2015年の前半、東京にいる私は、実家のある沖縄県石垣島にいる母が酩酊し、おかしな言動があるとの話を、同じく東京にいる母の妹である叔母から聞く。 

 

 五月。母の弟である叔父が亡くなり、その葬式の席でのよろしくない母の振舞いも叔母から

聞く。

 何となく良心の疼きを感じていた私は、久し振りに帰省してみることにする。

 

  同じ年の十月半ば。私は羽田からの直行便で、石垣島に帰省する。九年振りであるが、その時は友人の結婚式であり、同じ頃、沖縄本島の那覇に赴任していた父(と、付いていった母)は、空いた実家を他人に貸していたので、私が実家の門をくぐるのは、じつに二十年振りであった。

 

 父が車で新空港まで迎えに来た。家まで三十分。玄関に入ると、いまいち生気のない母が出迎える。罪悪感が刺激される私。

  一応、宴会風に酒を飲んだり、喋ったり。

  父、突然激高する。理由は映画好きの私が、今現在石垣島に映画館がないことを、文化的水準が低い、と揶揄したことによる。笑い話の中でである。おまけに私は浪人してまで地元の大学に受かることもできなかった劣等生である。さらに加えれば、四十歳の独身のフリーターである。発言力はない。言葉に重みもない。そんな私の軽口に父は異様に反応したのだ。

まとめると、

「生意気なことをいうな」とのことである。

 

 しばらくして母が、「気分が悪い」と言って、横になった。

 その母を尻目に、父が、

「お母さん、反応が鈍いだろ?」と言った。

 私は慄然とした。ショックでもあった。子供三人が巣立ち、これからは夫婦二人でのんびり仲良く暮らしていけばよいと、またそうしているだろうという私の希望的、夢想的観測は無残に打ち砕かれたのだ。これが現実なのだ。息子の私に免罪符を発行するつもりなのだ。息子の前で母を貶めようとするつもりなのだ。

 

 そういったことすべてが先の一言で明瞭に直観せられたが、これが一体どういうことなのか、私にはまだこの現象を言葉にすることができなかった。

 ただ、目の前で母を裁く父の姿を許容する身分になりたくなかった。私はあえて、この件に関してはあまり興味がない風を装い、生返事をしながら新聞に目を落としていた。すなわち、お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!と無言で訴えていたのだが。

 父は話を継がなかった。酒は注いだ気がする。

 

 そんな風にして、二十年振りの実家での夜は白々と過ぎた。

 

 二日目も母はぼんやり感が満載であった。何の知識もない私にはどうすることもできなかった。ありきたりの質問をして、生返事をもらうくらいであった。酒のことを問いただそうとは思わなかった。誰が見ても酒が好きで飲んでるわけではないのだ。

 否。私はまだ現実を直視したくなかったのだ。髪には艶がなくボサボサで、化粧気もなく猫背でよろよろ歩いている人は、私の中での母親像とは遠く離れていた。

 外に出る。青い空と白い雲の輝きは、家の壁で遮断されていたのだ。

 虚しく、眩しかった。

 

 石垣島からさらに南にある、黒島に住む母方の祖母に会い、石垣の養老院?のようなところにいる父方の祖母に会い、高校の同級生に会い、車でドライブをして、三泊四日の旅は終わりを迎えた。

 空港までは父が車で送ることになった。その日の朝、母がしきりに気分が悪いと訴える。昨晩もそうであった。これはいつものことなのか?どうしたのだ母よ。いったいどうしたのだ!

 私は少し強めに父に、「お母さんが気分が悪いと言ってるよ!」と言った。父は母に、「病院に行くか?」などと言っているが、すべては嘘くさく、やさしい夫の証拠固めを己自身と私と母にしているようにしか見えなかった。私は「証人」にされたのだろうか?

 

 とにもかくにも、母も車に同乗し、空港に行く前にさるクリニックで母の受付を済ませ、母に別れを告げ、私と父は空港へ向かうのだが、その前に父が最近購入したという木と草だらけの土地を見せられた。ここを自分で開墾し、何かの店でもやる計画があるという。もちろん私は白けていた。今、ついさっき母を病院に連れていったのだ。憔悴している母を。父は母のことなど大して心配していないようであった。おそらく母に何があっても己に責任が降りかからないような準備はできているのだ。その自信があるのだ。非難されない言動を、証拠固めを、日々しているのだ。そしていざとなれば充分に悲しむ準備もできていることは疑いがなかった。

 「オレハ、コノオトコノ、ムスコナノダ」

 私は自分に言い聞かせていた。

 

 東京のアパートに戻った夜、名古屋にいる兄と電話で一時間ほど今回の件について話し、

ふと携帯を見ると父からメールの着信があった。

 

 《母は入院することになった》とある。《間に合ったよ》とある。間に合ったよ?ずっと側にいる人のセリフなのかこれが。もしも私があの時実家にいなければ、果たして父は母を病院に連れていっただろうか?私は父に電話した。父はメールと同じようなことを語った。幼い頃から感じていた違和感を私はまだ言葉にできなかった。

 これは何だろう?まるで住み込みのお手伝いさんのようなこのセリフは?明らかに触れられたくない部分を、強硬に守っているこの男は?長年連れ添った己の妻より大事なものは何だろう?言外から、俺は悪くない、俺の責任じゃない、と叫んでいるこの男は一体何者なんだろう?私はその叫びを聞きたくないので、早々に電話を切った。

 

 しかし取りあえずほっとしたことは事実なので、関東にいる妹や練馬の叔母に入院の件を伝えると、同じように安心していた。

 私はこう思った。二週間も入院するのだ。これで父は母に優しくなるだろう。心を入れ替えて夫婦仲良くやっていくだろう・・。

 

 翌年の2016年、九月。妹からメール。《母の病気が再発してマス》

 私の気持ちは暗く沈んだ。

 

 

 前年、二週間の入院中、幻覚症状も出たという母は退院後、話を聞く限り小康状態で安定していた。だが肝硬変とやらで肝臓がだいぶやられていたのだ。今度飲んだら命に関わるとまで医者には言われたらしい。むろんその件は周りの従姉妹、親戚中に知れ渡っている。私はそれで安心していた。いくら体面を取り繕っても、己の妻が酒を飲んで体を悪くして入院したのだ。これですべてが好転するだろうと。たしか父もその頃は、「自分は仕事を辞めて母の面倒を見てもいい」とか、「家の中にアルコールのない文化というものを味わってみるさ」とか口当たりのいいことを言っていたのだ。

 

 あにはからんや。以前より悪くなっている母の報告が入ってくる。結婚して、夫と子供と三人で関東に住む妹が、この件でかなり激怒。石垣や沖縄本島に住む従姉妹、親戚に連絡を取り、実家にいた父方の祖母の面倒を別の人に見てもらい、そして母を関東の病院にしばらく入院させることにまで持っていったのだ。まことにあっぱれな働きぶりで私は感心してしまった。

 私はといえば、初期費用などで即時の入院をしぶっているらしい父に、俺が出すから早く入院させてくれと妹に伝言したくらいである。(じっさい出すことにはならなかったが)

 

 母はアルコール依存症(以下、A依存症)ということになっている。バイト仲間にその件を訊ねると、それは大変な病気だからとにかく知識を持たないと、と言われ、それもそうだなと思った私はとりあえず古本屋へ行く。そこでA依存症の本を物色していると、ある本がふと目に入る。

 「モラルハラスメント~人を傷つけずにはいられない~」(以下、『モラハラ』)である。

 少し拾い読みして気になった私は、A依存症の本とともに購入する。

 

 杉並のアパートで『モラハラ』を読んだ私は、衝撃を受ける。あまりのことに読んでいる途中で妹にメールをした。

 《母は父からモラルハラスメントを受け続けているのだ!》

 人生でここまでの確信はめったにない。なぜ確信できるのか?私は父の子であり、その家で育ったからである。途中、出たり入ったりがお互いにあったが、二十六歳で家を出るまでは一緒に住んでいたのだ。そして私が青ざめたのは、私が家を出た後は、母は一人きりでこの父と対峙していたという、今さらながらの事実である。罪悪感がさらに刺激される。私は母をスケープゴートにしてしまったのか?

 

 私は父を詰ったことがない。反抗期はなかったのだ。否。暴力で押さえ込まれ、また怒りはたくみに別のところへ誘導されていた。それは兄に向かった。父に対する怒りは、無意識に兄に向かっていたのだ。今思えばあれは歪んだ衝動であった。中学生の半ばまで兄との関係は最悪で、私が始めて殺意を覚えたのは兄に対してであった。(それも小学校の低学年で!)

 慙愧に耐えないことの一つである。父はそんな兄弟の仲を取り持とうとしたことはない。しかし、どうやらそういう父との曖昧な親子関係にピリオドを打つ日が近づいていると、私は全身で

予感していた。

 

 その年の十月末。母、入院のために上京し、関東某区の妹宅へ。

 妹宅に一泊して、翌日入院。私も同行して担当医と色々話をする。途中、母に席を外して貰い、私は、私が思うところの本音を担当医に語った。

 曰く、母を石垣に戻す気はない、A依存症の根本原因は父であり、あの家に戻ることは母にとっては絶望であり、その前提で話を進めないで欲しいと。今はともかく、少し落ち着けば母も当然、私と同じ気持ちになると確信していた。その思惑は2ヵ月後、見事に打ち砕かれるのだが、この時私は疑いなく確信していた。とにかく家を出たのだ、これで何とかなると。

          

 あれからモラハラに関する本をいくつか読んで、私は胸が痛み、腹が立ち、悲しみ、幼少時の記憶を書き換えたりと、だいぶ心の変動があった。そして先の『モラハラ』に続いて、私が最重要視する本は以下の二冊。

 「カウンセラーが語るモラルハラスメント」(以下、『カウンセラー』)と、「モラハラ環境を生きた人たち」(以下、『モラ環』)である。著者は同じで、谷本恵美氏。

 

 父はモラルハラスメントを遂行する夫、通称「モラオ」なのだと私は確信したが、思うにそれは、父の母に対する態度もそうだが、(そもそも上京して十年間、私は父と母のやり取りを直接見てはいないのだ)父が、私を含め兄や妹に対していた態度を思い出して、そう確信しているのだ。いわば体が覚えている。

 

 以下の引用文、加害者=モラハラパーソナリティ=父、の意。

 被害者=あなた=母、の意。

 

 「モラハラという行為が継続的に繰り返される家庭内においては、常に緊張と不安が作り出され、被害者を精神的に、常に断崖絶壁にいるような感覚に追いつめ、心をズタズタにしていき・・・そうした緊張と不安に満ちた家庭で過ごす他の家族(特に子どもたち)への影響も非常に大きい・・」

 

 「モラハラパーソナリティは、自分はこういう人間だ、こうあらねばならないとイメージしている自分の世界を守るために、他者(被害者)を貶め、攻撃して支配しようとし続けます」

 

 「モラルハラスメントとは、こういう行動がモラハラである!と、行動そのものを指して言うものではなく、自分の心の問題や・・・葛藤から逃げるために・・・モラハラ行動によって自分の問題を処理しているという点が重要なのです」『カウンセラー』

 

 「・・そうやって相手を傷つけ、貶めることによって自分が偉いと感じ、自分の心のなかの葛藤から目をそむけるような人間なのだ・・・うまくいかないことはすべてほかの人の責任にして、自分のことは考えなくてもすむようにする・・」

 

 「・・罪悪感もなければ、精神的な葛藤から来る苦しみも感じない・・・加害者の〔変質性〕はまさにそこにある」

 

 「・・自分を省みることなどは決してしない人間なのだ・・その方法によってしか他者との関係をつくれないのだ」

 

 「・・責任を感じなければならなくなった状況では、必ず誰かを巧みに攻撃してその人間に責任を押しつける」

 

 「・・他人を破壊し、貶めることによってしか生きていくことができない」

 

 「反対に他人に対する尊敬や同情は感じたことがない」

 

 「・・きわめて自己愛的な人々なのである」

 

 「・・加害者は心理的に相手を殺していき、その行為を繰り返していく」

 

 「・・他人の人生を自分のものにして生きていくのだ。これは精神の連続殺人なのである」

 

 「・・他人を尊重するなどという考えは存在しない・・」

 

 「・・そこで暴力がふるわれたという証拠はひとつもない」

 

 「・・被害者がどれほど悪い人間であるかを強調して、もしそうなら非難されるのは当然であると、まわりの人間に思わせることに力を注ぐ」『モラハラ』

 

 「モラルハラスメントという攻撃のもっとも恐ろしい点は、被害者の性格を変えてしまうことです・・・その性格の変化がモラハラの影響であることを、本人も周りもなかなか気づかないという特徴があります」

 

 「もちろんモラハラパーソナリティは、自分の態度や言動が原因だとは一切考えることはありません・・・感情的になってしまったあなたの振る舞いを、侮蔑や攻撃の材料に使うことでしょう」

 

「モラハラパーソナリティにとって、家族や職場の構成員は自分のために存在し、相手のことは関係ありません。環境内の構成員を自分のイメージ通りに動かそうとします。自分自身の心の葛藤、イライラやストレスを処理するために、構成員を使います」『モラ環』 

 

 

 どのタイミングで母にこれを伝えよう?まして父に対して。

 母は当初の予定では、三ヶ月入院することになっていた。私は、この期間に母は覚醒し、父との関係を考え直すであろうと踏んでいた。病院から家が近い妹は(だから妹はそこを選んだのだが)、娘を連れて週に三回も病院に顔を出していた。私は月に三度くらいであったが、必ず何らかの本を持参し母に読んで貰っていた。急に膨大な時間ができた母も、読み物を欲していた。

 様々な本を読み、ラジオを聴き、別の患者たちと触れ合い、病院の先生やスタッフと話すことで、おそらくは閉じていた視野が広がり、客観的な視点を得て、母は何らかの解決策を見出すであろうと私は期待した。あとで気づくのだが、私はどうやら抑え込まれ、捻じ曲げられていた反抗期の怒りを、今さら父に対して表明しようとしているらしかった。

 

 

 「・・子供に対するモラル・ハラスメントの場合、親は子供の価値を否定する指摘やほのめかしをすることが多い。これは一種の洗脳である」

 

 「モラルハラスメントを行なう親は、以前、自分自身が受けた屈辱を・・あるいはいまでも受けつづけている屈辱をはらすために、子供に屈辱を与えようとする・・子供が楽しむのを見ているのは我慢できないことである」

 

 「教育を口実に、親は子供の意志を破壊する。そしてまた、批判精神の芽を摘んで、親に対する判断力を失わせてしまうのである」

 

 「こうした子供は自分の考えを持てず、個人としての人格を形成することができにくくなる」

 

 「モラル・ハラスメントの攻撃を受けた子供は、自分を守るために意識を〈分裂〉させるしか方法がなく、その結果、心の中に〈死〉を抱えることになる。こうして、子供の頃にあった出来事が消化されないと、それは大人になってから、さまざまな形で再現されることになる」『モラハラ』

 

 

 アメリカ映画、「ボーイズライフ」で、ラストに、暴君の夫から、妻と子供が逃げ出すシーンがあるが、何となくそんなことも考えていた。

 さらに馬鹿げた妄想で、ファミコンソフト、「スーパーマリオ」のように、マリオがピーチ姫を助け出すようなイメージもあった。六十五歳の老婆と四十男であるが。むろんそうなると、私はまた石垣島の実家に行かなければならない。しかしそうはならない。母はすでに家を出ているのだ。これは妹の快挙である。母を助けたのは妹なのだ。私じゃない!

 

 

 「自分の意思で決定するためには、モラハラ環境のなかでそぎ落とされてきたもの、閉じ込めてきたものと、・・すり込まれてきたもの、その両方をしっかり見つめてください。この先の人生を歩むために自分はどんな考え方を持ち、どんな行動をしていきたいのかをしっかり見極めていく必要があります」

 

 「そして、行動の決定に至るまで、傷ついた心のケアは大切です。攻撃の無いところで、傷ついた心のケアを優先し、人生を左右する決定を自分でできるようになる状態を手に入れることがやはり理想的です」『モラ環』

 

 

 病院の先生と話して色々気づかされた。この病院は精神疾患やA依存症の専門である。今の生活を立て直し、今後の生活方法の指針を与えてはくれるが、個人的な人間関係には立ち入らないし、ましてや夫婦間のモラハラなんて管轄外なのだ。私は一応、担当医にモラハラについて話してみたが、いまいちピンときていない様子であった。もしくは敢えてスルーしたのかもしれなかった。

 

 母の入院当初、感情的に父と話していたのは妹のほうだったので、私はできるだけ冷静に話すことに努めた。いずれモラハラについて話すときが来るのだ。私はそのタイミングを探っていた。そしてできるだけ長期療養を母に薦めるように、父に頼んだ。

 モラハラに関して私は衝撃を受け、その解決が、つまり夫婦をしばらく離す事が先だと思っていたので、A依存症についてはあまり考えていなかったが、「環境」を変えたほうが良いという所は一致していた。

 

 とにもかくにも、父の許可を得たうえで、私は母を、退院後も東京か関東圏に滞在させ、私と一緒に暮らすということを、父にも母にも妹にも、病院の先生にも提案していた。少なくとも二、三年、別居して療養させてくれと頼んだのだ。

 父にはその間、一人暮らしを満喫すればよいではないかと話し、母はここで通院し、A依存症患者の集まり(断酒会という集まりが全国各地にある)に参加し、実家にいるときのような、ストレスフルではない生活で回復させればいいだろうと。

 父はこの話に一応、前向きな態度を示した。曰く、

 「お母さんには子供たちの言うことを聞けといっている」

 「お母さんが納得ならそれでいい」

 

 父と母は、二十歳で結婚しているので、もうかれこれ四十五年も夫婦である。二、三年離れるくらいが何であろうと私は思った。そして私は、この案がうまくいけば、母は今までの人生をゆっくり振り返り、点検し、客観的に分析、反省し、そして生きる力を取り戻すだろう、新たな人生の意義を見出し、自分のやりたいことを自覚し、残りの人生を楽しく豊かに過ごす道を見つけてくれるだろう、何も我慢することなく、のびのびと己の人生を生きるだろう、などと考えていたのだ。

 

 母が入院して二週間が過ぎた頃、私は先生の許可を得て『モラハラ』を母に渡し、読んで貰った。私は期待した。これで母が劇的に変わることを。覚醒することを。後日、読んだ母の感想は、

「当てはまるところもあれば、当てはまらないところもある」

 と、ありきたりのものであった。

 もっとも『モラハラ』の著者はフランス人であり、症例も当然、フランス人同志の話しになるので、ぴんとこない点があるのは私も同じである。さらに二週間後、日本人である谷本恵美氏の『カウンセラー』と『モラ環』を渡す。これに関しても、

 「わかりやすい。繰り返し読もうと思う」

 とのことである。私には拍子抜けの感想であった。

 私は父の息子。母は父の妻。入院初日、なぜ酒を飲むのか先生に尋ねられた母は、

 「夫に言い返せないからです。いつも言葉で負けてしまう。恐怖もある」

 と答えた。これがすべてだと、私は思った。

 

 母は日が経つにつれ、明らかに元気になっていた。酒を飲んでいないのだから当然か。そのうち外出許可も降り、妹や私と鎌倉に遊びに行ったりもした。上野美術館にゴッホ・ゴーギャン展を見に行ったり(私は行けなかったが)、練馬の叔母の家に泊まったりと、順調に回復しているようであった。妹の娘、母の孫娘と触れ合えるのも嬉しかったと思う。

 だが、順調過ぎたのかもしれない。

 

 入院一ヶ月が過ぎても、未だに退院後は家に帰ると話している母に、私は焦りと苛立ちを覚えていた。

 四十五年は、長い。

 私は何となく、北朝鮮に拉致されていた蓮池氏や曽我ひとみさんの、帰国直後の姿を思い浮かべていた。まだ彼の地に思いを馳せている・・。

そのようなメールを母に送り、すぐに謝罪メールを送ったりもした。

 

 

 「・・攻撃を受け続ける環境にいることを危惧するあまり、まだ自分で決めることができない精神状態の被害者に・・勧めた行動を決断できない揺れ動く被害者に対して、うんざりした態度を示す未熟な・・支援者もいます。早急な解決を望みすぎるのです」

 

 「・・閉じ込めてきた、様々な自分自身を引っ張り出す作業にかかる時間には、一人ひとり個人差があります」

 

 「自分の本来の価値観や生き方を思い出す作業からまず始めなければなりません」『モラ環』

 

 「問題の解決方法や生き方はその人自身が見つけていかなければなりません。いかに正しく思えても、その人に答え(アドバイス)を押しつけることは避けるべきです」

 

 「自分は正しいことをしている、モラハラを撲滅するのだぐらいの意気込みを持っていれば、なおさらです」『カウンセラー』

 

 

 回復が順調なので、二ヶ月で退院してよい、との先生のお墨付きが貰えた。私は全然嬉しくなかった。もっと時間が欲しい。母曰く、

 「帰って色々確認したいことがある。黒島の店も見ないといけない」

 黒島にある母方の祖母の家は商店で、祖母は高齢なので、石垣島にいる母と叔母が、交代で店番をしに日帰りで島に通っているのだ。

 しかし母は酩酊したまま島に行き、周りを心配させるような言動があることは以前から聞いている。祖母が泣いて電話してきたと、練馬の叔母からも聞いている。石垣の叔母も母の対応に四苦八苦していると聞いている。ちなみに父はこのような話を自分から私に話したことは一度もない。

 

 「戻っても回りに迷惑をかけるだけだ。心配をかけるだけだ。今戻っても誰も喜ばない。ここに残って療養することが最善だ」

 と、私や妹は母に話すのだが、母は頑なであった。

 先生の話では、「今戻っても九割方再飲酒します」とのこと。

 

 

 「・・被害者は・・不安や自信のなさを、不安を作り出した張本人に服従し、生活を続けることで補おうとしてしまうのです。これはモラハラ攻撃によって生み出された依存体質です」

 

 「被害者の現状を見て、手をさしのべたいと感じたら、あくまでも決定権は本人にある

ことを念頭において、ヒントを提供する応援に努めてください」