「いわき―福島県いわき市-」の地名について、聖徳太子が定めた「憲法十七条」の第一条「和を以て貴しとなす」の漢文表記「以和貴」が語源という説があります。少なくとも私は懐疑的なのですが、『よみがえる史上最高の名僧 徳一菩薩(いわきふるさとづくり市民会議)』の著者菊地勇さんも疑問を投げかけておりました。同書によれば「いわき」の文献上初出は『常陸國風土記』にみえる「石城』とのことですがー注:『古事記』 神武天皇譚「神八井耳命」の補記に「陸奥の石城國造」とありー、土地内ではこれを「いしき」と発音していたはず、と菊地さんは考えていたのです。

 その論拠は、新村出博士編『広辞苑(岩波書店)』が「石城」を「しき」と読んでいること、また、東京大学の大野晋博士、京都大学の村山七郎博士らも日本語の成立に関する論文の中で、「しき」は、斯鬼、師木、磯城などと書かれてきたが、原義はすべて石城である、と説明しているとのことで、古語の常識に照らし合わせてみても、風土記に表れる石城の訓は「神籬(ひもろぎ)-神の座(いま)すところ-」を意味する「しき」であろう、と菊地さんはみていたようなのです。菊地さんが展開していた興味深い持論の核となる部分を引用しておきます。

 

-引用:『よみがえる史上最高の名僧 徳一菩薩(いわきふるさとづくり市民会議)』-

 私はここで、石城(しき)はどこで発生したかを提起しようと思います。

1、 古い神社伝承で、湯の岳を神体山とする山岳信仰は、温泉(ゆの)神社に残された。

2、 その他の神社で神体山伝承は残されていない。二ツ箭山は後年の創建である。

3、 磐城神白(かじろ)の国造神社は、初代石城国造の墳墓跡に坂上田村麻呂が祀ったと伝承され、他に初代伝承を残すものはみられない。

4、 延喜式(九二七年)石城七社のうち、藤原川流域には温泉神社・住吉神社・鹿島神社と、三社が集中する。

5、 縄文後期から弥生前期を通じて、住吉流域の文化遺跡が高い水準と複合性を示している。

以上を統合すると、石城は藤原川流域に発生したと認められます。古墳時代以前は海水が住吉よりも深く入っていたのです。湯の岳がもっともよく眺められるのは、この地区からなのです。湯の岳を神体山とする祭祀集団がいわきの開発と統合を行い、石城(しき)を氏族名に冠する強い統合をつくったものと考えられます。復習すれば、「石城」は「以和貴」ではないということです。

 

 実に説得力があります。なにしろ本居宣長も『古事記伝』にて奈良盆地の「磯城(しき)」の語源を「石城」と説いておりました。

 

藤原川河口付近から望む湯ノ岳

 

温泉(ゆの)神社

 

みえない…

温泉神社の祭神

 

住吉神社

 

 

 

住吉神社付近の用水路。古墳時代以前は海水がこのあたりよりも深く入っていたとのこと。

 

鹿嶋神社

鹿嶋神社前を流れる矢田川-藤原川の支流-

 

 菊地さんは、神体山なる「湯ノ岳」の「湯」についても、忌み清める意味の「斎(ゆ)」ではなかったかと推断しておりました。石城の式内七社中三社が湯ノ岳の山容をもっともよく眺められる藤原川流域に集中していることの意味は小さくなく、この流域一帯こそが「石城の発祥地」と考えたようです。

 

藤原川水系図

 

 基本的には私も「石城=しき」を前提とした菊地さんの藤原川流域発祥説に便乗させていただくわけですが、ひとつ私論を紛れ込ませていただくならば、石城なる言霊自体はこの地の属性に由来したものではなく、石城國造家の先祖によってアイデンティティ的に持ち込まれたものではないか、と考えております。何故なら、石城國造家は「十一代垂仁(すいにん)-十代祟神(すじん)-王権」に奈良盆地の支配権を簒奪された「磯城(しき)登美家」の係累であろうからです。

 出雲旧家の伝を標榜する大元出版系の情報によれば、奈良の磯城地方、ひいては、葛城地方も含めた奈良盆地全体はその磯城登美家の祖「クシヒカタ―天日方奇日方命―」が開拓者でありました。

 そのクシヒカタについて、三輪山信仰の党派によって編纂されたのであろう『ホツマツタヱ』は同書前半を編纂した人物として掲げております―ホツマ上の名はクシミカタマ―。 

 なにやら磯城地方におけるクシヒカタ-クシミカタマ―がいかに神聖な存在であったかは想像に難くないわけですが、その偉人を祀る神社が何故か「勿来(なこそ)関-石城と常陸の境-」の常陸(ひたち)側にあるのです。すなわち、延喜式内「佐波波地祇(さわわくにつかみ)神社-茨城県北茨城市-」がそれです。同社について、安本美典さん監修・志村裕子さん訳の『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は「高の國造-多珂國造-」の由緒地である旨を補足しておりました。

 自らの由緒地にクシヒカタを祀っていたらしき「高の國造-多珂國造-」のその実は「石城一族」から分かれたのであろうことが『常陸國風土記』から推察されます。同風土記上、一見「多珂國」から分立して「石城國」が成立したかに見えますが、本質はむしろその逆と思われるのです。何故なら、他でもない同風土記に「多珂の国造“石城直”美夜部」とあるからです。つまり、本家であるはずの多珂國造当主個人の姓は「石城直」であったということです。

 『古事記』は石城國造の祖が「神八井耳(かむやいみみ)命」、すなわち弟の「二代綏靖(すいぜい)天皇」に皇位を譲った人物である旨を明記しているわけであり、『先代旧事本紀』「國造本紀」は「建許呂(たけころ)命」と伝えております。両情報の齟齬に全く課題がないとは言いきれませんが、「鹿島神」たるタケミカヅチがカムヤイミミ系譜の英傑であろうこと自体は異論を待たないでしょう。そのタケミカヅチについては古事記も旧事紀も「クシヒカタ―記の表現ではクシミカタ―」の子孫である旨を伝えており、石城國造は磯城登美家の係累であろうという試論が補強されます。

 さすれば、石城國造が「石城≒磯城」を冠し続けることは、奈良盆地開拓が自分たちの功績であったことの主張であったのかもしれません。

 とはいえ、東征勢力に敗れ辺境に追われたのであろう彼らの立場としては、当代王権の目も憚らざるを得ず、「しき」の訓もあえて「いわき」に変えざるを得なかったのではないでしょうか。