【石原裕次郎】 約 76万2000 件  2009-6-27 10:10 NHK アーカイブス | 検索のブログ

【石原裕次郎】 約 76万2000 件  2009-6-27 10:10 NHK アーカイブス


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【石原裕次郎】 約 76万2000 件  2009-6-27 10:10 NHK アーカイブス石原裕次郎


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石原裕次郎 - Wikipedia石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本の俳優・歌手、石原軍団初代総帥、石原プロモーション創始者(元代表取締役社長兼会長)。永遠の大スター(日本人(中)が最も愛した男)と称されることがある。 ...
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石原プロモーション会社概要ほか、所属俳優の紹介、ビデオ販売情報。
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石原裕次郎/石原プロモーション1934年12月28日 兵庫県神戸市に生まれる。幼少期を北海道小樽市で過ごす。 父は汽船会社重役。日本人離れした長い足で慶応高校時代はバスケットに熱中した。 1956年、兄・慎太郎の芥川受賞作の映画化『太陽の季節』に脇役として出演。 ...
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石原裕次郎記念館北海道小樽市。営業案内、ムービーによる館内の紹介、販売グッズの紹介。
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石原裕次郎記念館「石原裕次郎記念館」をご覧になるにはShockwave プラグインが必要です。インストールをされていない 方は上のアイコンをクリックして下さい。 裕次郎ブランド&コレクション, 石原裕次郎記念館内のショップで 取扱っております各種裕次郎ブランド& ...
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故石原裕次郎さん:“記念品”に高倉健が寄稿文 - 毎日jp(毎日新聞)2009年6月24日 ... 7月5日に国立競技場(東京都新宿区)で二十三回忌が営まれる故石原裕次郎さん(享年52)の特別番組をテレビ朝日が前日の4日、ゴールデンタイムで放送する。午後7時からのドキュメンタリー「裕次郎が遺したもの~スーパースター ...
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故石原裕次郎さん:記念品欲しい!HPパンク状態に - 毎日jp(毎日新聞)2009年5月23日 ... 故石原裕次郎さんの二十三回忌法要(7月5日、東京都新宿区の国立霞ケ丘競技場)の概要発表から一夜明けた22日、石原プロモーション(東京都調布市)には問い合わせの電話が殺到し、同社のホームページはパンク状態となった。 ...
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【石原裕次郎】


いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎

石原 裕次郎
本名 石原 裕次郎
生年月日 1934年12月28日
没年月日 1987年7月17日(満52歳没)
出生地 兵庫県神戸市須磨区
民族 日本人
血液型 A型
ジャンル 俳優、歌手
活動期間 1956年 - 1987年
活動内容 1956年:デビュー作『太陽の季節』
配偶者 石原まき子
家族 (父)石原潔
(母)石原光子 (兄)石原慎太郎(東京都知事)

公式サイト [1]
主な作品
映画
『太陽の季節』
『狂った果実』
『嵐を呼ぶ男』
テレビ
『太陽にほえろ!』
「大都会」シリーズ
「西部警察」シリーズ
[表示] 受賞
ブルーリボン賞
(新人賞・1957)(企画賞・1964)
その他の賞
毎日映画コンクール(特別賞・死後)
ゴールデン・アロー賞(特別功労賞・死後)
映画制作者協会(新人賞・1957)
国民映画賞(新人賞・1957)
芸術祭賞(賞名不明・1963年)


備考
石原裕次郎賞(追悼創設)映画の殿堂(1990年)
表示

■■■■■(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本の俳優・歌手、石原軍団初代総帥、石原プロモーション創始者(元代表取締役社長兼会長)。永遠の大スター(日本人(中)が最も愛した男)と称されることがある。現在のイケメンの元祖でもある。裕次郎カットやポケットに手を突っ込みながら肩をいからせて歩く姿は誰もが真似をしたといわれている。サングラスを掛け、魅力的な容姿と、破天荒ながら包容力にあふれる心遣いで日本中の老若男女があこがれた。担当マネージャーは関町進。担当のテーラーは遠藤千寿。日活ダイヤモンドラインのメンバー(彼、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治、(宍戸錠))でもある。東京都知事石原慎太郎の実弟。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生涯
1.2 デビュー
1.3 大スター
1.4 交友関係
1.5 勝との関係
1.6 趣味
1.7 闘病の中での活躍
1.8 死去
1.9 彼の与えた影響
1.10 怪我・病気の遍歴
2 家族・親族
3 系譜
4 主な代表映画
5 出演映画
6 出演ドラマ(テレビ)
7 出演ドラマ(ラジオ)
8 レギュラー番組
9 ゲスト出演
10 歌手活動
11 写真集
12 出版
13 連載
14 CM
15 大会出場
16 記念館
17 ファンが集まる店
18 パチンコ
19 エピソード
20 評価
21 関連項目
22 関連する人物
23 脚註
24 外部リンク


生涯 [編集]

生涯 [編集]
海運会社・山下汽船(現:商船三井)に勤める父・石原潔 母・光子の次男として生まれる。現東京都知事の石原慎太郎は実兄。父の転勤により、兵庫県神戸市須磨区→北海道小樽市→神奈川県逗子市と港町に育つ。稲穂国民学校時代にアカシアを好み、逗子市立逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、将来はオリンピック出場を夢見るスポーツ少年であった。近所の人と野球チーム(事実映画人野球大会において1960年本塁打を打っている。)を結成し、レフトとして活躍したこともあった。また後楽園球場で観戦したこともある。少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作ることに夢中になり、潔は腹を立てて、模型を全て焼いてしまった。それを見た直後、裕次郎は「死にたいぐらい悔しかった」との事。しかし大人になってみるとその悔しさが全くなくなってしまっていた。それ以降彼の才能(絵画・彫刻・写真)が花開いていく一片かもしれない。ある日母親が東京芸術大学への進学を薦めた事がある。サルバドール・ダリの影響で、人物画や自画像をまたロケ先では、空き時間にはスタッフの似顔絵を残している。

その後慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、当時慶應高校の予備校的な存在だった慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、悪友たちにそそのかされ酒と女とケンカ三昧の日々に入る。もともとは海と模型飛行機作りが趣味でこの頃はかなり裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄の18歳の時に父より当時の日本では珍しかったヨットを与えられるほどであった。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになった。(練習もおこなった)父の影響と海への憧れから将来は世界を股に駆けるような船乗りになることを希望していた。学ランの中に赤色のセーター(トレンチコート)を着て、女子高生から注目されていたという。わざわざ弁当を届け出る女性も増え、銀座やお座敷遊びをしたりした(これが彼の都市伝説となる梅毒の一因ではないかと考えられている)

1951年に慶應義塾高等学校に入学し再びバスケットボールに熱中するが、左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念せざるをえなくなった。17歳の頃、脳溢血で後遺症の父親の突然の死(彼が日本酒を飲みながらあいさつをしにいったが、死と同時に父を抱き上げて体をゆすりながら優しい顔をしていたエピソードがある。)により性格がぐれ、再び酒(大学時代には熱海へ旅行に出かけた後、居酒屋に行きビール瓶43本を空けた。日本酒、ワイン、ブランデー、ウイスキー等を好み、明るい表情で呑んでいた。)と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々に入る。しかし一家の主を失った石原家は困窮に陥っており、1955年の兄慎太郎の芥川賞受賞がなければ一家は裕次郎の為に破産していただろうと後に慎太郎は語っている。

時代は飛ぶが母の死の直前には「モダンだね」と言ったといわれる。


デビュー [編集]
その後慶應義塾大学法学部政治学科に進学したが、俳優になるために東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし高度経済成長の1956年に、映画プロデューサーの水の江瀧子(『彼の姿、形、言動をすべて真似してください』と長門裕之にアドバイスした。)と兄の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版で(太陽族)学生言葉(若者言葉・湘南弁)とヨット(風俗)の指導として駆り出されたが水の江の進言によりチョイ役(台詞としては多少不明瞭だった部分を差し引いても低い声が客席全体に聞こえてくる感じである。つまり台詞の間と抑揚があって説得力があるという意図がある。)としてデビューした。

不良性と感覚を大事にするタイプで最初の頃は満面の笑みで役者に向っていったが、この頃から裕次郎は遅刻が目立ったために、世田谷区の水の江の自宅に住むようになる。デビューして与えられた仕事は髪型モデルである。カメラマンの伊佐山三郎をして、「彼はとんでもない大物になる。阪妻の再来だ。」と言わしめたことがある。裏表がない彼はこのことが大スターのきっかけかもしれない。仲間とバーテンダーみたいに、お酒を作ってくれることもあった。日活仲間の会は以前に東映から映画作りをしたいと言い出した。それでも彼は「その提示額(映画制作費)じゃ、映画はできないよ」と強攻策に出た。それで長門はアルミの灰皿をぶつけて悔しさを露にして以降口を利かなかったが、しばらくたつと全部記憶を忘れてしまっているおおらかな人でもあった。浅丘ルリ子は「恋人役をやらせたら一番」と称す。懐に入り出す親しさと、気遣いのできる細やかさがこの頃から出始めてきた。

ちなみに劇中での結婚シーンがないのは「映画を見た人に夢を与えるため」である日活の方針だったといわれている。


大スター [編集]
『太陽の季節』の映画化に際して、日活に原作使用を依頼された兄は弟の主演を条件に出していた(日活側も「彼をスターにしたい」という条件で出していた。)が、すでに主演が長門に決まっていたために、翌1957年に映画化された『狂った果実』に、『太陽の季節』以降人気が高くなっていた裕次郎が主演した。『狂った果実』はその衝撃的な内容と裕次郎の演技が話題を呼び、裕次郎の歌と共に大ヒットし、この作品以降裕次郎の人気は決定的なものとなった。川島雄三も「これからは彼の時代だ」と絶賛した。多忙のため1957年に大学を中退している。母は「仕事をしたい気持ちは分かるが、大学を出るまでは学業に専念せよ」と祈念している。(余談だが台詞のない映画もある。)

なおこの年に裕次郎はテイチク<彼・林家三平・三波春夫で三羽烏>と専属契約(専用マイクも存在する。)し、若者の“太陽”(カリスマ)であり歌う映画スターともなる(1966年には東芝レコードに移籍の可能性があったとされる)。

【中略】

これ以降立て続けに主演映画がヒット(台本ネタが3行だったこともある。)し、ブームが起こる。庶民性が大衆に支持されたからである。客が殺到して、草履や羽織まで落ちていたという逸話もある。常に彼はファンからの声援にこたえるため「歌手ではない。俳優だ。」と言った。1959年には成城に豪邸を完成させ話題となった。北原と米国旅行にいき、人気が絶頂を迎えた1960年に日活の堀久作社長の許諾を得て女優の北原三枝と結婚(看病にも来るぐらい仲がよかった)<400人が出席・250人の報道陣>(取材を受けたマスコミよりも、宣伝部長とは彼が生前『ちょっと来ないか。飲もう』という電話をかけるぐらい仲がよかった。)、当時映画スター同士の結婚はタブーであり、また裕次郎はデビューする前から北原(女優業を引退とあるがあれは完全な間違いである。少しではあるがドラマや映画などに出演している。)のファンで、いくつかの映画で共演もしていた。結婚後の記者会見で「独身最後の夜だと思って、ハシゴ酒をあおり、5:30に帰ってきた。」というエピソードがある。(ただし彼の好きなタイプは髪の毛の長い女性だったそれほど髪の毛にこだわりを示した。)彼女のために英語にカナ(ルビ)で発音を書き実際に発音をし苦労をした話が残されている。[要出典]彼女いわく、「家族は一番、仕事が二番」と評価している。五社協定を振り払って、1963年には株式会社石原プロモーション設立と順風満帆の活動を続けた(設立の理由は赤木圭一郎(自宅にもよく泊めたという。)の急死で彼はプロダクションの設立を計画したことによる)。また、『銀座の恋の物語』(1961年)などヒット曲を連発したほか、海外作品『素晴らしきヒコーキ野郎』へ出演するなど幅広い活動を行った。1968年 には三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒットした。また芸能人所得番付が5000万円(当時)→8000万円(当時)と別格であった。1971年、熱海で彼の快気祝いも兼ねてスポーツ紙5社、一般紙3社、芸能ニュース社1社と彼の親睦会「ナイロビ会」が開かれた。(実は1969年から企画されていた。多いときには年3回行われるときもあったという。)会則は?会費5000円。?プライベートの話をする。当時から財布を持ち歩かなかった彼は、妻から“お小遣い”1万円札を渡された。(1回目は1970年築地「天六」、2回目以降は浅草、銀座、新宿の赤ちょうちん、最終回は赤坂東急ホテルで開かれた。)元日刊スポーツ記者の吉田一郎は「なんとも嬉しい顔や飲食している姿を見てまるで同窓会のようだった。」と回想する。 沖縄県出身の男性は「さっそうと町を歩く米兵より、彼の歩き方がいい。彼を見ると勇気がわいた。歩き方をまねて、肩を揺すりながら映画館から町に繰り出した。心の底までしびれるようなときめきを思いだすと、胸を張って歩ける」と彼の生き様を生き生きと語っている。大阪市主婦はドンペリを贈るほどすきだっただった。 「彼がエーザイ・ユベロンのイベントで来たときには、気さくで優しい兄みたいだったと振り返る。」 彼や妻に子供ができなかったのはスキーで足を骨折した時に多くの放射線を受けた説と、彼の子供時代に患ったおたふく風邪にかかった説がある。


交友関係 [編集]
交友関係が広いことでも有名で、落語家の林家三平とは家族ぐるみの付き合いや六本木、銀座での飲み仲間でもある(後に三平一家と石原軍団との付き合いに発展して、裕次郎・三平が共に亡くなった現在も兄弟の襲名公演の協賛を石原プロモーションにするなど深い関係は続いている。そろって写った写真は1つもないという。)司葉子、(同様な例に映画でジャニーズと共演したことをきっかけとして親密となっているジャニーズ事務所も挙げられる)歌手の美空ひばりや、俳優の勝新太郎とは義兄弟の契りをかわしていたと言われる(裕次郎の告別式の際には勝が弔辞(アドリブである。)(引用:「生きている時も死んでいる時も思いやりがあったが、生きていながら、死んでいるようなやつが多い中で、死んで、また生き返ったこのすごさ。頭が下がる。そんなすごい男から「兄弟」と呼ばれて、オレも幸せだった。ありがとう。どうせどっかで会うんだから…。(勝は10年後にこの世を去る。彼の見舞いにも来なかった。)」)を読んでいる。高倉健は葬儀には参列せず静かに見守るだけであった)。また安藤昇(横井事件で安藤組と揉めて歌謡ショーの興行の禁止通告されたことがある。)とは犬猿の仲である。

交友の広さはスポーツ界にもおよび、栃錦、若乃花、朝潮、力道山や往年の読売ジャイアンツのクリーンナップ2人と親交が深く、長嶋茂雄を「しげ」(ベースボールマガジンで対談経験も持つ)、王貞治を「さだはる」と呼んでいた。特に長嶋との親交は深く、1962年には夫人とともにアメリカに年始旅行にも行っていた。他に池田勇人、青木功、エルビス・プレスリー、岡本太郎とも交遊している。

【中略】

吉永小百合は「やさしさに触れ感激した。」と振り返る。ある時、自宅に変質者が侵入し、警官が変質者のけん銃で撃たれ重傷を負う事件があった。それを受けて彼の妻からの手紙を受けて前向きになったという。彼女への言葉は「頑張りなさい」ただ一言である。それだけオーラがあって話せなかったのである。

竜は彼を「丁寧な言葉遣いでとても礼儀正しい人だ。」と称賛する。彼に対して「ドラマで頑張ってほしいんですよ」という熱い思いに答え、ドラマを続けることになった。ある日、竜はドラマを途中降板することになったが、感謝の気持ちを「太陽にほえろ」の殉職で表すことになる。彼の特徴は「説明させることで、例えば台本をどう作って、どこを直せばいいか。お金等をどこにどう使うかを研究していたこと」にあったという。「あの方の大きさに触れていたい。まさにボスであった。」と感賞した。

藤竜也は、「最初は真似をするのが一番だったが、輝いているのでそれは間違いであった」と反省する。技闘部の忘年会で自宅に上がり朝まで呑み、その後藤の自宅に送ったり、横浜に行ったこともあった。藤のブルーバードで運転することがあったが、彼は運転手つきの高級車が好きであった。ある日「結婚するときに彼に嘘を付くのが嫌だった」。と心境を語っている。その後彼が「ちゃんとしてやるから」と励ましたという。彼が段取りをすべて決め、藤にタキシードを贈るなど人情深いシーンもあった。「強情なところやツッパリな部分がある」彼はその生き方を継承している。


勝との関係 [編集]
勝は「デビュー当時の横浜を、ただ歩くだけのシーンだけで負けたと思った。あいつはすごい」と絶賛する。(宍戸も同じようなことを言っている。)
座頭市では彼に竹刀を持って殺陣の実演をおこなった。このとき彼は「師匠、ありがとう」という言葉を残した。
これらのことから勝とは義兄弟の契りをかわしていたという一面がうかがえる。なお若山富三郎とは一切関係ない。


趣味 [編集]
なお自然を愛したこの頃も兄の慎太郎とともに学生時代から続けていたヨットレースを続けていた。ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったと言われ、初の太平洋単独横断を行った堀江謙一の実話をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』に主演した(この作品が石原プロモーション設立後の最初の作品である)。

また映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。ハワイで過ごすようになった原因は依頼人に断りを言い続けるのを気にしたからといわれている。

他にも、当時日本では力道山と三橋美智也と裕次郎の3人しか個人で所有していなかったと言われるメルセデス・ベンツ 300SL(ガルウイングのシートは深紅。ただし車体はシルバー)を所有していた他、ロールスロイス(シルバースピリット)<このときは後部座席に座っていた。>やキャディラックなど複数の高級車を所有するほどのカーマニアであった。

実はキャンピングカー(撮影用・特製車両)を所持している。ヨットをイメージしており内部は彼自身がデザイン(海とヨットをイメージし、白いボディーには赤と青のラインが描かれている)と設計(船体にある丸窓やキャプテンシート)を手掛けたという。3500万円で購入したが、その内の3000万円を内装などにかけたといわれる。彼の闘病中には大勢のファンが励ましのメッセージを車体に書き込んだ。

ラッキーカラーは赤。ゴルフはハンディキャップがシングル(バッグもヘッドカバーも赤)の腕前。


闘病の中での活躍 [編集]
彼の変革は「恋の町札幌」が発売された1972年に始まる。また俳優としての仕事において同年には日本テレビ『太陽にほえろ!』(東宝制作)に出演。

【中略】


『我が人生に悔いなし、俺の人生』は裕次郎が「人生の歌を歌いたい」と作詞家のなかにし礼に直接リクエストして出来た曲であるが、なかにしはこのリクエストを聞いた瞬間に「死の匂いをかいだ」と後に語っている。

なお、『北の旅人、想い出はアカシア』は療養のために滞在していたハワイでレコーディングされたが、裕次郎は絶え間ない微熱とたびたび大量の鼻血を出すような体調の中でレコーディングをしていたという。そのため、作曲家の弦哲也は見かねてハワイに飛び立ち気遣うようにしたという。裕次郎は最後のレコーディング後、テレビ朝日『ミュージックステーション』にてハワイからの衛星生中継に登場し、近況報告を行い「BEYOND THE REEF」を現地から熱唱した。しかし、これが最後のテレビ生出演となった。

【中略】

死去 [編集]
治療も空しく、1987年7月17日金曜日16時26分に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。妻は「裕さん」とゆすりながら号泣した。死後小林は「彼はわがまま。でも命のかかる場面では他人のことを大切にする。つまり周りに従う強さがあった」と振り返る。享年52歳没。実は幼少時代から肝臓は悪かったといわれている。後年小林は「彼に告知をすればメッセージを遺せる」と思っていなかったと反省していた。しかし慎太郎は「そっとしろ」と反論した。

なお死去当日のミュージックステーション(テレビ朝日)は19:30から90分の緊急追悼特番を組み故人を偲んだ(この対応はきわめて異例であった)。

また、フジテレビジョンは21時00分からの金曜エンタテイメントシリーズ枠で『紅の翼』(日活映画)を追悼番組として急遽放送した。

日本放送協会は、NHK総合テレビジョンで『あじさいの歌』を追悼番組として放送している。

7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日に青山葬儀所で石原プロモーション&テイチクによる合同葬が行われた。その後海洋葬として海に散骨した。理由は慎太郎が湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいと願い出たからである。その間の1990年に映画の殿堂入りを果たしている。

石原が亡くなった日、東京は梅雨明け宣言がされたばかりであったが、その翌日から葬儀・告別式が終わるまでは戻り梅雨に見舞われ、東京の梅雨明け宣言が取り消しになった。なお、裕次郎が亡くなった1987年、自宅に強盗が入ったことがある。また、2004年には彼の墓が何者かにずらされていたこともある。

戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には夫人が彼に対するイメージを詠った詩が刻印されている。

「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」


彼の与えた影響 [編集]
死後にもテレビドラマや映画、楽曲は高い人気を誇り、川中美幸とのデュエットや兄の慎太郎によるベストセラーである『弟』をはじめとする関連図書・音楽も多く出版されている。近年もジョイサウンドやダイドードリンコのCMにデジタル合成で出演した事があり、話題を呼んだ。

【中略】


怪我・病気の遍歴 [編集]
彼は怪我や病気と多く闘っていた。そこで年譜にしてまとめる(1956年以降)。

【中略】


家族・親族 [編集]
父:潔
母:光子[1]
兄:慎太郎
義姉:典子(旧名:由美子)
妻:まき子
子供はいない
甥:伸晃、良純、宏高、延啓

系譜 [編集]
石原家
石原家の先祖について佐野眞一の著書『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28-30頁によると、石原家は潔の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)が、服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入り家を再興したという。慎太郎の父・潔は信直の三男である。佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている[2]。潔は警察官だった父・信直の人事異動に伴って愛媛県各地を転々とし成長したという。[3]

小泉又次郎━━芳江
        ┃
        ┣━━━━━┳小泉純一郎━━┳小泉孝太郎
        ┃     ┃       ┃
       小泉純也   ┗小泉正也   ┗小泉進次郎
                ┃   
                ┃
┏石田重蔵━━石田吉之輔━━━美枝子


┗石田光治━━典子
       ┃
       ┣━━━━━━┳石原伸晃
       ┃      ┃
石原潔━┳石原慎太郎    ┣石原良純
    ┃         ┃
    ┃         ┣石原宏高
    ┃         ┃
    ┃         ┗石原延啓
    ┃
    ┗石原裕次郎
      ┃
まき子

主な代表映画 [編集]
映画配給代表20作品(年代順・日活調べ)

1957年:「嵐を呼ぶ男」-3.4億円
1958年:「陽のあたる坂道」-4.0億円
1958年:「明日は明日の風が吹く」-3.2億円
1958年:「風速40米」-3.1億円
1958年:「赤い波止場」-2.7億円
1958年:「嵐の中を突っ走れ」-2.8億円
1958年:「紅の翼」-3.6億円
1959年:「若い川の流れ」-2.7億円
1959年:「世界を賭ける恋」-2.7億円
1960年:「天下を取る」-3.2億円
1960年:「喧嘩太郎」-2.7億円
1960年:「闘牛に賭ける男」-2.9億円
1961年:「あいつと私」-4.0億円
1961年:「堂々たる人生」-2.9億円
1961年:「アラブの嵐」-2.8億円
1962年:「銀座の恋の物語」-3.0億円
1962年:「花と竜」-3.6億円
1964年:「赤いハンカチ」-2.8億円
1968年:「黒部の太陽」-7.9億円(観客動員734万人、興行収入16億円)
1970年:「富士山頂」-2.8億円
上記のほかにもすべての映画をあわせると、現在の物価で換算すると約1兆円にもなるという。

出演映画 [編集]
(1956年)

太陽の季節
狂った果実
乳母車
地底の歌
月蝕
若ノ花物語
人間魚雷出撃す
(1957年)

お転婆三人姉妹
ジャズ娘誕生
勝利者
今日のいのち
幕末太陽傳
海の野郎ども
鷲と鷹
俺は待ってるぜ

嵐を呼ぶ男
(1958年)

心と肉体の旅
夜の牙
錆びたナイフ
陽のあたる坂道
明日は明日の風が吹く
素晴しき男性
風速40米
赤い波止場
嵐の中を突っ走れ
紅の翼
(1959年)

若い川の流れ
今日に生きる
男が爆発する
山と谷と雲
世界を賭ける恋
男なら夢を見ろ
欧州駈けある記
清水の暴れん坊
天と地を駈ける男
男が命を賭ける時
(1960年)

鉄火場の風
白銀城の対決
あじさいの歌
青年の樹
天下を取る
喧嘩太郎
やくざ先生
あした晴れるか
闘牛に賭ける男
(1961年)

激流に生きる男(出演断念)
街から街へつむじ風
あいつと私
堂堂たる人生
アラブの嵐
(1962年)

男と男の生きる街
銀座の恋の物語
青年の椅子
雲に向かって起つ
憎いあンちくしょう
零戦黒雲一家
若い人
金門島にかける橋
花と竜
(1963年)

何か面白いことないか
太陽への脱出
夜霧のブルース
太平洋ひとりぼっち
(1964年)

赤いハンカチ
夕陽の丘
鉄火場破り
殺人者を消せ
敗れざるもの
黒い海峡
(1965年)

城取り
青春とはなんだ
泣かせるぜ
素晴らしきヒコーキ野郎
赤い谷間の決斗
(1966年)

二人の世界
青春大統領
夜霧の慕情
夜のバラを消せ
帰らざる波止場
栄光への挑戦
逃亡列車
(1967年)

夜霧よ今夜も有難う
嵐来たり去る
波止場の鷹
東京の田舎っぺ(声のみ)
君は恋人
黄金の野郎ども
(1968年)

遊侠三国志・鉄火の花道
黒部の太陽 
昭和のいのち
忘れるものか
(1969年)

風林火山
栄光への5000キロ
人斬り
戦争と人間(1部)
嵐の勇者たち
(1970年)

富士山頂
待ち伏せ
ある兵士の賭け
スパルタ教育くたばれ親父
(1971年)

男の世界
甦える大地
(1972年)

影狩り
影狩り・ほえろ大砲
(1973年)

反逆の報酬
(1976年)

凍河
(1982年)

わが青春のアルカディア
(1984年)

アゲイン
零戦燃ゆ(歌のみ)


出演ドラマ(テレビ) [編集]
ダイヤル110番(1958年・日本テレビ)
君らの手の中に(1964年・フジテレビ)
小さき闘い(1964年・フジテレビ)
結婚について・祝婚(1965年・TBSテレビ)
黒部の太陽(1969年・日本テレビ)
「太陽にほえろ!」シリーズ(1972年~1987年、日本テレビ・東宝制作)
「大都会」シリーズ(PARTI、PARTII、PARTIII)(1976年~1979年、日本テレビ・石原プロ)
「西部警察」シリーズ(PART-I、PART-II 、 PART-III) (1979年~1984年、テレビ朝日・石原プロ制作)
座頭市物語(1974年、フジテレビ)
痛快!河内山宗俊(1975年、フジテレビ)
新・座頭市(1976年、フジテレビ)
浮浪雲(1978年、テレビ朝日)
木曜ゴールデンドラマ 俺たちの明日~坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春~(1980年、日本テレビ)


【中略】

関連項目 [編集]
日本の男優一覧
日本の歌手一覧
兄弟有名人一覧

関連する人物 [編集]
森光子
オレハマッテルゼ
島木譲二
ゆうたろう
間寛平
本間千代子
勝新太郎
宇野重吉
三船敏郎


外部リンク [編集]
公式ウェブサイト
―石原裕次郎専科―夜霧よ今夜も談話室
[表示]表・話・編・歴石原裕次郎

映画 太陽の季節、狂った果実、乳母車、地底の歌、月蝕、若ノ花物語、人間魚雷出撃す、お転婆三人姉妹、ジャズ娘誕生、勝利者、今日のいのち、幕末太陽傳、海の野郎ども、鷲と鷹、俺は待ってるぜ、峠、嵐を呼ぶ男、心と肉体の旅、夜の牙、錆びたナイフ、陽のあたる坂道、明日は明日の風が吹く、素晴しき男性、風速40米、赤い波止場、嵐の中を突っ走れ、紅の翼、若い川の流れ、今日に生きる、男が爆発する、山と谷と雲、世界を賭ける恋、男なら夢を見ろ、欧州駈けある記、清水の暴れん坊、天と地を駈ける男、男が命を賭ける時、鉄火場の風、白銀城の対決、あじさいの歌、青年の樹、天下を取る、喧嘩太郎、やくざ先生、あした晴れるか、闘牛に賭ける男、激流に生きる男、街から街へつむじ風、あいつと私、堂堂たる人生、アラブの嵐、男と男の生きる街、銀座の恋の物語、青年の椅子、雲に向かって起つ、憎いあンちくしょう、零戦黒雲一家、若い人、金門島にかける橋、花と竜、何か面白いことないか、太陽への脱出、夜霧のブルース、太平洋ひとりぼっち、赤いハンカチ、夕陽の丘、鉄火場破り、殺人者を消せ、敗れざるもの、黒い海峡、城取り、青春とはなんだ、泣かせるぜ、素晴らしきヒコーキ野郎、赤い谷間の決斗、二人の世界、青春大統領、夜霧の慕情、夜のバラを消せ、帰らざる波止場、栄光への挑戦、逃亡列車、夜霧よ今夜も有難う、嵐来たり去る、波止場の鷹、東京の田舎っぺ、君は恋人、黄金の野郎ども、遊侠三国志・鉄火の花道、黒部の太陽、昭和のいのち、忘れるものか、風林火山、栄光への5000キロ、人斬り、戦争と人間、嵐の勇者たち、富士山頂、待ち伏せ、ある兵士の賭け、スパルタ教育くたばれ親父、男の世界、甦える大地、影狩り、影狩り・ほえろ大砲、反逆の報酬、凍河、わが青春のアルカディア、アゲイン、零戦燃ゆ

テレビ ダイヤル110番、君らの手の中に、小さき斗い、結婚について・祝婚、黒部の太陽、太陽にほえろ!、大都会-PARTI、PARTII、PARTIII、西部警察- PART-I、PART-II、PART-III、座頭市物語、痛快!河内山宗俊、新・座頭市、浮浪雲、俺たちの明日~坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春~、今晩は石原裕次郎です、すてきな仲間、太陽の季節をめぐって、ひこばえショー、ジェスチャーゲーム、私の秘密、女性専科、ゴールデン歌まつり、歌謡ビッグショー、スクープ!!、金曜スペシャル、水曜スペシャル、徹子の部屋、ビックショー、太陽は今も輝く!、人に歴史あり、北帰行・小樽、スター千一夜、石原裕次郎のすべて、石原裕次郎スペシャル、ザ・ベストテン

ラジオ 海峡を越えてきた男、石原裕次郎アワー、太陽の季節をめぐって、七面鳥の贈り物、やあ!石原裕次郎です、THE YUJIRO、歌謡ビッグ・パレード

歌手活動 ディスコグラフィー、シングル、アルバム

書籍 海とトランペット、わが青春物語、裕次郎のつづり方

その他 石原裕次郎、石原裕次郎の楽曲

関連項目 石原まき子、石原慎太郎、フランクス、コンテッサIII、テイチク大行進、解離性大動脈瘤、肝細胞癌、石原プロモーション、石原裕次郎記念館、Yu's Bar、CR石原裕次郎、ポカリスエット、ビートルズ日本公演

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最終更新 2009年6月26日 (金) 12:54





[参考資料] オープンキャンパス(2008/2007/2006)参加者

【2008年】【2007年=基本】【2006年】=4~12月

早稲田大学?5万2797 ?5万0600 ?5万6840 
[早稲田・戸山・西早稲田]全学部8/1・8/2・8/3 
[所沢]人間科・スポーツ科学部 9/13

立教大学 ?3万6700 ?3万8000 ?2万6500
[池袋]全学部8/1・8/2 
[新座]観光・コミュニティ福祉・現代心理学部 8/21・8/22

日本大学 ?4万7589 ?3万7230 ?3万8919

明治大学 ?4万4108 ?3万7000 ?2万8918
[駿河台]文系学部・農学部食料環境政策学科8/6・8/7・8/25/8・26 
[生田]理工・農学部 8/4・8/22
[和泉]文系学部・農学部食料環境政策学科 9/26

東北大学 ?4万1448 ?3万6376 ?2万7331

法政大学 ?3万4008 ?3万175 ?2万6616
[市ヶ谷]全学部 8/9・8/23・8/24
[多摩]経済・社会・現代福祉・スポーツ健康学部8/8・8/22・9/5
[理工・生命科・情報科学部 7/5・8/11・8/29・10/4

東洋大学 ?2万9878      ?2万5742
[白山] 文・経済・経営・法・社会学部 文・経済・経営・法・社会学部 7/19・7/20・8/21・8/22・9/20
[白山第二]国際地域学部
[朝霞]ライフデザイン学部
[川越]理工・総合情報学部
[板倉]生命科学部

関西大学 ?2万8948 ?2万7257 ?2万5036

中央大学  2万1154 ?2万3155 1万7857
[多摩] 文系学部 7/19。8/2・8/9
[後楽園]理工学部 7/26・8/8・8/9

青山学院大学 ?2万5884?2万1016 ?2万1841
[青山] 文・教育人間科・総合文化政策・理工学部 7/19 経済・法・経営・国際政治経済・社会情報学部 7/20 全学部 8/29
[相模原] 全学部 7/12

上智大学  2万0138 ?2万
[全学部] 8/2・8/3

立命館大学 1万7183 ?2万   1万8397

慶應義塾大学?2万3566 1万9632 ?1万8990
[三田] 全学部 8/1
[日吉]全学部 8/18
[矢上] 理工学部 8/18
[湘南藤沢] 総合政策・環境情報・看護医療学部 7/31
[芝共立] 薬学部 7/25

近畿大学   2万1324 1万7078 1万5558

関西学院大学 1万5260 1万6065 1万4105

武蔵野大学  7500 1万4000
[全学部] 8/23・8/24

九州大学  1万4710 1万3601 1万4581

大阪大学  1万6681 1万3587 1万0883

東海大学  1万9531 1万3380 1万3048
[湘南] 文・政治経済・法・教養・理・情報理工・工・体育・観光学部 7/26・8/2・8/22
[高輪]情報通信学部 7/26・8/22
[伊勢原]医・健康科学部 7/26・8/9・8/22

神奈川大学 1万4753 1万2899 1万2216
[横浜] 法・経済・外国語・人間科・工学部 7/19・8/2・8/22・8/23
[湘南平塚] 7/25・7/26・8/8・8/9

玉川大学  1万4141 1万2000 1万1000
[全学部] 7/18・7/19・8/24 9/27 10/17

龍谷大学  1万2366 1万1679 1万0166

千葉大学  1万3219 1万1486  9274
[西千葉] 文学部 8/1 教育学部8/2 法経学部7/26 理学部7/25 薬学部8/3 工学部8/10
[亥鼻] 医学部 7/22・看護学部8/4
[松戸] 園芸学部 8/7

大阪市立大学 1万0786 1万1009  8487

成蹊大学        1万1000 1万1600


広島大学  1万3258 1万0940 1万2000
明治学院大学 1万1616 1万0478  7736
同志社大学  1万1570 1万0215 1万4082
神戸大学  1万3323 1万0061  9259
創価大学       1万  1万7000
東京農業大学 9867  9755  9985
共立女子大学 1万0194  9753
横浜国立大学 1万1064  9650 9169
東京家政大学 1万2910  9631 8486
京都産業大学 1万0508  9411 8476
筑波大学  8947  9369 8918
学習院大学 1万3581  9343 7710
北里大学  7830  9115 6787
福岡大学 1万0535  8997 8667
岩手大学  8990  8788 7640
専修大学  1万2366  8727 6044
目白大学       8700 6877
埼玉大学      8696 8301
聖徳大学     8498 1万0200
京都大学 9218  8487 7210
関西外国語大学 8564 8415 7679
北海道大学 8079  8399 6174
国学院大学 9678 8359
岡山大学 8449  8320 9312
大東文化大学 8156 5904
名城大学  8145 7554
関東学院大学   8000 7303
京都女子大学  7844 6724
熊本大学  8309  7700 7653
獨協大学  8873  7700 7180
同志社女子大学 8510  7668
日本女子大学  9707  7661 5822
文教大学  9105  7615 7604
東京大学  9100  7600 6200
首都大学東京 8969  7578
千葉工業大学  8219  7471 7355
新潟大学  6205  7408 6576
帝京平成大学  9971  7380 6453
愛知学院大学  5188  7368
中京大学 7223  7735
金沢大学 7094  7000 7548
甲南大学  7995  6997 6031
神戸学院大学  6700  6942 6371
亜細亜大学  7902  6741 7606
名古屋大学  6808  6696 6647
大阪府立大学  7914  6113
静岡大学  6176  6087 7500
東北学院大学  6900  5934 4873
明星大学  6484  5853 5135
東京電機大学  6300  5599 4658
女子栄養大学  5250  5502 5255
武庫川女子大学 5333 5500
武蔵大学  6868  5490 3901
南山大学  6243  5447 5574
金城学院大学  5329
多摩美術大学  6526 5286 4495
桃山学院大学  6059  5200
京都精華大学  5100
昭和女子大学  6907  5039
愛知大学  6000  5000 4350
武蔵野美術大学 5075  5526 5076
国際基督教大学 5200  4951
大阪経済大学  5002  4919 4124
東京工科大学  5629  4900 6470
明海大学  4872 5126
東北福祉大学  5788 4832
佛教大学  5269 4692 4604
東京農工大学  4546
広島修道大学  4515
文化女子大学  4456 4200
広島国際大学  4415
北九州市立大学  4413
東京外国語大学  4400 4800
東京学芸大学  4400 4000
大阪教育大学  4382 4092
弘前大学  4358
宇都宮大学  5572 4295
信州大学  5308 4281
群馬大学  6105 4239 4005
中部大学  5610 4200 3860

【出典:2010年度版 大学ランキング 朝日新聞出版 p354~357】
早稲田塾総合研究所主任研究員、Webサイト【大学プロデューズ・ノート】主宰 倉部史記
2008年(4~12月)。学生数500人以上 5万2797(早稲田大)~4746(中村学園大)

【出典:2009年度版 大学ランキング 朝日新聞出版 p362~365】
旺文社『蛍雪時代』編集長 伊藤明朗
2007年(4~12月)。学生数1000人以上 5万0600(早稲田大)~105位:4200(東京成徳大・中部大)

【出典:2008年度版 大学ランキング 朝日新聞出版 p86~89】
東京工科大学広報課 ・入試課 後藤健夫
2006年(4~12月)。学生数2000人以上 5万6840(早稲田大)~105位:3860(中部大)