江戸幕府による対朝廷政策の一環で歴代天皇陵比定の各古墳が整備―凄まじく改修-されたらしき、いわゆる「文久の修陵」について詳しく知りたくなり、森浩一さんの『巨大古墳(講談社)』を入手しました。学術文庫として復刻された同書の底本は今からおよそ35年前の1989年8月岩波書店刊『巨大古墳の世紀』であるようですが、森さん自身による2000年6月付の「学術文庫版まえがき」もあるので、岩波書店版執筆後11年間に更新された知見も取り入れて微調整を経た24年前の情報と受け止めておいてさしつかえないでしょう。いずれ未熟者の私にはいちいち新鮮であり、あらためて刮目を促された部分も少なくないわけですが、その中にあってどうしてもとりあげておきたい内容がありました。同書入手本来の目的とは少しずれるものの、ここに備忘録をかねて本稿を起こしておきます。

 考古学者の森浩一さんは、古墳の大きさに関連して実に気になる指摘をされておりました。あくまでも墳丘の長さに重きをおいた前提ではありますが、新羅国王の陵墓と考えられている朝鮮半島最大規模の古墳―新羅慶州八十二号と九十八号墳(ともに双円墳)―が110~120メートルであるのに対して、それより大きな古墳が日本の九州から東北までにざっと109基―同書執筆時点―も分布しているというのです。

 森さんは「古墳が大きいなど、決して文化的な自慢になるわけではなく、日本の一つの特色として示すだけである」と釘を刺しておりますが、この事実もふまえつつ、二十一代「雄略天皇」の陵にからめて次のように語っております。

 

―引用:前述同書―

 ここで「雄略陵」について少し説明しておこう。雄略天皇といえば誰しも頭にうかぶのは埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳出土の鉄剣銘文であろう。金象嵌(きんぞうがん)であらわした百十五文字のなかの「獲加多支鹵大王」を「幼武(わかたける)大王」と解し、それを雄略に比定し、さらに中国文献にある倭王武とも同一人物とするのがかなり定説化しているが、考古学の立場をつらぬくと、一候補とは認めるけれども、まだそれ以上の速断には賛成できない。というのは、四五ページでみたように新羅の国王級の古墳、それも傑出した規模の古墳を日本列島におきかえると、南九州から東北南部までにざっと百九基もあって、その被葬者も当然それぞれ人名をもっていたであろうが、そのうち主として畿内の人名―それもそのすべてではなかろう―だけが記紀に伝えられていると推定されるからである。つまり畿内以外の巨大古墳の人名をはじめとして、記紀には伝えられていない人名が多数あるのに、そのすべてがわかっているかのように結論がだされる点には賛成できないのである。

~中略~

 宮内庁が今日「雄略陵」に指定している高鷲丸山古墳は、一部を池に拡張していて変形しているが本来周濠のあったと推定される大円墳で、墳丘の直径は七六メートルある。ちなみに最大の円墳は、どうも皮肉めくが、埼玉稲荷山古墳の南西に接している丸墓山古墳で、この方は直径一〇〇メートルあり、これを一位とすると高鷲丸山古墳は十三番めあたりの規模となる。

 

丸墓山古墳

 

 

 なるほど、定説的な情報をそのまま鵜呑みにすれば、地方豪族を埋葬した古墳が同時代の天皇陵より大きかったということになります。強権的な専制的君主と伝わる雄略天皇の陵墓だけになおさら違和感があります。そのうえで森さんは以下のように指摘しているわけですが、本稿上もっとも重視しておきたい指摘がそれでもあります。

 

―引用:前述同書―

~これは「雄略陵」の指定が間違っているか、それとも「中央の大王にたいする地方豪族」という政治状況の設定が間違っているのかのいずれかであろう。

 

 正直なところ、私はその両方でなかろうかと思っておりますが、特に後者はこれまでの拙稿でも銅鐸や前方後方墳などをからめて推察してきたことではあります。

 とりあえず、雄略陵の指定は十中八九間違っていることでしょう。何故そう思うのかというと、天皇の宮殿と同じ鰹魚木(かつおぎ)を自宅の屋根に上げていた「志幾大縣主(しきのおおあがたぬし)」に対して雄略天皇の激高した旨が『古事記』にみえるからです。つまり、そのように天下無双の地位に固執していた彼が、同時代の地方豪族を下回る規模の陵で葬送されたわけがないと思うのです。雄略陵は同時代の最大規模であったはずと私は考えるわけですが、あえて言えば、吉田東伍が『大日本地名辞書』に掲げた「河内大塚山古墳説」のほうが妥当と考えます。河内大塚山古墳については一応宮内庁も雄略天皇の陵墓参考地に治定しているようですが、全国五位に相当する墳長335メートルの規模は王権の在り方に大変革をもたらした剛腕雄略陵にふさわしく思えます。

 ただ、そもそも真の雄略陵は残っていない可能性もあります。何故なら、雄略に父を殺されて恨みをもつ甥の二十三代顕宗天皇が、即位二年の年、同父実兄のオケ命―次代の二十四代仁賢天皇―に雄略陵の破壊を依頼していたことが記紀に伝わるからです。

 『古事記』によれば、オケは先帝かつ叔父でもある雄略の陵を破壊することに憚りの念を覚え、わずかばかり掘って作業をやめ、破壊終了の報告をしたようです。しかしその作業の早さをいぶかしく思った顕宗はオケに尋問しました。オケはそれに対して先帝陵破壊に伴うリスクと父の仇討ちとの妥協点を言上し、むしろ顕宗を諫めて思いとどまらせた旨が記されております。ちなみに『日本書紀』には陵に手をつけた旨のくだりがなく、ただ嘆いて諫めたことになっております。はたして雄略陵にはなんらかの手が加えられたものか、全く何もしなかったものか、はたまたその実は破壊消滅させられたものの記紀編纂時の性善方針で隠蔽されたものか・・・。

 なにしろ、河内大塚山古墳は奈良県最大の巨大古墳である丸山古墳と墳形規模や形などが似ているらしく、これほどの巨大古墳にもかかわらず丸山古墳同様埴輪が使われていないのだそうです。森さん曰く「仮りに丸山古墳に近い年代とすると、文献で推定されている雄略の時代より約半世紀後のものである可能性」があるのだそうで、「雄略陵」の候補からは遠ざかってしまうようです。はたして真相はいかに・・・。

 さて、「中央の大王にたいする地方豪族」という政治状況の設定について私見を語らせていただきます。森さん同様、古墳時代におけるその政治状況の設定には違和感を覚えます。遅まきながら、同書森さんの指摘ではじめて意識したわけですが、たしかに新羅国王級以上の古墳が南九州から東北南部までの広範にわたって確認できている事実は、少なくともそれだけの陵墓築造にかかわる作業動員力を有する新羅国王級の権力者が畿内から遠く離れた南九州や東北南部にも存在していたということの傍証にほかならないでしょう。

 前述の鰹魚木を自宅の屋根にあげていた志幾大縣主などは、いみじくも五世紀頃の畿内においてまだ天皇家―大王家―に比肩し得る豪族がいたことを窺わせます。「シキ」を冠していることからすると、もしかしたら前王権の裔、すなわち闕史八代に数えられる磯城王朝系天皇の裔―オホ氏やワニ氏―、もしくはその王権を簒奪したのであろう九州系天皇―垂仁天皇や景行天皇―の係累とも思われますが、場所が河内であったことからすれば、朝鮮半島由来の財力に権力が裏付けられていた十五代応神天皇ないし十六代仁徳天皇の係累であったのかもしれません。いずれ畿内にあっても当時それだけの大物が存在していたわけで、遠く離れた辺境などは推して知るべしでしょう。

 とりわけ国内最大の円墳―丸墓山古墳―を有する「埼玉(さきたま)古墳群―埼玉県行田市―」の被葬者一族はその最たるものと思われます。もしかしたら八世紀に聖武天皇勅願で全国に建立された國分寺の意義、また、その中で武蔵國のそれが最大規模で建立されたことにも武蔵王―武蔵國造家?―の権勢に対する何等かの思惑があったのかもしれません。

 同地「稲荷山古墳」出土鉄剣銘文の解釈を信じるならば、当該古墳の被葬者はワカタケル―雄略天皇―の天下統治を支えた「ヲワケ臣」であるようです。この人物については、古墳群底地の位置からも武蔵國造の系譜に連なる人物とみるのが定説的です。

 しかしその一方、ヲワケの上祖として刻まれていた「オホヒコ」が四道将軍大彦命を思わせることから、阿倍・膳氏系の人物である可能性も指摘されております。『読める年表 日本史(自由国民社)』は次のように語っております。

 

―引用―

★稲荷山古墳の被葬者は誰か

 次に銘文の主人公「乎獲居(ヲワケ)」と稲荷山古墳礫槨(れきかく)の被葬者との関係についてみると、①乎獲居を古墳に葬られた本人とみて、武蔵の国造の系譜に連なる者とする説と、②「意富比垝(おほひこ)」を記紀の系譜にみえる大彦命とみて、乎獲居を大彦命を始祖とする阿倍・膳氏系の人物とし、鉄剣は乎獲居から部下であった古墳の被葬者に授与されたとみる説に大別される。「杖刀人首」「左治天下」などの語からも、後者が穏当に思われる。

 

 

さきたま古墳公園全体図

 

 

 

稲荷山古墳

 

丸墓山古墳から眺める稲荷山古墳

 

 「杖刀人(じょうとうにん)」については刀を執って王の護衛にあたる者の意とされておりますが、舎人(とねり)にあたるとする説、宮廷の警護、雑役に従事した丈部(はせつかべ)にあたる説などがあるとも同書は補足しております。

 前述のとおり、銘にある「獲加多支鹵大王」を「幼武(わかたける)大王」と解し、それを雄略に比定し、さらに中国文献にある倭王武とも同一人物と解釈していることについて森さんは、「考古学の立場をつらぬくと、一候補とは認めるけれども、まだそれ以上の速断には賛成できない」とのことでありました。当該古墳と雄略天皇や倭王武との関係についてはともかく、関東以北において丈部を称していた一族が石城國造家や陸奥安倍氏の同系氏族であった可能性は高く、被葬者をアベ系の人物とみることにはそこはかとなくつじつまが合っているように思えております。