副総理加藤織平の曾孫さんも凄かった!


 平成22年秋。私たちねむの会は、秩父事件資料館(井上伝蔵邸)を後にし、次の目的地、秩父困民党の幹部、副総理加藤織平の生家を目指しました。


 織平は博徒でしたが、今で言うところの893さんとは全く違います。国定忠治も同じですが、人情に厚く、困窮した村民に金を工面するなど、面倒見が良いために村民からの信頼が厚かったそうです。そんな関係から、織平は、重税に苦しむ村民たちから秩父困民党の副総理に担がれたようです。なお、秩父困民党は、加藤家の土蔵(現存せず)で開かれた秘密集会で結成しました。つまり、加藤家こそ、秩父事件のルーツともいうべき存在なのです。

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映画「草の乱」のワンシーンです。困民党の軍勢の先頭に立つのが杉本哲太さんが演じた加藤織平です。

 険しい山中に潜り込むと、路傍の看板に地名「吉田石間」の文字を発見!映画『草の乱』の中で、困民軍が掲げた幟に記された「石間村」の墨書を思い出し、それだけで感動。

 道路は片側1車線。さらに空が狭くなる。すると、右側の土手の上でグランド・ゴルフに興じる賑やかなお年寄りの集団を発見。早速、織平の生家の場所を尋ねたところ、坂の上から老婦人がニコニコ降りてきました。この方こそ加藤家の現当主I男さんの奥様でした。


 早速、加藤家の玄関の小上がりに腰をかけ、I男さん(当時84歳)と挨拶を交わしました。さすがに困民軍№2の加藤織平の曾孫です。堂々した立ち振る舞い。鋭い眼光。とても84歳とは思えませんでした。


 それでも、緊張気味の私たちねむの会を優しく気遣い、どんな稚拙な質問にも丁寧に答えて頂きました。そして、幸運にも、織平が小笠原村の愛人に宛てた手紙を見せて頂きました。もちろん、織平の直筆で、まさしく一次資料です。次に見せて頂いたのが、和紙に記された金銭貸借書。そこには、貸し主の欄に織平自筆のサインが記されていました(ス、スッ、スッゲーッ!)


 さらに、アルバムを持ち出したI男さん。そこには、映画で織平を見事に演じきった杉本哲太さんと一緒に、今腰を下ろしている同じ小上がりで撮影した写真も見せて頂きました。杉本さんは役作りのために加藤家に度々訪問したそうです(さすが!プロの役者さんです!!)


 奥さんは杉本さんが相当気に入ったらしく、「いかにも爽やかな好青年」とベタ褒め。なお、妻のコマ役の藤谷美紀さんも見たままの清楚な女性だそうです。他にも、北海道時代の伝蔵の妻高浜ミキを演じたキャンディーズの「スーちゃん」こと故田中好子さんの話で盛り上がりました。


 アルバムを次々にめくっていくと、そこに軍服姿の少年の古めかしい写真を発見。何と!それはI男さんの70年前、14歳の頃の写真でした。よく見ると、「7つボタン」と「桜に錨」。思わず、「ン?エッ!」と絶句。I男さんは何と!予科練の出身者でした!!(予期せず、凄いお方と会ってしまった!)


 ところで、当時予科練に入れたのは、70倍もの難関を突破した超エリート少年だけです。予科練では特攻の訓練に明け暮れたというI男さん。幸い出撃命令が下る前に終戦を迎えたそうです。


 先月、霞ヶ浦西岸の旅で予科練記念館で研修したばかりの私たちはすっかり大興奮。どうりで眼光が鋭いわけです。軍歌「若鷲の歌」のごとく、公のために「命惜しまぬ」御方なのですから・・・


 帰り際に、御夫妻と一緒に玄関先で記念写真を撮影。その写真が前々回に掲載させて頂いた一枚でだったわけです。


 別れ際に、屋敷下の路傍にある織平のお墓参りもさせて頂きました。昔は学校の授業で秩父事件を一方的に「暴動」と決め付け、織平以下、関わった者を「暴徒」と教えたため、地元の小学生が学校帰り、織平の墓に石を投げ付けたこともあったそうです(後述する吉田石間交流館長の談)。


 加藤家を後にし、さらに山奥の吉田石間交流学習館へ。館内には、秩父事件を描いた大きな油絵が何枚も展示されていました。作者は何と!沼田市薄根地区のご出身だそうです。他にも、借金の帳消しを要求する困民軍の襲撃を受け、刀でズタズタに切り刻まれた商家の柱にビックリ仰天!

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吉田石間交流館内で一際目を引く常設展示品。打ち壊しにあった大宮郷(現・秩父中心市街)の高利貸しの大黒柱です。秩父困民党の襲撃を受け、刃物の痕が生々しく遺されていました。





 それにしても、奥秩父の山里でこれほど心躍る体験ができるとは、夢にも思いませんでした。秩父最高!困民党万歳!


 ご訪問頂き、有り難うございました。次回は、再び井上伝蔵のお話を紹介させて頂きます。乞うご期待!