙(息子太郎宛)と全く同じタッチであることに気付き、私は大感激。


 すると、直高氏は自ら口火を切り、栗林の決別電文のコピーを四人組に手渡しました。それには驚くべき事実が記されていました。そして、今想い返せば、その瞬間、私の心の中に誇り高き日本人としての動かぬ軸が定まりました。拝見させて頂いた資料は、それほど衝撃的な内容でしたから・・・



 大本営による凄まじい改竄


 何と!大本営が発表し、当時新聞各紙に掲載された栗林の決別電文。実は改竄されたものでした。


 直高氏から頂いた資料には、9カ所に及ぶ夥しい改竄のほか、4カ所の削除、6カ所の加筆も指摘されていました。それは、ほとんど原文を止めていない凄まじいものでした。

                                           

 栗林中将の最期の指令文 林が決別電文を大本営に打電した後、最期の総攻撃の前に残存舞台に下したものです。最期の「四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」は私の大好きな言葉です。写真は今月の20日、市ヶ谷記念館内の展示資料を撮影したものです。



 なかでも、栗林の辞世の句として有名な「国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ 悲しき」の最後は、「口惜し」に改竄されていました。徹底抗戦を叫ぶ大本営にとって、「悲しき」は前線に立つ指揮官の言葉としては弱腰であり、不適切と判断されたのです。


 もちろん、硫黄島で栗林が率いた将兵は、孤立無援の下で死闘を展開。決して弱腰ではありませんでした。最期の最期まで諦めず、一日でも本土への米軍機による空爆を遅らせるべく、ベストを尽くして戦いました。


 それでも、矢弾、つまり武器・弾薬の補給が絶たれてしまった以上、持久戦にはおのずと限界がありました。いずれは負けると分かっていながら、栗林は決してブレず、全軍に敢闘を促しました。そして、将兵たちの凄まじい戦死を目の当たりにしました。それは指揮官である自らが強いた戦術による残酷な結末だったことでしょう。栗林は、そうしたやるせない想いを「悲しき」という言葉に込めたのだと私は思います。決して厭世的な感情を投影させたものではありません。


 また、電文の最後に結んだ「何卒玉斧を乞う」は削除されていました。そもそも大本営は、硫黄島、そして栗林以下日本軍の将兵を早々見捨てました(硫黄島へ着任させた時点で見殺しにしていたふしも)。


 食料や武器・弾薬の補給、友軍の支援に期待しながら、同島で必死に戦う将兵たち。大本営はあっさりと見殺しにしました。すなわち、「何卒玉斧を乞う」を削除することで戦況が切迫している事実を隠し、大本営は保身を図ったのです。


 総じて、直高氏に頂いた資料は、当時の大本営に対する強烈な批判で貫かれていました。資料を用いながら丁寧に説明して下さった直高氏。その反面、険しい表情が実に印象的でした。


 次回は、いよいよ今シリーズの最終回。小一時間に及んだ直高氏との会話の最中、想わぬハプニングが発生!乞うご期待!


 ご訪問頂き、ありがとうございました。