ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 

 

 アカデミー賞授賞式におけるウィル・スミスの平手打ちは、大変な話題になりましたね。あやうく、「ドライブ・マイ・カー」の国際長編映画賞受賞がかすむところでした。

 

 この出来事に対して欧米はウィル・スミスに厳しいですが、日本では同情的です。「暴力はいけないが、司会者も悪い」「自分も同じことをするかもしれない」という声が多数派です。

 

 欧米は結果責任を問うのに対して、日本は気持ちに思い入れをするという構図が明確に出ました。こういう日本人の感覚はいいところもありますが、悪く出る場合もあります。

 

 最大の欠点は責任が曖昧になることでしょう。企業にしても政府にしても、失政や失策の責任を全く取りません。さかのぼれば、あれだけの災禍をもたらした戦争責任も曖昧なままです。

 

 「当時はそういう気持ちだった」だの「陛下の心情を思うと」だの、そんな気持ち至上主義で、アジアの民が巻き込まれて命を落とし、多くの兵士が無駄死にさせられたのです。

 

 原発事故に対する責任も曖昧なままです。当時の経営陣は責任を取らないまま、多額の退職金をもらって悠々自適。中には大企業の顧問や相談役になって、高給を得ている者もい流から驚きです。

 

 悪い円安や、賃金の実質低下をもたらした「アベノミクス(という詐欺)」に言及することもありません。まぁ、「三本の矢」とか「黒田バズーカ」などと言って持ち上げ、一緒にはしゃいでいたマスコミが、責任に言及するわけがないのですが。

 

 そしてウィル・スミスです。もちろん問題の発端は司会者の発言ですが、あえて、そのことはいったん置いておきます。スミスの対応はあれで良かったのでしょうか。感情を抑えられなかったことは理解できますが、他の対応もあったはずです。しかも主演男優賞が欲しくて、その後も最前列に座り続けていたのです。

 

 欧米のスミス批判は、「どんな理由があるにせよ、手を上げてはいけない」というものです。それに対して日本では、「気持ちはわかる」。つまり、手をあげたのも仕方なかったということになります。

 

 ここに暴力を容認する抜け道があるのです。だから体罰も、部活での暴力もなくならないのでしょう。「場合によっては手段としての暴力も容認される」のでは、暴力は根絶できません。

 

 欧米が暴力に厳しいのは、それだけ暴力が横行しているからです。見える暴力です。一方、日本の場合は見えない暴力です。そして暴力に至る理由があるのです。あるいは理由づけをされます。それを認めるから暴力を根絶できないのです。

 

 もう一つスミスの暴力が許されないのは、妻を守った夫という家父長制的な結末になって、夫人が反論する機会を奪われたことです。聞くところによると、夫人は社会活動にも熱心で、自力で充分に反論できる力量を持っているらしい。

 

 脱毛症を公言して丸刈りで出てくること自体、勇気のある強い女性である証拠です。それなのに、夫が平手打ちという手段で守ったために、彼女の出番がなくなってしまいました。強い夫に守られる可哀想な妻、という構図になってしまったのす。

 

 私がこのことを強く感じたのは、ニュース番組で見た街の声の中に、こういうものがあったからです。隣にいる彼氏に「僕も同じ行動をしたと思う」と言われて、その若い女性は「守ってくれているんだなと感じて、胸がキュンとなる」と言ったのです。

 

 ありゃりゃ、これじゃ「日本は女性の社会的地位が低い」と言われても仕方がないですね。「守られる」「愛される」といった受け身表現が女性の口から出るようでは、まだまだだだなぁと残念に思いました。

 

 ロス在住の日本人ジャーナリストの、この文章が参考になります。先程のニュースによると、スミスは逮捕寸前だったそうです。

 

 

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