書店を歩いていたら、勝間和代さんの本が平積みされていた。
彼女の経歴はうらやましい程の横文字ぶりで、一応進学校に通い、キャリアウーマンを目指す私からすると憧れの対象のはずであった。事実私は戦う綺麗な女性が好きで、玉の輿組の可愛い奥さんが苦手である。もちろんそれは可愛くなれない女のひがみで、ここにも時代が女性の社会進出の過渡期のひずみが現れていると思うのだけれど、今日はそれを保留するとして、なぜ勝間和代さんへの憧れが仮定法で閉められたか、である。
実際のところ私は勝間さんにあこがれてはいない。別に嫌いなわけではない。では何が勝間さんへの憧憬を阻むのか、一言で言うと「なんか違う」なのである、単純に。
勝間さんの存在を知った頃から、そんな違和感を抱えて彼女の姿をみていた。当初はそれを明確に断定はできなかったが、ふとしたときに同い年の友人が指摘してくれた。それは「女性であること」の押し出し具合であった。
彼女は均等法世代である。均等法の施行後は「女性であること」は特別なことだったのだろうと思う。障害を乗り越え、キャリアを積む中で、いつしか彼女の中では働く女性であることの自負が成長していったのであろう。ただでさえ女性のキャリアには難関が待ち受けているであろうに、子供を育てて男性と遜色のない仕事をなさる中で、相当な苦労をされたに違いない。一高校生の私にその苦労はわからないし、偉そうに語れることでも、語ってよいことでもなかろう。
しかし、である。私の中では彼女の存在は相当な違和感を生む存在だ。均等法から30年以上の時を経て思春期を過ごす私にとっては、女性がキャリアを積んで結婚して子供も生んで、というのは当然の選択肢として現前する。もちろんオプションの一部にしか過ぎないし、大変であろうとは思う。実際両立している女性への尊敬もある、しかしあくまでそれは多数ある生き方のひとつの経路にしか過ぎず、専業主婦もキャリアウーマンも、梨か林檎かの差なんである。
まあ要するに、「子供もいて仕事もして、本当に私ってすごい!」という姿勢に、どうしても見えてしまうのだ。もっと肩の力を抜こうよ、みたいな。
もちろん勝間さんの生き方を否定するつもりはない。普通にかっこいいし、それを憧憬する女性がいるのも、男女共同参画社会的意味でいいことなんじゃないですかね。
ただ勝間さん、肩の力を抜く生き方をする人も素敵じゃない、どっちもオプションとしてあっていいんじゃないの、と一女子高生なりに思うのである。