他の軍人と一緒にして欲しくない!


 どうやら午睡の邪魔してしまった四人組。「お休みのところ申し訳ありません!」と口を揃えながらも、想定外の栗林家ご当主の直高氏ご本人の登場に興奮。


 早速、「G馬県から研修でこちらに参りました。私たちは高校の社会科の教員です<実はウソ。社会科(正確には地理・歴史科)は伝蔵先生と私のみ>」と、まずはこちらの自己紹介。そして、この好機を逃すまいと、私は体を前に乗り出しました。


 一方、直高氏は、変わった4人組の突然の訪問客に慌てるそぶりなど全く見せず、どっしりと構えておられました。やや小柄な体格ながらも、眼光の鋭い御方でした。


 初めは、こちらの出方を注意深く観察されていた直高氏。一歩間違えれば、突き刺されてしまいそうな、相手を威圧する強烈なオーラを放っていました。さすが陸軍大将のご親族です。


 直高氏との会話は時が経つにつれ、盛り上がり、およそ1時間に及びました。会話の前半で最も印象に残ったのが、叔父忠道へのに対する深い畏敬の念。直高氏は「他の軍人と(叔父の忠道を)一緒にして欲しくない!」とキッパリ言い切りました。それは実に深い重いお言葉でした。                       


 栗林が指揮官だから敢闘できた(牟田口だから頓死した)


 牟田口廉也陸軍中将は、インパール作戦で数万の将兵を空しく死なせました。自軍が飢餓と疾病で崩壊しつつある時に、後方で芸者遊びをしていたそうです。でも、現地で責任を問われることなく、そのまま日本に帰還。生涯、同作戦の正当性を主張し続け、失敗の全てを部下に押し付けました。牟田口こそ帝国陸軍の最低軍人です。


 とんでもない将校は他にもいます。


 それは「日本陸軍のユダ」の異名をとる田中隆吉。田中は、陸軍少将という経歴をもちながら、ハナから国際法を否定した東京報復裁判で検察側の証人を務めました。そして、陸軍内部の複雑な組織や人間関係などを悉に身振り手振りを交え、軽やかに証言したそうです。


 そもそも田中には誇大妄想癖があり、それらの証言にはかなり疑わしいものも含まれていたそうですが、結果的にそれらは訴追された日本の戦争指導者たちを貶める証拠として採用され、東條や武藤以下、大勢の陸軍の幹部が処刑されました。


 実は、抗日運動家に資金を渡して日本人を襲撃させ、上海事変を引き起こした張本人こそ田中です。田中こそ戦犯として訴追されるべき謀略家なのですが、彼は保身をはかり、GHQに自分の魂を売り渡しました。売国奴とは、まさに田中のような人物をだと思います。


 一方、栗林大将は、硫黄島での戦闘が絶望的な状況に陥っても、将兵たちの士気を鼓舞し続け、最期は階級章(陸軍中将だが、戦死する直前に大将に昇進)を外し、周囲に残った300名余りの手勢を率いて戦ったそうです。それも俗に言う「バンザイ突撃」ではなく、米軍側に死者170名もの大損害を与える用意周到なものだったと伝えられています。


 空から眺めた硫黄島  硫黄島は太平洋に浮かぶ小さな火山島。左側が擂鉢山です。いつか上陸したい日本の領土です。


 「敵を10人倒すまでは死ぬな!」という趣旨の訓辞を自ら実践して戦死した栗林大将(なお、自ら敵陣へ突撃し、戦死した陸軍大将は栗林だけです)。それに対し、牟田口は、軍人としてあるまじき敵前逃亡。両者の差はあまりにも大きすぎます。直高氏がおっしゃった「他の軍人と一緒にして欲しくない!」は、もちろん牟田口を名指しで口撃したものではありませんでしたが、そんな意味を含んでいるものだと思います。


 ところで、死ぬのが分かっていながら戦うことの辛さは、私のような凡人には到底計り知ることができせん。死闘を展開した栗林大将以下、日本軍哨兵たちの辛さの向こう側にはいったい何が見えたのでしょうか?やはり暗黒の地獄でしようか?逆に意外にも朗らかな無私の境地でしょうか?それとも・・・


 映画『硫黄島からの手紙』で描かれた通り、実際に栗林大将は徹底した持久戦法を採用。当初5日で落とせるとした米軍の猛攻を懸命に凌ぎ、1カ月半もの間組織的な戦闘を継続しました。


 それでもついに昭和20年3月26日、栗林大将以下300名余りの手勢による最期の総攻撃で守備隊は壊滅。日米間の組織的な戦闘は終結しましたが、結果的には、日本軍は自軍を上回る損害を米軍に与えました(日本軍側は死者20,129名に対し、米軍側は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名)。なお、硫黄島の戦いは、米軍が第二次世界大戦で最も大きな人的被害を受けた戦闘の一つに数えられています。


 ところで、栗林大将は米軍が上陸に備え、来る日も来る日も兵士たちに地下壕を掘らせました。そして、兵士たちは過酷な掘削作業によく耐えました。米軍との激戦の最中、本土からの食料や武器・弾薬などの補給が絶たれ、やがて大本営からも見捨てられても兵士たちは敢闘精神を決して忘れませんでした。そのように日本軍守備隊が士気を保ち、硫黄島で敢闘できたのは、やはり栗林大将の統率力によるところが大きいと思います。


 「カリスマ」とは周囲を感動させる力に裏付けされたリーダーを指すと思います。栗林は決して権威主義者で部下を率いる人ではなく、まさに硫黄島に君臨したカリスマでした。事実、大勢の部下から慕われていたそうです。牟田口のような愚将とは180度違う真のカリスマ軍人だったからこそ、兵士たちは栗林大将の下で結束し、「護国の鬼」と化して米軍を震え上がらせたのです。 



 次回は、当日直高氏に見せて頂いた資料とその内容を紹介させて頂きます。


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