福島県浜通りを南下して茨城県との県境付近、「勿来(なこそ)の関」からもそう遠くない地域に七世紀前半の築造と推定される「金冠塚(きんかんづか)古墳」なる円墳があります。この古墳からはなにやら計十三体分の遺骸が出土しているようです。

 

 

 

―引用:金冠塚古墳現地説明板―

福島県史跡 金冠塚古墳

 本古墳は直径二十八メートル、高さ三メートルの円墳で、墳丘は二段の段築を行っている。昭和二十五年と二十八年の二回にわたって発掘調査され、内部からは全長七、九メートルの横穴式石室が発見されている。石室は前と後に玄室を持つ複式構造となっている。床面は三層に分かれ、それぞれの層から遺骸が、合計十三体分出土している。追葬、重葬が行われたと推定される。

~中略~

 本古墳は七世紀前半に築造された当地方を代表する古墳である。

 指定 昭和三十年二月四日

   平成十二年 七月

       福島県教育委員会

       いわき市教育委員会 

 

 何故十三体分まで追葬、重葬されたのでしょうか。単に家族なり合葬すべき一族郎党なりの数がそうであっただけなのでしょうか。少なくとも歴代当主十三代分ということは考えにくいものがあります。何故なら、七世紀から十三代にもわたれば、とうに古墳埋葬習俗の時代も終わっていると思うからです。したがって、追葬なり重葬は主たる被葬者への記憶が新鮮なうちに行われたのであろうと考えられます。さすれば、主たる被葬者をのぞく十二体の重葬も、主たる被葬者の逝去と同時に構想されたものと想像します。他の地に埋葬されていた遺骸が再埋葬されたものか、あるいは殉死者なりあらためて献じられた生贄であったものか、おそらくは、なんらかの事情により主たる被葬者の霊魂に「蘇って欲しかった」、あるいは反対に「消滅して欲しかった」のではないでしょうか。あくまで試論-私論-ではありますが、「13」には「蘇生への祈り」、あるいは「封印への呪い」のいずれかが込められていたものと考えられます。

 世界各地で聖数であることが散見される「13」について、私は十二進法に密接なものと考えております。すなわち、「13」は「12」で一巡するサイクルの「次」、ないし「外」にある数字であることから、「生まれ変わってほしい」、あるいは「あの世に行ってほしい」など、世界各地で普遍的に「死と再生」になぞらえられていた聖数なのであろうと推測しているのです。

 十二進法については、ナイル川の増水時期の日の出直前にのぼるシリウスがその夜の12番目に現れる明るい星であったことや、約数の多い12がモノを分けるのに便利であった云々が始原であろう、とも言われております。たしかにナイル川のそれは、史料上確認し得る現時点最古の情報ではあるのでしょう。しかし、それが世界的な伝播の震源とまでは言えないと私は考えております。何故なら、十二進法は先進文明の伝播を待つまでもなく、世界各地で自然に発祥し得た普遍的な概念であっただろうことが想像に難くないからです。すなわち、地球上のどこからでも月の満ち欠けが確認できるわけで、月の形状に一定の周期があることにさえ気づけば、新月から満月を経て、再び新月に戻るまでを12回繰り返した後に同じ季節が来ることを、古代人が現代人よりも鋭敏に認識していたことは間違いありません。文明の未成熟な時代には自然現象が生命維持に直結していたはずだからです。

 例えば、この金冠塚古墳と同じ福島県浜通り地方の北辺、福島県相馬郡新地町の「三貫地貝塚」では、一度葬った人の頭骨13個を円形に並べ、手足の骨を中央に集めた極めて珍しい埋葬例が発見されています。一度葬った人の頭骨をあえて再埋葬しているわけですから、そこになんらかの強い意志が働いていたことはあきらかで、もちろん私は「再生」ないし「封印」いずれかにかかわる呪術的意図があったものと想像しております。いわずもがな、貝塚は縄文時代の遺構であり、さすれば福島県浜通りにあっても、七世紀どころか縄文時代には既に「13」という数字になにかしらの呪術性が意識されていたと考えておいてそう外れてはいないでしょう。

 はたして金冠塚古墳の被葬者は何者なのか・・・。立地から穏当に考えるならば、石城國造家の系譜-多珂國造家や菊多國造家も含む-に連なる人物でしょう。

 もしかしたら、古墳上の祠に被葬者の属性を窺えるなんらかのヒントがあるのではないか、とも思ったのですが、現地を訪れるも祠に神号を示す表記等はありませんでした。しかし、ゼンリン地図やGoogleマップ、Yahoo!マップなどには「大山祇神社」と表記されております。

 

 

 また、少なくとも2018年以前にはそう表記された札が立っていたことを『週末は古墳巡り-「ぶじん(桂甲の武人)様」主宰-』の掲載画像によって確認できました。

 

 

 この大山祇神社はおそらく後世に祀られたものと考えるのが穏当で、必ずしも被葬者と直接関係するものとは断じがたいわけですが、少なくとも「この塚には大山祇神が祀られるべき」と考えた人がいたということです。

 ただ、大山祇神の信仰にもいくつかの流れがあるようなので、短絡的に考えるわけにはいきません。一般に大山祇神祭祀の総本社としては伊豫國一之宮の「大山祇神社―愛媛県今治市―」が知られ、伊豆國一之宮の「三嶋大社―静岡県三島市―」の大山祇神も伊予から渡ってきたものと認識されております。

 しかし『三島市史』などはそれを否定し、大山祇神はもともと富士山を中心に山神を祭る山祇の祖なのであって、伊豫のそれは伊豆から分祀されたものか、少なくともその成立は伊豆より後である旨を力説しております。

 たしかに、『古事記』に伝わる「大山祇神-大山津身神-」の位置づけは、天孫ニニギの后「神阿多津比売(かむあたつひめ)―木花佐久夜毘賣(このはなさくやびめ)―」の父親であるわけで、そのコノハナサクヤ姫は浅間神社の祭神、すなわち富士山の女神でもありますから、なるほど『三島市史』の主張にも十分妥当性があります。

 一方、コノハナサクヤ姫の別名である阿多津比売の「阿多(あた)」を重視するならば、それは薩摩隼人の本拠地「阿多」の娘であったことを意味するわけで、大山祇神が九州由来であったものと解釈することも可能になってきます。

 しかし、出雲旧家の伝を標榜する大元出版系の情報を信じるならば、大山祇神は本来伯耆(ほうき)国―鳥取県―の霊峰「大山(だいせん)―火神岳(ひのかみだけ)―」に宿る出雲の祖神クナド神のことあったようです。出雲王家の継承者と思しき斎木雲州さんは、コノハナサクヤ姫の父親は「竹屋ノ守(たかやのかみ)」なる薩摩の阿多―鹿児島県南さつま市―の豪族であって、神話上その名を「大山津身ノ神」に変えられた旨を語っております―『古事記の編集室(大元出版)』―。

 この斎木さんは、『出雲と蘇我王国(大元出版)』の中で、タケヌナカワワケが「三島の地名をつけ、三島神社を建て祖先の事代主命を祭った」と語っております。三嶋大社において大山祇神と共に主祭神とされている事代主神が、タケヌナカワワケ(=アベ氏)の祖であるのならば、彼らにとっても大山に宿るクナド神、すなわち大山祇神は祖神であったはずです。

 仮に金冠塚古墳の被葬者が陸奥安倍氏と同系であろう石城國造系の人たちであったのだとすれば、大山祇神への祭祀も十分妥当性があると私は思うのです。