「餓鬼堂横穴墓群-福島県いわき市-」がある「富神崎」の「富神」はいかなる神様に由来しているのでしょうか。「弁天崎」という別称があることからすると、「弁財天-インドサラスバティ川の神-」と習合し得る神ということが推察されます。弁財天は財を司る神でもありますから、それ故に「富」なのかもしれません。

 しかし、「富」と「弁財天」から私の頭に連想されるのは、むしろ「金華山-宮城県石巻市-」の頂上に天下ったという「富主姫大神」です。それは、神仏混淆時代の別当寺「真言宗金華山大金寺」の略縁起に登場していた女神です。「天照(あまてる)太神の分魂(わけみたま)」でありつつ、天上においては弁才天女であったとのことでありますが、この神を祀る神社は名取川河口「閖上(ゆりあげ)-宮城県名取市-」の「日和山」にもあり、いみじくも「富主姫神社」として現在もなお崇敬されております。

 閖上は何らかの観音像が漂着した-ゆりあがった-ことに由来した地名と伝わりますが、幾通りかの類型の内には「観世音菩薩」を厚く信仰する人物そのものの漂着譚もあります。具体的な例として、「萩姫」なる尼が常陸石城の境-勿来(なこそ)か?-で山賊に遭い、小舟で沖に流されたものの護持仏たる観音菩薩の加護により閖上濱に漂着したという言い伝えがあります。

 この萩姫は「白水荘-仙台市青葉区台原-」で人生を終えたとされておりますが、同地に現存する「白水稲荷神社」がその伝説についてなんらかの鍵を握っているようです。

 藤原相之助の『郷土研究としての小萩ものがたり(友文堂書房)』によると、同社別当がにじり書きにした文反古(ふみほうご)-不要になった手紙-にはその萩姫が「泉ヶ岳」の麓「根白石村金畠-仙台市泉区福岡金畑―」で育った「泉の守の二女萩姫」であった旨が書き残されていたのだそうです。

 萩姫が育ったと伝わる金畑地区は、泉ヶ岳を水源とする長谷倉川の上流部「光明の滝」と「白糸の滝」の間あたりでありますが、一帯はなかなかの奥地であり、何故ここで育てられたものか、隠遁の印象がつきまといます。

 

光明の滝

 

金畑付近から望む泉ヶ岳

 

白糸の滝

 

 萩姫の親「泉の守」は、おそらく奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」を示唆していたものと思われます。かつて白水稲荷神社のすぐ近くには「和泉三郎忠衡」の遺児を匿いこの地に逃れた乳母「小萩」の墓と伝わる塚-小萩ヶ塚-がありました。現在ではその塚を確認できませんが、少なくとも昭和初期まで残っていたことは「風の時編集部」復刻の大正元(1912)年および昭和三(1928)年の地図からもわかります。各々の伝説上、萩姫は石城-福島県いわき市-から、かたや小萩は平泉-岩手県平泉町-から陸奥國分荘玉手崎あたり-梅田川中流域:JR仙山線東照宮駅から北仙台駅周辺-に流れ着き、各々この地で人生を終えたことになっておりますが、両者の伝説は本来同根なのでしょう。

 関係したものか否か、いわき市には、奥州藤原家の娘「徳尼」が故郷平泉中尊寺の「金色堂」を模して建立したと伝わる「白水阿弥陀堂-いわき市内郷白水町-」があります。なにしろ萩姫が山賊に遭遇したとされる常陸石城の境に近いJR植田駅周辺にも萩姫が育った場所と同じ「金畑」という地名があり、「白水」なる言霊とも縁がある徳尼と萩姫の関連が窺われます。

 おそらくそれら一連の平泉系女性の悲劇を伝え広めていたのは名取熊野の比丘尼(びくに)たちであろうと思われるわけですが、なにしろ先の閖上濱には名取熊野那智社の御神体がゆりあがった-漂着した-という伝説もあります。私は、名取那智社境内域に隣接する「高館山古墳」を照らす閖上からの朝日-日(ゆり)-を神そのものとみなす土着信仰が、八世紀頃の「羽黒(はぐろ)修験」に吸収され、それをさらに中世の「名取熊野信仰」が包摂したものと推察しております。  

 なにしろ本場紀州のいわゆる「熊野別当」歴代の系譜を伝える「熊野別当代々記」には、一条院御宇長保元(999)年正月二日に補任された第十代別当「泰敬―泰救?―」について、「父実方中将、母奥之国人也」と記されております。紀州熊野三山別当系譜の世襲制はこの十代別当から始まっていたようなので、事実上、その「奥之国人-陸奥國の女性-」が紀州熊野別当の母系祖であったともいえます。那智・本宮・新宮の三社が各々に勧請されて一社に統合されることもなく紀州のそれを擬した相関的な配置をもって祀られている名取熊野ですが、全国を見渡してみても他に類例のないその特殊性からみて、彼らは十代別当泰敬―泰救?―の母に関してなんらかの鍵を握っているのでしょう。もしかしたら名取へ熊野那智神を将来したと伝わる名取老女のモデルはその女性なのかもしれません。それ故か否かはわかりませんが、少なくとも奥州藤原氏は名取熊野を手厚く保護しておりました。

 『嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)』には「本吉冠者四郎高衡」と「志波日詰五郎頼衡」といった奥州藤原三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で鎌倉軍の攻撃に応戦した旨が記されておりますが、高衡や頼衡の処分については彼らの実在の有無も含めて詳らかでありません。ことさらに処刑された情報もなく、実在していたのであれば鎌倉側から赦免されたものと考えます。少なくとも『吾妻鏡』には名取の佐藤荘司および名取郡司が熊野別当とともに投降して赦免された旨が記されており、あくまで試論―私論―ながら、生かされた平泉首脳陣の多くは名取熊野の預かりになっていたものと私は考えているのです。とりわけ平泉首脳陣周辺の女性陣は熊野比丘尼として活動していた可能性もあります。彼女らは「萩姫」「小萩」「徳尼」にまつわる「ものがたり」を通じて奥州藤原氏滅亡の悲劇を水面下で歌い広めていたフシがあり、おそらくはその彼女らを介して勿来以北の海道はシンクロしていたのでしょう。さすれば件の富神崎にも、同系のアイデンティティーを共有し得る人たちが存在していたのかもしれません。

 富神崎には、「餓鬼堂横穴墓群」となんらかの関係があるものか、あたかも墓群を守護するように「安波大杉神社」が鎮座しております。ウェブで検索してみても当該社の詳しい情報は見当たりませんが、茨城県稲敷市阿波(あば)の地に「あんばさま」と呼ばれている「大杉神社」なる名のある古社があることを知りました。同社のHPによれば、「大杉神社」は「莬上(うなかみ)國造」を祀るもっとも重要な神社であり、「全国に670社ほどある大杉神社の総本宮」とのことで、『常陸國風土記』にみえる「安婆嶋」が鎮座地であるがゆえに「あんばさま」と呼ばれているようです。

 つい先日、東日本大震災の大津波に呑まれた「苕野(くさの)神社-福島県双葉郡浪江町請戸-」が再建されたというニュースをテレビで見ましたが、『延喜式』「神名帳」所載の陸奥國標葉(しめは)郡「苕野神社」に比定されている同社には「安波(あんば)祭」なる「浜下り潮水神事」があるようです。また、同社は往古沖合にあった「苕野小島」に鎮座していたらしく、そこはかとなく「あんばさま」なる大杉神社の属性を彷彿とさせます。

 また、苕野神社には女神九柱が楠の船でその島に漂着したとされる譚や、「天竺(てんじく)-インド-」なり「震旦(しんたん)-シナ:中国-」なり「新羅」なりから王妃クラスの姫が流れ着いた旨の異伝があるようです。もしかしたら萩姫漂流譚と同根であった可能性も考えられるだけに無視できません。女神なり王妃の漂着譚という視点でみるならば、どこかヒボコ系、ひいては新羅系の神話を彷彿とさせます。しかし、なにしろ天竺は出雲王家、震旦は物部氏、新羅はいわずもがなヒボコ系を示唆し得ます。さすれば、各々「葛城・磯城王権」・「祟神・垂仁王権」・「応神・神功王権」として我が国黎明の覇権を熾烈に争いあった勢力同士であり、結局属性の核が絞り切れなくなってしまいそうです。

 ちなみに同社の祭神は「高龗(たかおかみ)神」・「闇淤加美(くらおかみ)神」・「五十猛(いそたけ・いたける)命」・「大家津姫(おおやつひめ)命」・「抓津姫(つまつひめ)命」―『式内社マップ東北(式内社顕彰会東北支部)』※注―といった、いわば貴船系なり五十猛系-カゴヤマ系-に括れそうな神々です。もしかしたら漂着譚は貴船-木船-信仰が震源なのなのかもしれません。 さすれば、「あんばさま」とはいえ必ずしも「莬上(うなかみ)國造」、あるいは「倭大物主櫛甕玉(やまとおおものぬしくしみかたま)大神」なり「大巳貴(おおなむち)大神」「少彦名(すくなひこな)大神」といった三輪山色の濃い神々を祀る大杉神社から直接的に分かれた祭祀とは言えなさそうです。

 富神崎に鎮座する安波大杉神社の色合いがどちらに近いのかはわかりませんが、「安婆(あんば)」なり「安波(あんば)」は「安房(あわ)」なり「阿波(あわ)」の変化した地名ではないかと勘ぐる私は、必然的に古代房総安房國―千葉県―を開いたと伝わる「安房忌部氏」との関係を意識せざるを得ません。安房忌部氏の祖は千葉県勝浦市の「遠見岬(とみさき)神社」の祭神「天富命-富大明神-」と伝わっており、富神崎の地名由来としてはかなり自然な気がします。

 

富神崎の安波大杉神社

 

 ちなみに、大杉神社に祀られている「あんばさま」こと「莬上國造」について、『古事記』は出雲國造家の祖アメノホヒ命の子タケヒラトリの命であるとしております。『先代旧事本紀』の「國造本紀」も同様で、安房忌部氏開拓伝説のある阿波國-千葉県-の「阿波國造」を「あんばさま」同様アメノホヒ系としております。もしかしたら、出雲國造と同祖であるホヒ系國造支配地を忌部氏が上塗りしたものか、ただ、そもそも関東地方のホヒ系國造を額面どおりホヒ系と考えることには注意が必要なようです。

 出雲旧家の伝を標榜する大元出版系の情報を信じるならば、相模・武蔵・秩父・安房・須恵・上海上・伊甚・菊麻・印波・下海上ら関東を支配した出雲出身の國造なりこれらの役職についた豪族の多くが「向家-富家-」と「神門臣家」といった旧出雲王家の息子たちであり、「物部王朝―いわゆる11代垂仁から14代仲哀まで―」から暗殺されることを恐れてホヒ家の子孫らしい名前に変えたらしいからです―斎木雲州さん『出雲と蘇我王国(大元出版)』―。

 とりわけ「あんばさま」こと「莬上(うなかみ)國造」に関連して次のようなことが語られております。

 

―引用:斎木雲州さん『出雲と蘇我王国(大元出版)』―

旧事本紀に、上海上国造は天穂日命ノ孫と書かれているが、それは「神門臣・振根ノ子孫」が正しい。

上海上(上総国)の市原郡には、神門(ごうと)古墳と呼ばれる古墳が多く並んでいる。それは旧西出雲王家の分家の古墳である。

旧事本紀に、安房(阿波)国造家は穂日命の後の大伴直(あたい)大滝が国造になった、と書かれているが、正確には「神門臣家大伴の後」である。

神門臣オオトモが五十猛命に「オトモ」(お供)して、海部家勢力に加わったから、そういう苗字になった、と言われる。

 

 安房忌部氏による開拓伝説の色濃い古代房総ですが、大元出版系の情報を鑑みるならば、少なくともホヒ系とはいえなさそうです。その一方で、祭神が三輪山の大神神社に近いことや、とりわけ浪江の苕野神社が五十猛系-カゴヤマ系-に括れそうなこととはつじつまが合いそうです。

 いずれ、少なくとも富神崎には房総から北上してきた富神奉斎勢力の支配の及んでいた可能性は高いとみております。それはおそらく石城國造家を輩出した勢力であるものと考えているわけですが、餓鬼堂横穴墓群の被葬者もその係累であったのではないでしょうか。

 蛇足ながら、東北地方最大の前方後方墳とされている「大安場(おおやすば)古墳」の底地名「大安場」とは、もしかしたら往古この地にも「あんばさま」が祀られていて、それに因む地名であったのではないでしょうか。

 

※注:昭和十二年発行の『神詣で(福島縣觀光協會)』では何故か高龗神が含まれていません。