明日は10月21日、「関ヶ原の戦い」の日ですね。 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

司法書士・行政書士・宅地建物取引士等の資格者として日常の業務や、業務上必要な外国語の習得、舞台役者としての活動など、幅広いジャンルをアップしていきます。

 皆さま、おはようございます&こんばんは~~~ふんわりリボンお月見ルンルンニコ

 

 

西暦2016年10月20日(木)、夜、10時過ぎからのブログアップでございます。

 

 

さて、毎年10月20日前後となると、西暦1600年10月21日(慶長5年9月15日)に美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦のことを考えてしまうのですね。

 

 

長期戦となる戦いを、300年は早く太陽系第三惑星ジパング国に生まれてしまった石田三成の、最終的には、一種、厭世的な人の世を見限った行動により(権力闘争なので、厭世的とは申し訳ないです・・・治部殿!?)、

 

 

たった半日で徳川家康の圧勝となり、以後、毛利輝元以下、毛利家の浅はかな判断により、京坂周辺での持久戦も成されることはなく、徳川家の天下へと推移していきました。

 

 「関ヶ原戦を、誠の武人の戦いではござらぬ・・・えーん」と評した毛利勝永(豊前小倉6万石毛利勝信公嫡子)は、その後、義を貫き大阪夏の陣で豊臣秀頼を介錯し自害して果てますが、

 

 1600年10月21日早朝から南宮山麓で、出撃はまだかまだかと待機していた毛利勝永がすべてを知ったのは、当日の午後になってからのことだったのかもしれません。

 

 10月1日伊勢の安濃津城攻めを果敢に行い、主力として200名以上の負傷者を出した吉川広家が、黒田長政を通じて家康公に内通していたことを決戦当日認識していたかどうか・・・・・アセアセ

 

 そうでしょうね。伊勢で果敢に戦った毛利秀元麾下毛利本家の武将達の中でも、負傷した者は、南宮山から降り下りたら野に放ちおいて欲しいと言い残し、南宮山の西軍に備えた東軍池田輝政、浅野幸長勢に突撃の構えを示していた者がいたらしいので(毛利武将の相当数ではなかったのか・・・??)、

 

 

 

 毛利侍のすべてが、吉川広家、福原広俊、宍戸元続、益田元祥、熊谷元直のように家康公と談合し、領土を保全しようとの思惑で動いてわけではないことは、ダースシオジジでも計り知りえるところです。

 

 

 総体的に、毛利家全体としては、大まかに言って3つの考え方に分かれていたのではないかと考えますが、もう一方の主戦派の一人毛利元康(大坂城から出てこなかった毛利輝元の叔父)は近江の国大津で、西国の雄、立花宗茂とともに籠城する京極高次の大津城攻めを

行っていました。

 

 石田三成の緊急の要請で、10月12日~13日頃には、彼らは美濃関ヶ原方面に急ぎ馳せ参じようとしていた矢先であったのですが、特に、立花宗茂は通り過ぎた大津城に舞い戻り、包囲戦に加担するという愚策を演じてしまいました。

 

 

 東軍との大合戦をやる気満々の立花宗茂、毛利元康、小早川秀包、筑紫広門、宗 義智など西軍1万5千名の最強部隊といってもいい主力隊を10月21日の野戦に配置せず、当日、立花軍は草津にいるという最悪の失態をしてしまいました(家康公の短期決戦思考を見抜けなかった事が最大の敗因)。

 

 関ヶ原の戦いは、双方の主力部隊の激突かというと、西軍の総帥毛利輝元率いる毛利本家の部隊と徳川家康、徳川秀忠率いる徳川主力との激突がなく、10月21日の前哨戦は西軍副総帥宇喜多秀家と東軍徳川家康本隊との激突となったわけですが、

 

 

 宇喜多秀家、小西行長、島津義弘にしても、数日は大垣城に依拠し、少なくとも大津城攻めの部隊が到着してから戦端を開くという発想であったのではないかと確信しています。

 

 

 しかし、とにもかくにも、石田治部様の思考は、関ヶ原盆地において笹尾山、天満山、松尾山(松尾山新城)の最終防衛ラインを東軍に突破させないということであったのかと思います。

 

 10月20日前頃には、流石の治部殿も、大垣周辺の西軍各将の動静に疑心暗鬼となり、「このままでは、味方の中から裏切りが出るのは必定。内通して、多くの者が保身を計っているのではないか。西軍各武将の中で戦意旺盛なるものは宇喜多秀家だけで、戦闘意欲満々で、見上げたものだ。」などと大坂城に駐屯し、美濃へ出てこない増田長盛に書状を宛てています。

 

 しかし、増田長盛は家康公と内通しようとし、治部殿が西軍部隊への資金援助を要請しても渋り、西軍敗退の張本人の一人でした。いや、豊臣家滅亡の元凶ではなかったのか?

 

 

 このような状況下で、情報戦でも遅れを取った西軍副総帥宇喜多秀家は、石田、大谷の最終防衛ライン構想に従い、10月20日夜、大垣城西軍移動部隊約34,000余の後方部隊として移動を開始。

 

 

 小西行長、島津義弘は内府公の真意を見抜いていたであろうから、当然、大垣城を出て野戦に出ることは、少なくとも大津城の15,000の部隊が到着するまでは待つよう治部殿を説得したのではないかと思われます。10月20日に赤坂の東軍を夜襲せよとの意見具申をした島津義弘の姿勢は、その現れかと・・・・・!?

 

 

 家康公は、宇喜多勢、島津勢、立花勢、毛利元康勢などが展開すれば、野戦では勝ち目はないとふみ、関ヶ原には入らないと見こしていた大垣城の西軍首脳は多かったのではないか。

 

 さて、夜も更けてきましたので、この辺でやめます。また、21日に後半を書きます。

 

 

 最後に、近世人の臭いがすると言われた石田三成好きの作家「司馬遼太郎先生」は、1970年4月放映された(記憶違いかも・・・?)日本史探訪の松本清張先生との対談の中で(大阪と東京で別々に話を聞くスタイル)、

 

 

「豊臣会社の秘書石田三成が、副社長の徳川家康に対して、重役陣をかき集めてあそこまでよくやった」と言われていました。

 

 

 300年は早く生まれすぎた治部殿は、「人の心を推し量る」ことの困難さを大垣城でも痛感していたのでしょうが、長期戦に持ち込むことを敢えてしなかった(?)石田三成公の生き様に、10代の頃から魅了されていたシオジジでございました。

 

 

それでは、

 

 

おやすみなさいませ~~~~~ハートルンルン!黒猫オッドアイ猫