藤原相之助が「八乙女の尼澤」にあったと推断する平泉系の尼寺址について、私は前稿にて「八乙女小学校」あたりに展開していたのではなかろうか、と推測してみました。ただ、同校も校名にこそ「八乙女」が冠されておりますが、その所在地はあくまで「松森字不動」、すなわち「旧松森村」なのであり、「八乙女」の属していた「旧七北田(ななきた)村」ではないのです。とはいえ、その微妙な齟齬を埋め得る推測もとりあえず私の頭には浮かんでおります。藤原相之助は『郷土研究としての小萩ものがたり(友文堂)』の中で次のようにも語っておりました。

 

―引用―

又、八乙女には「お阿弥陀さま」と稱する堂が今でも残って居ます。之も尼寺の址らしく、白水阿彌陀堂の系統を引いたものと思はれます。

 

 この尼寺址の一部らしき「お阿弥陀さま」なる堂が、同書執筆当時の八乙女に現存していたがために藤原相之助は「尼澤」についても「八乙女」地内に括っておいたのではないか、と考えてみたのです。

 とはいえ、そもそもその「お阿弥陀さま」の所在地も本当に八乙女で間違いないのか、という不安が残ります。なにしろ以前その「お阿弥陀さま」なるものを探してみるも、確認には至っておりませんでした。ただ、それもそのはず、私は尼澤への解釈を誤ったままに天ヶ沢行政区周辺―南光台一丁目周辺-を中心に探していたわけですから、見つかるわけもなかったのです。

 しかし、このたび尼澤を「天ヶ沢―南光川と前ヶ沢川―全流域」と解釈し直し、あらためて本来の八乙女地区に目を向けてみたことによって、八乙女の「三田八幡神社」が土地の古老に「おあみださん」と呼ばれていたこと、少なくとも藩政時代までは同地に阿弥陀堂があったことを確信しました(※注)。仙台市のHPは三田八幡神社について次のように説明しております。

 

―引用―

寛永年間、伊達政宗公の家臣である犬飼氏が仙台城下に居住していたころ、江戸の三田に祀る三田八幡神社から移し、氏神様として祭った神社です。
明治のころ、犬飼氏が八乙女に転居した際に現在地に移されたとされています。
土地の人は「オアミダサン」と呼んでいることなどから、以前は阿弥陀堂があったと考えられます。

三田八幡神社

 

埼玉大学教育学部谷謙二さん(人文地理学研究室)作成「今昔マップ」に加筆

 

 同社は地元で「オアミダサン―お阿弥陀さま―」と呼ばれていたようです。件の阿弥陀堂は明治時代まで存在していたものの、おそらくは廃仏毀釈の流れで仏堂としての実質が廃されたのでしょう。そしてその境内に犬飼家の氏神が移し祀られたようです。とはいえ、藤原相之助が前述書を執筆していた昭和八年当時、仏堂の体をした建築物そのものはまだ残っていたようです。氏はこの阿弥陀堂について、「之も尼寺の址らしく、白水阿彌陀堂の系統を引いたものと思はれます」と推測していたわけですが、念のため補足しておきますと、「白水阿弥陀堂―福島県いわき市内郷-」は奥州藤原初代清衡、あるいは二代基衡の娘「徳姫―徳尼―」が嫁ぎ先の岩城(いわき)にて夫―「岩城則道」もしくは「岩城行隆」あるいは「海道小太郎成衡」か?―の菩提を弔うために「願成寺」を開き、その境内に平泉の光堂―金色堂―を模して建てたと伝わる阿弥陀堂です。

 もちろん、八乙女の阿弥陀堂については、その願主が徳尼の遺志を継承する尼たちであったのだろうということだけであって、必ずしも光堂―金色堂―を模した建築様式というわけではないでしょう。そもそも平泉が滅ぼされ落ち延びていた下げ尼らが白水阿弥陀堂に匹敵する寺院建築物を建立できたとは到底考えられません。八乙女の堂なり天ヶ沢尼寺の伽藍なりはかなり簡素なものであったと考えるのが自然です。しかしそれでもそこに込められていた地元民の同情心なり信仰心は相当なものであったと想像します。阿弥陀堂としての実質を廃されて神社と化してもなお「お阿弥陀さま」と呼ばれ続けていたことがそれをものがたっていると言えるでしょう。もちろん単に廃仏毀釈なる明治政府主導の理念が庶民にまで浸透していなかったが故の惰性かもしれませんが、一方で“確信犯的言い間違い”であった可能性も否めません。何故なら、そう思わしめる情報が「天ヶ沢不動明王」の信仰圏に垣間見えるからです。

 

―引用:「南光台団地今昔物語」仙台市市民センターHP所収―

天ヶ沢不動明王は、南光台5丁目の住宅街、南光台北保育所の斜め前に位置しています。団地開発によってこの場所に移設されたのですが、移設前は、湧き水が流れている場所にあって、小田原や原町などからお参りに来る方がいたとされています。地域の方のお話しによると、南光台に流れていた天ヶ沢の沢水がいつも御本尊の頭に注いでいたとのことです。

 

 天ヶ沢―南光川―の水神が起源であろう天ヶ沢不動明王には「小田原や原町―いずれも現:仙台市宮城野区―」からの崇敬も篤かったようなのです。これはなかなかに不思議なことです。何故なら、天ヶ沢―南光川―の清水は小田原や原町とはまるで反対方向に流れているからです。

 ただ、参考までに補足しておきますと、明治二十二(1889)年の市町村令が発布される前、「宮城郡國分小田原村」には、現在の小田原はもちろん、清水沼・宮町・原町の一部や東仙台、それどころか南光台団地に隣接する現在の旭ヶ丘、小松島、小松島新堤、自由ヶ丘、安養寺も含まれておりました。市町村令が発布されたことによって宮城郡小田原村・南目村・苦竹村が合併して「宮城郡原町」となり、それは昭和三(1928)年に「仙台市」に合併されたわけですが、少なくとも私が子供の頃、「仙台基督教育児院」などがある現在の「仙台市青葉区小松島新堤」の住居表示は「仙台市原町小田原字新堤」でありました。

 

明治二十二(1889)年における宮城郡原町の範囲

 

 したがって「小田原や原町などからお参りに来る方がいた」とはいえ、必ずしも国道45号沿線界隈の狭義の「小田原や原町」からというわけでもないでしょう。しかし、仮にそれが小松島や安養寺を含めた広義の「原町小田原」であったにせよ、その辺りは天ヶ沢の上流どころか分水嶺を隔てた先のエリアなのです。

 

天ヶ沢―南光川―と小田原エリアの位置関係

 

南光台と安養寺・小松島新堤周辺の尾根筋と川筋―埼玉大学教育学部谷謙二さん(人文地理学研究室)作成「今昔マップ」に加筆―

 

 仮に小松島や安養寺を含む広義の「原町小田原」が常に水不足の地域であったというならば、分水嶺を超えてでも天ヶ沢の清水に頼らざるを得ないわけですから、おのずとそれへの信仰心も高まることでしょう。しかし原町小田原エリアには梅田川が流れ、古来積極的に溜池も築かれ、むしろ広く灌漑用水を供給する側であったはずです。

 とりわけ「与兵衛(よへえ)沼―宮城野区蟹沢―」は寛文(1661~1673)の頃に仙臺藩士の「鈴木与兵衛」が私財を投じてつくった沼で、旧小田原村の田を潤しておりました。同様に「海老堤―小松島沼:青葉区小松島―」も小田原田圃への用水目的で築かれたものです。

 

与兵衛沼を滑空する白鳥たち

 

小田原田圃の水路絵図

 

 また、「安養寺堤―大堤沼:宮城野区安養寺一丁目―」はおそらく与兵衛沼や小松島沼より800年以上も古く、『続日本後紀』承和七(840)年条にみえる宮城郡権大領「物部己波美(もののべのいはみ)」の築いた私池はそれでなかろうかという旨を藤原相之助が推測しておりました。「私池を造って公田八十町余を灌漑し、私稲(しとう)一万千束を提供して公民に恵み与えた―森田悌さん全現代語訳『続日本後紀(講談社)』―」と記されているところのそれです。―拙記事:「物部己波美(もののべのいはみ)」参照―

 つまり、原町小田原エリアでは古来天ヶ沢以上の水量が十分に確保できていたものと思われるのです。さすれば、原町小田原エリアの人たちによる分水嶺を越えた天ヶ沢不動明王へのお参りを、天ヶ沢の「清水」への畏敬のみで捉えてしまうと本質を見失うような気がします。清水以外にも何か他の参詣理由があったのでしょう。あくまで私論ですが、おそらくその参詣習慣の始まりは天ヶ沢の尼寺址へのものであり、すなわち天ヶ沢―尼澤―に落ち延びていた平泉系下げ尼たちへの供養が本来の目的であったのではないでしょうか。なにしろその参拝者らが住まう「原町小田原」、すなわち「旧國分小田原」エリアは平泉滅亡の悲劇を伝える「小萩ものがたり」の最終舞台なのです。

 

※注 

 仙臺藩の命で田辺希文が編纂した『封内風土記』の七北田邑条には「阿弥陀堂二」とあり、八乙女地区の属する「旧七北田村」に阿弥陀堂が二か所あったことがわかります。しかし同書にそれ以上の情報はなく、七北田村とはいえ八乙女のそれとは確定できないわけですが、幸いにして『封内風土記』の補完版ともいえる『風土記御用書出―俗に安永風土記―』に「阿弥陀堂 一小名 八乙女」とありました。これによって『封内風土記』にみえる七北田村「阿弥陀堂二」のうち一つは「八乙女」のそれであったことがほぼ確定されます。安永風土記の編纂者は田辺稀文の実子稀元でありますが、彼が父稀文の遺志を受け継ぐかたちで実地調査を行い編纂したものが同書と言われております。