これゾ至福のそば!激ウマッ!!


 平成22年秋。吉田石間交流館を後にし、ねむの会は一旦秩父市街へ。お目当ては、やはりこの日も「手打そば こいけ」さんのそばでした。


 当時私が残した記録をもとに、グルメリポートをお届けします・・・



 暖簾をくぐり、早速「もりそば」を注文。出来上がりをまずはつゆを付けずにズルズル。口を閉じて鼻から息を抜いてみる。すると、強い芳醇なそばの香りがプンプンだ。850円のもりそば。決して安くない。硬めで細長く、弾力が強い麺。角立ちもいい感じでした。


 「二八で上手につないでるナー」と感心。ところが、十割で打ったそばであることが後に判明!相トー良い粉(すなわちそばの実の芯の近く)を使っているはず。

 

 ところで、こちらのお店ではMENUにうどんを置いているので、つい先入観が働いてしまいました。なぜなら、うどんも打つそば屋に入り、私は過去何度も失敗。そば粉の値段が高いため、どうしてもつなぎにうどん粉、つまり小麦粉を多めに使って客をダマすサギそば屋が少なくないからです。でも、こちらのお店は、正真正銘、国内産そば粉と自家製粉、生粉打ち=十割にこだわる、実に嬉しいそば屋でした。


 つゆを付けて思い切りススると、麺が喉を通る軌跡が喉元からはっきり伝わって来る。次に、麺を噛む。水澤うどんのようにキメが細かく、そば粉がビッチリとつながっている感じがよく分かりました。


 ネットで後で調べ直したところ、店主の小池さんは、近代蕎麦の始祖とされる故片倉康雄氏が開いていた東京・池之端の「一茶庵蕎麦教室」で、片倉氏の助手を務めていたことが判明!やっぱり凄い人でした。


白髪磨人オフィシャルブログ 「maji blo」 -こいけさん
   

     激ウマ!のもりそば    再UPさせて頂きました。


 つゆは、味醂も塩分も控えめ。まさに上品な味付け。細打ち麺との相性も抜群でした。この2年余りで約100軒のそば屋を行脚した磨人。これゾ!№!の激ウマそばだと実感しました。


 旨すぎて我慢できず、全員2枚目に田舎そば(850円)を注文。出来上がりを箸で摘むと、平打ちで、うどんにも似た重厚な麺の感触。ススると、先のせいろと同じで、そば粉の粒子がしっかり挽かれ、たっぷりと水分を吸収していることが分かる。うどんと勘違いしてしまうほど麺のキメが細かく、しっかりとした噛み応え。相当圧力をかけ、丹念に生地を練り込んでいるはず。


 まさに恍惚の輩と化した四人組は、思い残すことなく、店を後にし、再び奥秩父に戻り、井上伝蔵のお墓参りへ。



 ねむの会、ついに会計長井上伝蔵の墓前に立つ!


 VOXY君は再び奥秩父・吉田地区に向けて快走。途中、山中に巨大な公園。何かイベントで大勢の人手。「何だロー?」と興味を示す私たちねむの会を無視し、VOXY君はひたすら北上。


 途中で椋神社に寄り道。この場所こそ秩父困民党が挙兵した場所です。映画のロケで使われた社がそのままの姿で四人組を迎えてくれました。


 神社の周辺には龍勢祭りのポスターがやたらと目立ちました。数日前に祭りが行われ、龍勢花火がち上げられたばかり。その余韻が感じられました。次は、いよいよ井上伝蔵が経営した丸井商店跡へ・・・


 さらに県道を西に進む。さすがのカーナビ君も伝蔵の生家までは分かりません。そこで、カーナビ君はちょっと一休み。井上伝蔵資料館でもらった地図を参考に捜索を続けました。


 すると、道路の右側に大きな案内板を発見!VOXY君も休ませ、外に出て、案内板とその周辺を見回しました。そこに広がっていた景色とは・・・



白髪磨人オフィシャルブログ 「maji blo」 
      丸井商店の跡地
  
丸井商店は井上伝蔵の生家でもあります。



 簡単に言えば、耕作放棄されて久しい畑でした。丈の高い雑草が強い勢力を保ち、凄いことになっていました。思わず、「もう少しドーにかなんネーのかナー?」と愚痴をこぼした私。地元の人たちがやるべき仕事が、まだまだ沢山残っていることを悟った瞬間でした(毒舌失礼!)。


 そう言えば、加藤織平のお墓には花が手向けられ、お供え物の飲み物も。だが、彼を慕い、ともに戦った落合寅市のお墓は、周囲は蜘蛛の巣やら雑草やらで見るも無惨な状態。墓を守る人が誰もいないようでした。その上、墓石は上部の角が欠け落ちていました(涙)。


 かつて秩父事件が「秩父暴動」として認識されていた時代、寅市のお墓は織平のそれと同様、暴徒の墓と見なされ、心ない人たちに石を投げ付けられることがあったそうです。同じことが秩父事件に関わった他の人物たち、そしてその家族にも起きたはずです。


 ねむの会は、井上伝蔵の生家跡の前でVOXY君を休ませ、標識の案内に基づき。歩いて伝蔵の墓へ たどり着いた先には、いかにも古めかしい墓石が畑の中にポツンと3~4本。そして、一番古そうな墓石に「覚翁良心居士」の戒名が刻まれていました。これこそ井上伝蔵の墓でした。合掌

 
 時刻はすでに夕刻。随分陽が落ちるのが早くなりました。伝蔵の墓前で手を合わせたねむの会。こうして、武州秩父の旅は伝蔵の墓参りでしっとり締め括られました。


 

 以上で秩父研修の紹介は終了させて頂きます。ご訪問頂き、有難うございました!


 次回は、私が近現代史研究に目覚めた信州松代研修をご紹介致します。


 乞うご期待!