奥州藤原時代、首都「平泉(ひらいずみ)―岩手県西磐井郡平泉町―」防衛の主力を担っていたのはかつてアテルイを輩出した照井太郎一族であったと考えられます。そのことは佐沼城―宮城県登米市―をはじめ、平泉以南に広く伝説地を残していることからも窺われます。

 とりわけ「奥州十七万騎」の最高指揮官であったものと思われる照井太郎からすれば、北上してくる敵軍を迎撃するにあたり、「信濃系騎馬軍―≒高句麗系騎馬軍―」を展開しやすかったのは荒雄川―江合川―流域であったことでしょう。信濃系の騎馬は荒雄川流域の北に隣接する栗原郡―現:宮城県栗原市―にて鍛錬されていたものと思われます。陸奥國栗原郡式内七座の一座「駒形根(こまがたね)神社」の社記―「陸奥国栗原郡大日岳社記」―には、文治年間(1185~1190)以前、すなわち奥州藤原時代までは「駒形大神の遷幸」なる神事において数万もの馬を走らせていた旨が伝えられております。おそらくは仮想敵国へのデモンストレーションを兼ねた軍事演習であったのでしょう。

 首都平泉の重要防衛線に位置付けられていたのであろう荒雄川にはかつて36か所にわたって水神―三十六所明神―が祀られておりました。荒雄川が暴れ川であったからではありましょうが、おそらく水利事業に精通していた照井氏の氏神でもあったのでしょう。その上流部にはそれらの奥宮とされる「荒雄川神社」が鎮座しております。『延喜式』「神名帳」に陸奥國玉造郡三座の一「荒雄河神社」として記載されているそれの論社としては、荒雄岳山頂付近「鬼首(おにこうべ)―宮城県大崎市鳴子町鬼首―」の「荒雄川神社」、もしくは「岩出山―同市岩出山池月―」の「荒雄川神社」があてられております。鬼首論社の祭神は出羽國式内名神大「大物忌(おおものいみ)神社」と同じ、すなわち鳥海山の神である「大物忌神」です。これは山形県を主とした限られた分布しかもたない神であるわけですが、試論ながら、アテルイに冠された「大墓公」の訓が仮に「おおものきみ」であったのであれば、夷狄騒乱の予兆として恐れられた鳥海山の噴火を通じて関連が窺われるものと想像しております。

 一方、池月論社の祭神は「瀬織津姫神」と公称されております。同社の由緒は陸奥守兼鎮守府将軍たる奥州藤原三代秀衡が奥州一之宮に掲げていた旨を伝えており、荒雄川流域が平泉政権にとっていかに重要であったかを窺わせます。

 また、池月論社の最寄り駅JR陸羽東線「池月駅」からみて一駅東にあたる「上野目駅」付近、すなわち荒雄川―江合川―沿いのやや下流には「荒脛巾(あらはばき)神社」が現存しております。アラハバキ神は陸奥國の原型であろう日高見國を象徴し得る神と考えられているわけですが、その意味において座標値の類似する大物忌神や瀬織津姫神との関わりも気になるところです。

 

 

「荒脛巾(あらはばき)神社」

 

 荒雄川の上流部にあたる玉造郡の式内三座のうち、荒雄河神社以外の二座は「温泉(ゆ)神社」及び「温泉石(ゆいし)神社」と、各々「温泉の神」です。玉造郡、とりわけ「鳴子(なるこ)」は国内屈指の温泉地であり、国内で確認できる温泉泉質分類11種のうち9種類もの泉質が湧き出ているといいます。それだけ多様な化学薬理効果を古来人々にもたらしてきたわけであり、医学の未熟な時代における身体不調改善の数々は奇跡以外の何物でもなかったことでしょう。温泉の神格化はさもありなん、といったところでしょうか。

 

鳴子火山の火口湖と考えられている「潟沼(かたぬま)」

潟沼は世界的にも有数な強酸性湖なのだそうです。天候や火山活動の状態によって湖水の色彩が幻想的に変化します。一帯に漂う強い硫黄臭、ところどころで噴き出している蒸気もあいまって、国内屈指の温泉地であることを五感に訴えてきます。

 

 

 ところで、温泉神社も温泉石神社もオオナムチとスクナヒコナが祭神であると公称しております。本地垂迹(ほんじすいじゃく)の概念上スクナヒコナの本地仏は衆生を病苦から救う薬師如来でありますので、単にそれ故なのかもしれません。そもそも温泉の神については全国的に同様の傾向があり、一説に八世紀初頭編纂の『伊豫國風土記―逸文―』における道後温泉発祥伝説が影響したものと考える向きもあるようです。当該風土記には次のようにあります。

 

―引用:『日本の古典をよむ 日本書紀 下 風土記(小学館)』― 

伊予国伊社尓波(いよのくにいさにわ)の岡の温泉説話 ※伊社尓波の岡は愛媛県松山市内

湯の郡(ゆのこおり)

 大穴持(おおあなもち)の命(みこと)が後悔するほどはずかしめられ失神していたところ(失神・死に至るまでの前文が省かれている)、宿奈眦古那(すくなひこな)の命(みこと)が、大穴持の命を蘇生させるために、大分(おおきだ)の国の速水(はやみ)の湯(別府温泉)を暗渠を通して伊予まで持って来て(道後温泉の由来)、宿奈眦古那の命が大穴持の命に温泉浴させたので、少しの時間の後に蘇(よみがえ)った。―以下省略―

 

 何故伊予國―おおよそ現在の愛媛県域―にこのような伝説が生まれたのでしょうか。おそらくオオナモチ(=大国主)とスクナヒコナが国土開拓の神とされているからではありましょうが、あくまで私見ながら、伊予が神島たる大三島の「大山祇神社」を核とした大山祇神信仰の一大拠点であることとも無縁ではないと想像しております。

 なにしろ大山祇神は「三島大明神」とも称されております。単に「大三島」なる地名によるものかもしれませんが、少なくとも三島神は一般に「大山祇神&事代主神」のこととされております。仮に出雲旧家の伝を標榜する大元出版系書籍の情報を信じるならば、いわゆる「事代主神―(都味歯八十(つみはやえ)事代主:旧事紀)・(ヤエコトシロヌシ:ホツマツタヱ)―」の名は「八重波津身(やえなみつみ)」であり、「スクナヒコ(ナ)―出雲の副王を指す称号―」でありました。この八重波津身は摂津三島家の姫君「玉櫛姫―活玉依姫(いくたまよりひめ)?―」を娶り、両者の間には奈良盆地の開拓者「クシヒカタ―登美家=カモ家:初期大王家母系祖―」が生まれております。つまり、「事代主神」と表現された出雲副王スクナヒコ(ナ)「八重波津身」は奈良盆地を開拓した勢力の祖でもあったようです。それゆえに国土開拓の神として崇敬されたのでしょうが、おそらくはその属性が意識されていたが故に大山祇神信仰の聖地たる伊豫國においても「宿奈眦古那(すくなひこな)≒事代主神」が道後温泉を開いたとされたのでしょう。

 尚、同系情報に準じるならば、大山祇神の本質は「伯耆(ほうき)國―鳥取県―」の霊峰「大山(だいせん)―火神岳(ひのかみだけ)―」に宿る出雲神族の祖神クナド神のことでありました。さすれば四国地方にも出雲系の信仰が広まっていたことを窺い知るわけですが、三島神社系祭神の「大山祇神&事代主神」なる構図は「クナド神&八重波津身」、すなわち「祀られる神&それを祀る副王」の関係ということになります。ちなみに同系情報において「副王」を指す称号が「スクナヒコ」であるのに対し、「王」を指す称号は「オオナモチ」でありました。

 いずれ、温泉の神がオオナモチとスクナヒコナであるとされる例が多いのはこの道後温泉発祥伝説に象徴される国土開拓の属性に起因していたものとみる説が有力なようです。

 しかし、私の脳裏には菊地勇さん著『よみがえる史上最高の名僧 徳一菩薩(いわきふるさとづくり市民会議)』の説くところが消えないのです。

 すなわち、「石城(いわき・しき)國の発祥地」であろう「湯ノ岳―福島県いわき市―」や、それを神体山とする陸奥國磐城(いわき)郡式内七座の一「温泉(ゆの)神社―同市―」の「湯(ゆ)」が、本来は「忌み清める」を意味する「斎(ゆ)」ではなかったか、というものです。

 同社の祭神は「大巳貴命・少彦名命・事代主命」と公称されておりますが、同じ磐城郡の式内社で温泉とは関係のない「大國魂神社―同市―」も全く同じ祭神を公称しております。大國魂神社のすぐ近くには同社の飛び地境内として「甲塚(かぶとづか)古墳」があり、「建許侶(たけころ)命」の墳墓と伝えられているわけですが、「建許侶命」は「國造本紀」に「石城國造の祖」とあります。被葬者が本当に「建許侶命」であるか否かはわかりませんが、大國魂神社の祭祀意図が建許侶命に象徴された石城國造家の祖神奉斎にあったことは間違いないでしょう。さすれば同じ磐城郡の式内社たる温泉神社の祭神も「温泉の神」である以前に「石城國造の氏神」であったのではないか、と考えてしまうのです。

 

磐城郡式内温泉神社の祭神

 

磐城郡式内大國魂神社の祭神

 

甲塚古墳

 

 とりあえず少彦名と事代主は前述のとおり異名同神と考えておいてよさそうなわけですが、この神々は奈良盆地の神奈備山(かんなびやま)である「三輪山―奈良県―」の「大神(おおみわ)神社」にも配祀されております。同社は神社の元祖とも言われているわけですが、配祀どころか主祭神の「大物主」自体が「事代主」のことと考えられ、それは「少彦名」でもあるようなのです。いみじくも宮城県東松島市において三輪山の神を祀る「三輪神社」は主祭神を「少彦名命」と公称しております。

 国土を開拓したとされるこの神々は言い換えれば奈良盆地においても「斎(ゆ)」の原点であったわけであり、もしかしたら「斎(ゆ)」と「湯」の訓が共通しているが故にすべからく温泉の神としても祀られるようになっていったのかもしれません。

 しかし少なくとも、陸奥國磐城郡ならびに同玉造郡の式内温泉神にスクナヒコナが加わっていることについては、温泉神祭神設定のお約束とは関係のないご当地事情に因る可能性が高いと私は勘ぐっております。何故なら「スクナヒコ(ナ)≒八重波津身=事代主」はそもそも石城國造家や陸奥安倍氏の氏神と思われるからです。

 なにしろ、前九年の役で滅ぼされた陸奥安倍氏において、戦死した「安倍厨川(くりやがわ)二郎貞任(さだとう)」と双璧の権力者「安倍鳥海(とりみ)三郎宗任(むねとう)」は、いみじくも「伊予國―愛媛県今治市―」に配流されました。なにかしらの縁故があったものか、その後、地味に権勢を回復しつつあったことが危険視されたらしく、筑前大島―福岡県宗像市―に再配流されたのです。

 宗任の三男季任(すえとう)は後に「松浦水軍」の核を担っていくわけですが、宗任の兄貞任の裔を称する一党は「安東水軍」として繁栄していきました。もしかしたら伊予滞在中の宗任は大山祇神社との縁で水軍勢力発起の芽を育みつつあったのかもしれません。

 伊予を中心に勢力をふるうことになる村上水軍は戦国時代に至って「毛利水軍」に吸収されるわけですが、そもそも戦国時代における西国最強勢力の毛利氏は、最後のスクナヒコ「野見宿禰(のみのすくね)」の子孫「大江氏」の一系、もっといえば、羽前国寒河江(さがえ)―山形県寒河江市―に領地を得た「大江政広」の子「元顕(もとあき)」の子孫であり、千城央(ちぎひさし)さんの小説『ゆりかごのヤマト王朝(本の森)』を信じるならば、それはアテルイの盟友モレを輩出した船師一族の裔でありました。

 さすれば、配流の身ながら三島神信仰の聖地たる伊予において宗任コネクションはサロン化されつつあったのかもしれず、宮廷側にとって懸念材料になっていたことは想像に難くありません。それ故か否か、宗任は再配流の憂き目にあいました。彼は再配流地の筑前大島において「松島明神―紫明神≒瀬織津姫神?―」を祀り、「薬師如来」を奉持していたと伝わります。同地の「安昌院」はその薬師如来を安置するために開基された寺であったといい、松島明神を崇敬する陸奥安倍一族の守り本尊が薬師瑠璃光如来であったことを窺えます。

 余談ながら、陸奥安倍氏の火種を消さなかったことは後に日本を救うことになったようです。元寇の際、二度の神風によって全滅したとされている蒙古軍ですが、出雲旧家の伝を標榜する大元出版系の書籍『幸の神と竜―谷戸貞彦さん著―』によれば、実際に撃退したのは津軽安東水軍等であったようです。古老の伝えるところでは、北条執権政府の要求に応じた安東水軍等が海上でゲリラ戦を繰り広げ、蒙古の軍船を追い払ったのだそうです。おそらく「モクリコクリの碑」との関わりを窺える陸奥守「安達泰盛」が秘密裏に陸奥安倍氏の末裔を口説き、アウトローな海賊衆を動かしたのでしょう。軍事政権である鎌倉幕府がかつて滅ぼした賊の末裔に救われたとは言えるはずもなかったでしょうから、「神風」ということで片づけたのかもしれません。

 

津軽安東氏の本拠「十三湖」から「岩木山」を望む。「岩木」も「石城」に由来していたのでしょうか。

 

 いずれ、その賊たる陸奥安倍一族の守り本尊がスクナヒコナの本地仏とされる薬師如来であったわけです。磐城郡や玉造郡における温泉の神にスクナヒコナが加わっていることについて、定説どおりに「温泉の神がおしなべてスクナヒコナとされていたから」とみるべきなのか、それとも「そもそもスクナヒコナが当地の産土神であったから」とみるべきなのか、やはり悩ましいところではあります。

 ひとつ興味深い例をあげておくならば、玉造郡の北に接する栗原郡の鳥屋崎村にかつて存在していた「湯澤権現社」は、『栗原郡誌』に「祭神は瀬織津姫命なり」と記されておりました。由緒は詳らかでなく、少なくとも鎮座地からみて温泉の神とは言い難いものがあります。単に栗駒山の向こう「湯沢―秋田県湯沢市―」の民がこの地に移ってきて故郷の氏神を祀ったのかもしれませんが、瀬織津姫神は「祓いの神」である以前に陸奥安倍氏の氏神と思われ、やはり「斎(ゆ)」こそがふさわしいと思うのです。