7月15日に販売開始した『始皇帝の崩御〜項羽と劉邦〜』の番外編です。
2000字弱の作品。
本編と合わせてお楽しみいただけたら幸いです。
本編はこちら↓
1.始皇帝の崩御 項羽と劉邦
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鼠
何を偉ぶっていやがるんだ。所詮あくまでも自分の主観で勝手に下だと判断人間相手にしかああもでかい態度を取れないくせに。
負け惜しみかもしれない。しかし今の李斯(りし)には負け惜しみを言うことしかできない。この場で自分には権力もないのだから。なまじ上に立っている人間よりも頭の回転が早いから厄介だ。
きっかけは実に些細なことだった。長らく問題になっていた無駄な評議会を廃止することを李斯が提案したのだ。この評議会は李斯のやらなければならないことを増やすだけ増やし、他の業務を圧迫する割には何も生み出さない。この評議会によって自分は明らかに損失を被っている。同僚などが愚痴るのも聞いていた。組織の中に評議会の存在意義を疑問視する人間は潜在的に多いのかもしれない。往々にしてこのような集会というのはどこの組織にもあるものだが、それでもだからといって改善しないわけにはいかないと李斯は考えた。だから廃止を提案した。
まだまだ若く、下級官吏でしかない李斯の提案だ。
「そういうことはもっと偉くなってから言え」
李斯の上司たちは異口同音にそう言うだけだった。彼の意見をもっと上の立場に伝えようともせず、評議会の内容を改善しようともせず。自分たちだってこの何も生み出さない評議会に損害を被っているにもかかわらず、それをどうにかしようとするよりも黙って自分たちよりも上の決めたことに従っていた方がいろいろと楽だと考えているのだ。単純にあらゆる責任から逃れたいだけ。仕事をしているわけでもなく、ましてや仕事に誇りがあるわけでもない。
だから若く、経験の浅いと思っている部下が何か問題を解決しようとすると腹を立てる。「仕事をする」ということについてより深く考えているのはその若く経験の浅い部下の方なのだが、仕事で経験を積む上で考えることを放棄していった年配の人間からすると李斯は面白くない存在だ。
そういう口答えをするような人間はさっさと潰してしまうに限る。
だから李斯(りし)が何を言っても無視をするし、話の本筋とは違うところで揚げ足を取ろうとするし、相談を持ちかければ話をすり替えてまともに相手にせず、鼻で笑うということを繰り返す。
そのくせ手っ取り早く自分が活躍できると思った場所を見つければ飛びつき、組織にとってどうでもいいことをして成果を上げたという気になっている。本当はその「成果」で誰も幸せになっているわけでもないのに、自己満足に酔いしれてしまうのだ。
「考えないで仕事をする人間とは、害悪でしかないな」
自分で勝手に強いと判断した者媚びへつらい、自分で勝手に弱いと判断した者に偉ぶり、状況を良くすることに頭を働かせず、どうでもいいことをして「成果」と思っている年配の人間に李斯は辟易していた。
しかし見渡せばこの役所にはそんな人間しかいないのも事実。
馬鹿馬鹿しいと思いながら何も生み出さない評議会の席の隅で、李斯は見るからに愚鈍そうな上司たちの横顔を眺めていた。
むしゃくしゃしたので厠に行く。少しでもあの鈍りきった人間たちから距離を置きたい。しかしこの役所の中にはそれができるのは厠だけだ。
厠で用を足していると、視界の隅を鼠が駆け抜けて行った。普段は厠で人間の糞尿を食べている鼠だ。李斯が来たことに驚き逃げ出したのだろう。
用を足し終えたら、また仕事に戻らなければならない。そこには愚鈍な上司たちがいる。それを考えるとため息が出てしまう。
しかしそうも言っていられないので、仕事に戻る。
次の仕事は役所の蔵の見回りだ。今何がどれだけの量あるかを確認するのだ。
李斯(りし)は一緒に行く上司の愚鈍な顔をなるべく視界に入れないようにして、蔵に向かった。
蔵に一歩入るとかさかさという音がした。
音のした方を見ると鼠がいた。
丸々と太り、蔵の中のものを我が物のように食らっている。
人間が来たことに気づきながらも逃げようとしない。
ここに来て、それまでなるべく意識しないようにしてきた上司の顔を見た。
長くここで仕事をしていく上で完全に鈍り切っている上司。思考することを止めた上司。もはや仕事をする上で考えるということを無駄だとすら考えている上司。
そしてそんな人間が歳を重ねていく職場。
「人間も鼠と同じだ。どこに身を置くかによって生活も人生も思考も変わる」
このままここにいたら、自分も鈍ってしまう。
しっかりと学問を修め、もっと自分の能力を活かせる場所に身を移そう。
考えることを止めて、鈍ってしまってはいけない。
死ぬまで思考を研ぎ続けなければ。
李斯は役所を辞める決意をした。
そして学問を志した。