狼疾記(部分) 中島敦
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狼疾記 中島敦
2009-06-10 Wed 03:54
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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】
狼疾記
中島敦
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養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]――孟子――
[#改ページ]
一
スクリインの上では南洋土人の生活の実写がうつされていた。眼の細い・唇の厚い・鼻のつぶれた土人の女たちが、腰にちょっと布片を捲いただけで、乳房をぶらぶらさせながら、前に置いた皿のようなものの中から、何か頻《しき》りにつまんで喰べている。米の飯らしい。丸裸の男の児が駈けて来る。彼も急いでその米をつまんで口に入れる。口一杯頬張りながら眩《まぶ》しそうに此方へ向けた顔には、眼の上と口の周囲とに膿み爛《ただ》れた腫物が出来ている。男の児はまた向うをむいて喰べ始める。
それが消えて、祭か何かの賑かな場面に代る。どんどんどんどんと太鼓の音が遠くなり近くなりして聞える。対《むか》い合った男女の列が一斉に尻を振りながら、それに合わせて動き出す。砂地に照りつける熱帯の陽の強さは、画面の光の白さで、それとはっきり[#「はっきり」に傍点]想像される。太鼓が響く。乱暴な男声の合唱がそれに交って聞えて来る。尻が揺れ、腰に纏《まと》った布片がざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と揺れる。踊《おどり》から少し離れた老人たちの中心に、酋長《しゅうちょう》らしい男が胡坐《あぐら》をかいている。痩《や》せた・顴骨《かんこつ》の出た老人で、頸《くび》に珠数のような飾を幾つも着けている。撮影されていることを意識してか、妙に落着の無い・蕃地での自信をすっかり[#「すっかり」に傍点]なくしてしまったような眼付をして、踊を眺めている。時々思い出したように乱暴な飛躍と喚声と太鼓の強打とを伴うほか、いつまで経っても同じような単調な踊を、しょぼしょぼした目でじっと見詰めている。
見ている中に、三造は、久しく忘れていた或る奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んで来ているのを感じた。
久しい以前のことである。その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか? そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士《ゆいまこじ》も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか? この考え方は、運命の不確かさについて、妙に三造を不安にした。「同様に自分は」と、彼は考え続ける。「自分は、今の人間とは違った・更に高い存在――それは他の遊星の上に棲《す》むものであろうと、あるいは我々の眼に見えない存在であろうと、または、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、――に生れて来ることも可能だったのではないか? その正体が解らない故に我々が恐怖の感情を以て偶然[#「偶然」に丸傍点]と呼んでいるものが、ほんのちょっとその動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起らなかったと誰が言えよう。そして、もしも自分がそのような存在に生れていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、ないしは考えることも出来ないような・あらゆる事を見、聞き、考えることが出来たであろう。」こう考えるのは彼にとって堪えがたく恐ろしいことであった。と同時に、堪えがたくいらだたしい[#「いらだたしい」に傍点]ものでもあった。この世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。
スクリインでは先刻の踊の場面が消えて密林の風景にかわっている。手と尾との長い真黒な猿が幾匹となく枝から枝へと跳渡っている。ひょいと[#「ひょいと」に傍点]立止って此方を見た・その猿の一匹は、眼の縁に白い輪がかかっていて、眼鏡をかけているように見える。嘴《くちばし》の二|呎《フィート》もありそうな鳥が厭な声を立てて枝から飛立つ。
三造の考えは再び「存在の不確かさ」に戻って行く。
彼が最初にこういう不安を感じ出したのは、まだ中学生の時分だった。ちょうど、字というものは、ヘンだ[#「ヘンだ」に傍点]と思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、その必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不確かな存在に思われてならなかった。それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処《どこ》にあるか? もっと遥かに違ったものであっていいはずだ。おまけに[#「おまけに」に傍点]、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか? そうした気持が絶えず中学生の彼につき纏うのであった。自分の父について考えて見ても、あの眼とあの口と、(その眼や口や鼻を他と切離して一つ一つ熟視する時、特に奇異の感に打たれるのだったが)その他、あの通りの凡《すべ》てを備えた一人の男が、何故自分の父であり、自分とこの男との間に近い関係がなければならなかったのか、と愕然《がくぜん》として、父の顔を見直すことがその頃しばしばあった。何故あの通りでなければならなかったのか。他の男ではいけなかったのだろうか?……周囲の凡てに対し、三造は事ごとにこの不信を感じていた。自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう! 彼はイライラ[#「イライラ」に傍点]していつもこのことばかり考えていた。時として何だか凡てが解りかけて来そうな気がすることもないではなかった。それは、つまりその場合その偶然が――何から何まで偶然だということが結局ただ一つの必然なのではないか、という・少年らしい曖昧な考え方であった。それで簡単に解答が与えられたような気がすることもあった。そうでない時もあった。そうでない時の方が遥かに多かった。幼い思索はいらいら[#「いらいら」に傍点]したはがゆさ[#「はがゆさ」に傍点]を感じながら、必然という言葉の周囲をどうどう[#「どうどう」に傍点]廻《めぐ》りしては再び引返して行った。
映画は古風な河蒸気が岸の低い川を下って行くところをうつしていた。蕃地の探検を終えた白人の一行が引揚げて行く所なのであろう。
それも消え、最後の字幕も消えると、パッと電燈が点《つ》いた。
映画館を出ると、三造は、早目の晩食を認《したた》めるために、近処の洋食屋にはいった。
料理を卓に置いて給仕が立去った時、二つ卓を隔てた向うに一人の男の食事をしているのが目に入った。その男の(彼は此方に左の横顔を見せていた。)頸《くび》のつけね[#「つけね」に傍点]の所に奇妙な赤っちゃけた色のものが盛上っている。余りに大きく、また余りに逞《たくま》しく光っているので、最初は錯覚かとよく見定めて見たが、確かに、それは大きな瘤《こぶ》に違いなかった。テラテラ光った拳大《こぶしだい》の肉塊が襟《カラー》と耳との間に盛上っている。この男の横顔や首のあたりの・赤黒く汚れて毛穴の見える皮膚とは、まるで違って、洗い立ての熟したトマトの皮のように張切った銅赤色の光である。この男の意志を蹂躪《じゅうりん》し、彼からは全然独立した・意地の悪い存在のように、その濃紺の背広の襟《カラー》と短く刈込んだ粗い頭髪との間に蟠踞《ばんきょ》した肉塊――宿主《やどぬし》の眠っている時でも、それだけは秘かに目覚めて哂《わら》っているような・醜い執拗な寄生者の姿が、何かしら三造に、希臘《ギリシヤ》悲劇に出て来る意地の悪い神々のことを考えさせた。こういう時、彼はいつも、会体の知れない不快と不安とを以て、人間の自由意志の働き得る範囲の狭さ(あるいは無さ[#「無さ」に傍点])を思わない訳に行かない。俺たちは、俺たちの意志でない或る何か訳の分らぬもののために生れて来る。俺たちはその同じ不可知なもののために死んで行く。げん[#「げん」に傍点]に俺たちは、毎晩、或る何ものかのために、俺たちの意志を超絶した睡眠[#「睡眠」に傍点]という不可思議極まる状態に陥る。……その時ひょいと、全然何の連絡もなしに、彼は羅馬《ローマ》皇帝ヴィテリウスの話を思出した。貪食家の皇帝は、満腹のために食事がそれ以上喰べられなくなるのを嘆いて、満腹すれば独得の方法で自《みずか》ら嘔吐し、胃の腑を空《から》にして再び食卓に向ったというのだ。何故こんな馬鹿げた話を思出したのだろう?
料理店の白い壁には大きな電気時計が掛かっていて、黄色い長い秒針が電燈の光を反射させながら、無気味な生物のように廻転している。容赦なく生命を刻んで行く冷たさで、くるくると絶間なく動いている。その下では中年の瘤男がせっせと[#「せっせと」に傍点]口を動かし、それにつれて頸の肉塊も少しずつ動くような気がする。
三造は、すっかり食慾をなくして、半分ほど残したまま、立上った。
掘割|沿《ぞ》いの道をアパアトへ向って彼は帰って行く。家々にも街頭にも灯ははいり始めたが、まだ暮れ切らない空の向うを、教会の尖塔や風変りな破風《はふ》屋根をもった山手の高台のシルウェットが劃《かぎ》っている。上げ汐と見え、河岸に泊っている汚らしい船々の腹に塵芥がひたひたと寄せている。水の上には明暗の交ったうそ[#「うそ」に傍点]寒い光が漂っているようだ。仄かな陰翳《かげ》が其処《そこ》から立昇り、立昇っては声もなく消えて行くのである。
気配は感じられても姿を現さない尾行者に蹤《つ》けられているような気持で、彼は独り河岸っぷちを歩いて行く。
小学校の四年の時だったろうか。肺病やみ[#「やみ」に傍点]のように痩《や》せた・髪の長い・受持の教師が、或日何かの拍子で、地球の運命というものについて話したことがあった。如何《いか》にして地球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、その教師は、意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造たちに説いたのだ。後《のち》に考えて見ても、それは明らかに、幼い心に恐怖を与えようとする嗜虐症《しぎゃくしょう》的な目的で、その毒液を、その後に何らの抵抗素も緩和剤をも補給することなしに、注射したものであった。三造は怖かった。恐らく蒼《あお》くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それからしばらく、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになってしまった。父にも、親戚の年上の学生にも、彼はこの事について真剣になって訊ねて見た。すると彼らはみんな笑いながら、しかし、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう? どうして笑ってなんかいられるんだろう? 五千年や一万年の中《うち》にそんな事は起りゃしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう? 三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。その頃彼は一匹の犬を可愛がっていた。地球が冷えてしまう時に、仮に自分が遭遇するものとすれば、最後に氷の張り詰めた大地に坑《あな》を掘って、その犬と一緒に其処にはいって抱合って死ぬことにするんだが、と、その有様を寝床へ入ってから、よく想像して見たりした。すると、不思議に恐怖が消えて、犬のいとしさ[#「いとしさ」に傍点]とその体温とが、ほのぼの[#「ほのぼの」に傍点]と思い浮べられるのであった。しかし大抵は、夜、床に就いてからじっ[#「じっ」に傍点]と眼を閉じて、人類が無くなったあとの・無意義な・真黒な・無限の時の流を想像して、恐ろしさに堪えられず、アッと大きな声を出して跳上ったりすることが多かった。そのために幾度も父に叱られたものである。夜、電車|通《どおり》を歩いていて、ひょいとこの恐怖が起って来る。すると、今まで聞えていた電車の響も聞えなくなり、すれちがう人波も目に入らなくなって、じいんと[#「じいんと」に傍点]静まり返った世界の真中に、たった一人でいるような気がして来る。その時、彼の踏んでいる大地は、いつもの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった・冷え切った円い遊星の表面なのだ。病弱な・ひねこびた・神経衰弱の・十一歳の少年は、「みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ」と考えながら、真実、恐ろしさに冷汗の出る思いで、しばらく其処に立停《たちどま》ってしまう。その中に、ひょいと気がつくと、自分の周囲にはやはり人々が往来し、電燈があかあかとつき、電車が動き、自動車が走っている。ああ、よかった、と彼はホッとするのであった。これがいつものことだった。(註1)(註2)
子供の時に中毒《あた》ったことのある食物が一生嫌いになってしまうように、このような・人類や我々の遊星への単純な不信が、もはや観念としてではなく、感覚として、彼の肉体の中に住みついてしまったのではないか、と三造は思う。今でも、空気の湿った午後の昼寝から覚めた瞬間など、どうにもならない・訳の分らない・恐ろしさ、あじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]に襲われる。そういう時、彼はいつも昔のひねこびた小学生の恐怖を思い出さずにはいられない。概念の青臭い殻が実生活の錯綜の中に多少は脱ぎ棄てられた(と思われた)後も、なお、かつての不安の気持だけが、それだけ切離されていつまでも残っている。南米の駱馬《ファナコ》は太古、地球の氷河時代に、危険に襲われた時も其処だけは安全な或る避難所をもっていた。地球が今の世代になって彼らを襲う危険の性質も異《ことな》って来、かつての避難所ももはや意味をもたなくなったにもかかわらず、現在新大陸にいる駱馬は、死や危険の予覚を得た際には、皆必ず昔の彼らの祖先の避難所のあった場所を指して逃れようとするという。三造の不安もあるいはこうした類の前代の残存物かも知れぬ。しかし、このどうにもならぬ漠然とした不安が、往々にして彼の生活の主調低音《グルンド・バス》になりかねない。人生のあらゆる事象の底にはこの目に見えぬ暗い流れが走り、それが生の行手を、前後左右を劃《かぎ》っていて、街の下を流れる下水の如くに、時々ほんのちょっとした隙から微《かす》かな虚《むな》しい響を聞かせるように三造には思われた。彼がまだ多少は健康で、肉体的な感覚に酔っていた時でも、今のような消極的な独り居の生活を営んでいる時でも、常に、この底流の小さな響がパスカル風な伴奏となって、何処からともなく聞えていたのである。これがほんの僅かでも聞えて来る限り、あらゆる幸福も名誉も制限付きの名誉・幸福でしかない。
全く、この響を意識しまいとして、どんなに彼は努力したことであろう。心にもない説教を何度彼は自分に向って言い聞かせたことだろう。
「俺たちは最上の食物でなければ喰べないだろうか? 最上の衣服でなければ身に著けないだろうか? 最上の遊星でなければ棲《す》むに堪えぬと思うほどに俺たちが贅沢でないならば、今俺たちに与えられているものの中からも結構いい所が発見出来るのではないか……」云々《うんぬん》。
「簡単なオプティミズムへの途を教えてやろう。天才と才無き者、健康者と虚弱者、富豪と貧民との差といえども、生れて来た者と生を与えられざりし者との差には、比ぶべくもないではないか、という考え方はどうだ。」云々。
「この世において立派な生活を完全に生き切れば、神は次の世界を約束すべき義務を有《も》つ、と言った素晴らしい男を見るがいい。」……云々。
「汝は幸福ならざるべからず[#「汝は幸福ならざるべからず」に傍点]と誰が決めたか? 一切は、幸福への意志の廃棄[#「幸福への意志の廃棄」に傍点]と共に、始まるのだ。」云々。
その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。しかし、彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有《も》ちたかったのだ。曲りくねった論理を辿って見て、はて、俺の存在は幸福なのだぞ、と、自分を説得して見ねばならぬ幸福などでは仕方がなかったのだ。
時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈《つんざ》いて奔《はし》る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃《ひらめ》く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだん[#「ふだん」に傍点]より一層惨めなあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]の中に自《みずか》らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中《もなか》に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力《つと》めるようにさえなったのだ。
ところで、今、河岸に沿うて歩きながら、珍しくも、三造の中にいる貧弱な常識家が、彼自身のこうした馬鹿馬鹿しい非常識を哂《わら》い、警《いまし》めている。「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっと直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢な愚かさに耽《ふけ》っているのだ。それは既に人々が夙《と》うの昔に卒業してしまった事柄――あるいは余り馬鹿げ切っているので、てんで初めから相手にしない事柄の一つではないか? 少しは恥ずかしく思うがいい。」「本当に人々はもはやこの問題を卒業しているのだろうか?」と彼の中にいる、もう一人が反問する。
「全然解決の見込のない問題を頭から相手にしないという一般の習慣はすこぶる都合の良いものだ。この習慣の恩恵に浴している人たちは仕合せである。全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑を感じはしない。それならばこうしたことを常に感ずるような人間は不具なのかも知れぬ。跛者が跛足を隠すように俺もまたこの精神的異常を隠すべきだろうか? ところで、一体、その正常とか異常とか真実とか虚偽とかいう奴は、何だ? 畢竟《ひっきょう》、統計上の問題に過ぎんじゃないか。いや、そんな事はどうでもいい。何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人《ひと》に嗤《わら》われようと、こうした一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。こればかりは、どうにも仕方がない。この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人間界の現象は制限付きの意味しか有《も》たないのだから。ところで、これについて古来提出された幾多の解答は、結局この解疑が不可能だということを余りにも明らかに証明している。して見れば、俺の魂の安静のための唯一の必要事は、『形而上学的迷蒙の形而上学的放棄』だということになる。それは俺も知り過ぎるほど知っている。それでも、どうにもならないのだ。俺がこうした莫迦《ばか》げた事柄への貪婪《どんらん》を以て(しかも哲学者的な冷徹な思索を欠いて)生れて来ているということこそ、唯一のかけがえ[#「かけがえ」に傍点]の無い所与なのだ。結局各人は各様にその素質を展開するより外に手はない。幼稚だといって嗤《わら》われることを気にしたり、自分に向って自己弁護をしたりすることの方がよほどおかしいのだ。女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的|貪慾《どんよく》のために身を亡ぼす男もあろうではないか。女に迷って一生を棒にふる男と比べて数の上では比較にはなるまいが、認識論の入口で躓《つまず》いて動きが取れなくなってしまう男も、確かにあるのだ。前者は欣《よろこ》んで文学の素材とされるのに、何故後者は文学に取上げられないのか。異常だからだろうか。しかし、異常者カサノヴァはあれほどに読者を有《も》っているではないか。」
しどろもどろの自己弁護の中に、ふと、彼はデュウラアの「メランコリヤ」という版画を――混乱の中に茫然と坐った天使の絶望を思い浮べた。既に四辺《あたり》は暗く、山手の教会堂の影も見分けが付かない。彼の歩いて行くすぐ傍を、和船が一艘、音も無く後から追抜いて行く。船尾の燈火が水に尾を曳《ひ》き、船は滑るように橋の下を左へ曲って行く。その動きに誘われるように、彼の考えの糸も、思わぬ脇道に外《そ》れ始める。
「畢竟、俺は俺の愚かさに殉ずる外に途は無いじゃないか。凡てが言われ、考えられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従うのだ。その論議・思考と無関係に、である。そして爾後《じご》の努力は、凡て、その性情の為《な》した選択へのジャスティフィケイションにのみ注がれるであろう。考えようによれば、古往今来のあらゆる思想とは、各思想家がそれぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬではないか。……」
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(註1) このひねこびた憐れな少年は、その後二つの異った希求に烈しく悩まされた。「あらゆる事柄[#「あらゆる事柄」に傍点](あるいは第一原理)を知り尽くしたい」という慾望と、「出来る限り多くの事物が(あるいはその事物の原因が)自分の理解を絶した彼方にあればいい」という前のとはまるで[#「まるで」に傍点]反対の奇体な願望とであった。前者は誰にでもある・成人《おとな》の言葉でいえば「自己を神にしたい」慾望だったが、後者は「この世界を絶対信頼に値する・確乎たるものと信じたい」という・その逆の――つまり、この世界の不確かさ・哀れさに対する恐怖から生れた強い希求だった。「自分のようなチッポケな存在から凡てが理解されてしまうような世界では、その中に棲《す》むことが何としても不安だ。自分などにはその一端すら理解できないような・大きな・確乎たる存在に身を任せたい」という・小さい者の恐怖から生れた・棄鉢《すてばち》的な強い願望だった。こうした願いにもかかわらず、彼は成長するにつれ、第一の望の実現はもとより、それより更に強い第二のそれの実現もまた望のないものであることをはっきり[#「はっきり」に傍点]と――余りにも恐ろしくはっきり[#「はっきり」に傍点]と知らされて来た。世界も、人間の営みも、この少年の望むほど、しかく確乎たるものではない。それは小学校の先生に聞かされた世界滅亡説を熱力学の第二法則という言葉に置換えて見ても同じことだし、そうした単純な科学による世界考察を無視した・全然別の側からの世界評価によってもまた同じことだと彼には思われた。即ち、頭の中だけで造り上げられた少年の虚無観に、今や、実際の身辺の観察から来た直接な無常観が加わって来たのだ。麾下《きか》数万の軍勢を見渡しながら、百年後にはこの中の一人も生残っていないであろうことを考えて涕泣《ていきゅう》したというペルシャの王様のように、この少年は、今や、自己の周囲の凡てに「限られたるもののしるし[#「しるし」に傍点]」を認めて胸をさされるのであった。物についてばかりではない。とりわけ、どのようなまことの愛情でも、それが他の極めて詰まらないものと同様に果敢《はか》なく消えて行くことに、彼は身を焼かれるような烈しい悲しさ寂しさを感じた。――(更に何年か経って、今度は、反対に、どのような愚劣|醜陋《しゅうろう》な事柄でも、崇高な事物と同様に、存在の権利を有ち、何らの醜い酬をも受けずに、美しいものと少しも変りなく、その存在を終えて行くことに、心の冷え行くようなむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]感動を覚えたのだが。)――
(註2) 不思議なことに、小学生の頃の彼は、全体的な人類の滅亡などという考えにばかり紛れて、個人としての自分の死というものについては、それほど直接な惧《おそ》れを感じなかった。それを感ずるようになったのは大分後のこと――中学生になってからのことだ。中学に入ってから目立って身体の弱くなった彼は、就寝後、眼をとじては、「死というもの」を――抽象的な死の概念ではなく、病弱な自分に遠からず訪れてくるに違いない、(本当にその頃彼は寿命の短いに違いないことを確信していた)直接的な死[#「死」に丸傍点]を考えた。自分の臨終の時の気持を考え、その瞬間から振返って見て感じるであろう・一生の時[#「時」に丸傍点]の短かさの感じ(それは二十年でも二百年でも同じ短かさに決っている)を彼は想像して見る。ああ、本統に、なんて短いんだろうと、誇示的にではなく、全くしみじみと、心からの頼り無さを以て、そう考えられるに違いない。自分も世俗の人々と同じく、その瞬間までは、無我夢中で、大きなものの中における自分の位置などは全然悟らずに、あくせく[#「あくせく」に傍点]と世事に心を煩わして過ごし、(いや、その途中で、一度か二度位は、雑鬧《ざっとう》の中で立止って思索する男のように、ひょいと自己の真の位置に気付くこともあるかも知れない。)さてその最後の瞬間に至って、始めてハッとするのだろう。ハッとして、さて、それから、どうなるのだ?……そんな事をあても無く想像して見るだけで、真正面からこれについて考える気力が無く、大掃除を一日延ばしにして怠けている安逸さで、一日一日、それとの直面を惧れ避けているのであった。(それでいて、彼は、「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」などと言った男を憎んだ。「いまだ死を知らず。いずくんぞ生を知らん」と感ずるような素質を享《う》けた人間だってあるんだ、と考えたのである。)いわば、ちょうど小説を読む時に、途中の哀れな事件――主人公がいじめられたりするような――などは読むに堪えず、ドンドン飛ばして先を読もう、結末を知ろうとして、書物の終りの方の頁を繰って見る根気の無い読者のように、――そういう人々にとっては、経過とか経路とかいうものは、どうでもよい。ただ、結果だけが必要なのだが――彼もまた、途中の一切の思索とか試錬とか、そういうものを抜き[#「抜き」に傍点]にして――そんなものには、とても堪えられない。そんなものに真正面からぶつかって行く勇気も根気も無い――ただ結局の所、ぎりぎり結著《けっちゃく》の所だけを聞きたいと思うのであった。(誰に? 神に?)「一体私たちの魂は不滅なものですか? それとも、肉体と共に滅びてしまうものですか?」不滅だという答を得たところで救われるとは思わないが、(というより、死を厭う気持の中には、自我の滅亡への恐れということの外に、現在の我の存在形式への愛着が大いに含まれていると思われたが、それをはっきり見定めることは彼には出来なかった)何としても「我」が失くなるなどということは堪らないし、それに、(これは第二次的なことだが)人間の誰もが、こんな恐怖を味わわねばならぬように出来ていることが何としても不都合に思えたのである。「永遠に生きることの恐ろしさ」? それはまた、別の話だ。俺たちは今そんな事を考える必要はない。それに、それはいわば、金の使い途《みち》に頭を悩ます金満家の贅沢《ぜいたく》ではないか、と当時の三造は、そんな風に思った。
[#ここで字下げ終わり]
二
ポケットを探って取出した部屋の合鍵が、掌にひやりとした感触を与えるほどの時候になっていた。
暗い部屋に入って電燈を点《つ》け、まず表に向った窓を明放って空気を換える。それから、隅に吊るした鸚鵡《おうむ》の籠をのぞいて餌の有無を見てから、衣服も換えずに、ベッドの上に仰向けに、両手の掌を頭の下に組合せて、ひっくりかえる。
そう疲れるはずはないのに、ひどく疲れたような感じである。今日一日、何をしたか? 何もしはしない。朝遅く起き、朝昼兼帯の食事を階下の食堂で済ませてから、読みたくもない本を無理に辞書と首っぴきで十頁ほど読み、それに倦むと、親戚の子供の死んだのにくやみ[#「くやみ」に傍点]の手紙を出さなければならないことを思い出して、書こうとしたが、どうしても書けない。結局手紙はよして、表に飛出し、街へ行って映画館に入り、そうして帰って来ただけのことだ。何という下らない一日! 明日《あした》は? 明日は金曜と。勤めのある日だ。そう思うと、かえって何か助かったような気になるのが、自分でも忌々《いまいま》しかった。
時勢に適応するには余りにのろま[#「のろま」に傍点]な・人と交際するには余りに臆病な・一介の貧書生。職業からいえば、一週二日出勤の・女学校の博物の講師。授業に余り熱心でもなく、さりとて、特に怠惰という訳でもない。教えることよりも、少女たちに接して、これに「心優しき軽蔑」を感じることに興味をもち、そうして秘かにスピノザに倣って、女学生の性行についての犬儒的《シニック》な定理とその系とを集めた幾何学書を作ろうか、などと考えている。(例えば、定理十八。女学生は公平を最も忌み嫌うものなり。証明。彼女らは常に己《おのれ》に有利なる不公平のみを愛すればなり。の如き。)結局、学校へ出る二日は自分の生活の中で余り重要なものでないと、この男は思い込みたがっているのだが、この頃では、それがなかなかそうではなく、時として、学校が、というよりも、少女たちが、自分の生活の中にかなり大きい場所を占めているらしいことに気付いて愕然とすることがある。
学校を卒業して二年目、父の死によって全く係累のなくなった三造が、その時残された若干の資産を基《もと》に爾後《じご》の生活の設計を立てた。その設計に従ってその時自分がヌクヌクともぐり込もうとした坑《あな》の、何と、うじうじと、ふやけた、浅間しくもだらしないものだったか。今の三造には腹が立って腹が立って堪らないのである。
その時、彼は自分に可能な道として二つの生き方を考えた。一つはいわゆる、出世――名声地位を得ることを一生の目的として奮闘する生き方である。もとより、実業家とか政治家とか、そういうものは、三造自身の性質からも、また彼の修めた学問の種類からいっても、問題にならない。結局は、学問の世界における名誉の獲得ということなのだが、それにしても、将来の或る目的(それに到達しない中に自分は死んでしまうかも知れない)のために、現在の一日一日の生活を犠牲にする生き方である点に、変りはない。もう一つの方は、名声の獲得とか仕事の成就とかいう事をまるで[#「まるで」に傍点]考えないで、一日一日の生活を、その時その時に充ち足りたものにして行こうという遣り方、但し、その黴《かび》の生えそうなほど陳腐な欧羅巴出来の享受主義に、若干の東洋文人風な拗《す》ねた侘《わ》びしさを加味した・極めて(今から考えれば)うじうじといじけた活《い》き方である。
さて、三造は第二の生活を選んだ。今にして思えば、これを選ばせたものは、畢竟彼の身体の弱さであったろう。喘息と胃弱と蓄膿とに絶えず苦しまされている彼の身体が、自らの生命の短いであろうことを知って、第一の生き方の苦しさを忌避したのであろう。今に至るまで治りようもない・彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。人中に出ることをひどく[#「ひどく」に傍点]恥ずかしがるくせに、自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が、才能の不足を他人の前にも自《みずか》らの前にも曝《さら》し出すかも知れない第一の生き方を自然に拒んだのでもあろう。とにかく、三造は第二の生き方を選んだ。そして、それから二年後の、今のこの生活はどうだ? この・乏しく飾られた独り住居の・秋の夜のあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]は? 壁に掛けられたあくどい色の複製どもも、今はもう見るのも厭だ。レコオド・ボックスにもベエトオベンの晩年のクヮルテットだけは揃えてあるのだが、今更かけて見よう気もしない。小笠原の旅から持帰った大海亀の甲羅ももはや旅への誘いを囁《ささや》かない。壁際の書棚には、彼の修めた学課とは大分系統違いのヴォルテエルやモンテエニュが空しく薄埃をかぶって並んでいる。鸚鵡《おうむ》や黄牡丹《きぼたん》いんこ[#「いんこ」に傍点]に餌をやるのさえ億劫《おっくう》だ。ベッドの上にひっくり返って三造はただ茫然としている。身体も心も心棒《しんぼう》が抜けてしまったような工合である。日々の生活の無内容さ[#「無内容さ」に丸傍点]が彼の中に洞穴をあけてしまったのか。それは先刻記憶から喚起した・あの底無しの不安とは全然違う。腑抜けとなり、不安も苦痛も感じなくなったような麻痺状態である。
ぼやけた彼の意識の隅に、しかし、明日出勤する学校の少女たちの雰囲気が、それだけが彼の仮死的な生活の中で、唯一の生きたものであるかのように、明るく浮上って来た。一人一人に見れば、醜くもあり卑しくもあり愚かでもある少女たちが自分の生活の中で触れ得る唯一の生きた存在なのか? 豊かであるようにと予定したはずの日々が何と乏しく虚《むな》しいことか。人間は竟《つい》に、執着し・狂い・求める対象がなくては生きて行けないのだろうか。やっぱり、自分も、世間が――喝采し、憎悪し、嫉視し、阿諛《あゆ》する世間が、欲しいのだろうか。例えば、と彼は考えない訳に行かない。例えば、先週勤め先の学校で国漢の老教師が近作だという七言絶句を職員室の誰彼に朗読して聞かせていた時、父祖伝来の儒家に育った自分が冗談半分その韻をふんで咄嗟《とっさ》に酬いて見せた。その巧拙よりも、方面違いの若い博物の教師がそんな事をして見せたものだから、老先生はすっかり驚いて、人の良さそうな大袈裟な身振で讃め上げてくれたのだが、全く、その時、自分は――尊大なるべき俺の自尊心は――何と卑小な喜びにくすぐられたことだろう! 実際、その老教師が讃めた言葉の一句一句をさえハッキリ記憶しているほど、喜ばされたのではなかったか。ワイニンゲルによれば、女は、一生の間に自分に向って言われた讃辞《ほめことば》をことごとく覚えているものだそうだが、どうやらこれは女ばかりに限らないようだ。そういえば、俺はここ何年何箇月かの間、自分に向って発せられた一つの讃辞をも聞かなかった。自分の飢えていたのは、こんな詰まらないもの[#「もの」に傍点]に対してだったのか。それでは、それほどちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な虚栄心を充たしたがっているお前が、何故、こんな世間とかけ離れた生活を選んだのだ。オデュッセイアと、ルクレティウスと、毛詩|鄭箋《ていせん》と、それさえ消化《こな》しかねるほどの・文字通りの「スモオル・ラティン・アンド・レス・グリイク」と、それだけで生活は足りると思っていた俺は、何という人間知らず[#「人間知らず」に傍点]だったことであろう! 杜樊川《とはんせん》もセザアル・フランクもスピノザも填めることのできない孔竅《あな》が、一つの讃辞、一つの阿諛によってたちまち充たされるという・人間的な余りに人間的な事実に、(そして、自分のような生来の迂拙《うせつ》な書痴にもこの事実が適用されることに)三造は今更のように驚かされるのである。
まだ寝るには早過ぎる。それに、どうせ床に入ったところで、いつものように二・三時間は眠れないに決っている。三造は何ということもなく、身を起して、ベッドの端に腰を下したまま、ぼんやり部屋の中《うち》を眺める。二・三日前、机の抽斗《ひきだし》を掻廻していたら、紙屑にまじって線香花火の袋が出て来た。夏の終に入れ忘れられたもので、まだ中に花火が少し残っていた。それをその時そのまま、また抽斗につっこんで置いたのを、今、彼はひょいと思い出した。彼は立上って抽斗からそれを取出す。花火を出して見ると、まだ、そんなに湿ってはいないらしい。彼は電燈を消して、マッチを擦《す》る。暗闇に、細い・硬い・輝きのない・光の線が奔《はし》って、松葉が、紅葉《もみじ》が、咲いて、すぐに、消える。火薬の匂が鼻に沁み、瞬間淀み切っていた彼の心は、季節|外《はず》れの・この繊細な美しさにいささかの感動を覚えていた。余りにも惨めな・いじけた・侘びしい感動を。
三
静かな博物標本室の中。アリゲエタアや大蝙蝠《おおこうもり》の剥製だの、かものはし[#「かものはし」に傍点]の模型だのの間で三造は独り本を読んでいる。卓子の上には次の鉱物の時間に使う標本や道具類が雑然と並んでいる。アルコオル・ランプ、乳鉢、坩堝《るつぼ》、試験管、――うす碧《あお》い蛍石、橄攬石《かんらんせき》、白い半透明の重晶石や方解石、端正な等軸結晶を見せた柘榴石《ざくろいし》、結晶面をギラギラ光らせている黄銅鉱……余り明るくない部屋で、天井の明り窓から射してくる外光が、端正な結晶体どもの上に落ち、久しく使わなかった標本のうす[#「うす」に傍点]埃をさえ浮かび上がらせている。それら無言の石どもの間に坐って、その美しい結晶や正しい劈開《へきかい》のあと[#「あと」に傍点]を見ていると、何か冷たい・透徹した・声のない・自然の意志、自然の智慧に触れる思いがするのである。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽《ふけ》ることにしていた。
今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖《あな》」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺[#「俺」に丸傍点]というのが、※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84]鼠《もぐら》か鼬《いたち》か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺[#「俺」に丸傍点]が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処《すみか》――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧《おそ》れていなければならない。殊に俺[#「俺」に丸傍点]を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺[#「俺」に丸傍点]自身の無力さとが、俺[#「俺」に丸傍点]を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺[#「俺」に丸傍点]が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺[#「俺」に丸傍点]はその敵を見たことはないが、伝説《いいつたえ》はそれについて語っており、俺[#「俺」に丸傍点]も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むもの[#「もの」に傍点]である。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃《たお》れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺[#「俺」に丸傍点]は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂《ただよ》っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏《つきまと》ってくるのである。
[ 中略】
気がつくと、三造は、何処かの店の飾窓《ショウ・ウィンドウ》の前のてすり[#「てすり」に傍点]につかまり、硝子《ガラス》に額を押付けて危く身体を支えながら、半分睡っていたらしい。飾窓の明るさに眼をしばだたいてよく見ると、それは頸飾や腕輪や、そういう真珠の製品ばかりを売る店である。おでん屋の前でM氏と別れ、それからぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]といつの間にか、弁天通という・この港町特有の外人相手の商店街まで歩いて来ていたに違いない。振りかえって通りを見れば他の店は大抵しまって人通もなくひっそり[#「ひっそり」に傍点]しているのに、この店だけは、どうした訳か、まだあけているようだ。目の前の飾窓の中では、真珠たちが、黒い天鵞絨《ビロード》の艶やかな褥《しとね》の上に、ふかぶかと光を収めて静まっている。電燈の工合で、白い珠の一つ一つが、それぞれ乳色に鈍く艶を消したり、うす蒼く微かな翳《かげ》をもったりして、並んでいる。三造は酔ざめの眼で、驚き顔にそれをぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]眺めた。それから窓際を離れ、しばらくの間M氏のことも先刻の自己苛責のことも忘れて、人通りの無い街を浮かれ歩いた。
底本:「山月記・李陵 他9篇」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年7月18日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
初出:「南島譚」今日の問題社
1942(昭和17)年11月
入力:川向直樹
校正:浅原庸子
2004年8月10日作成
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