世界農業遺産に登録された「大崎耕土」の広がる宮城県北部「大崎平野」は、往古列島最北の古墳文化地帯でもあったようです。前方後円墳の一個体としてはそれよりだいぶ北に離れたお隣り岩手県の「角塚古墳(つのづかこふん)―奥州市胆沢区―」が最北とされておりますが、同県および青森・秋田両県の北東北三県に他の前方後円墳が確認されておりません。したがって、今のところは角塚古墳のみがなんらかの事情で古墳時代中期―五世紀~六世紀―頃に築造された特殊な個体と捉えておくしかなさそうです。もちろん北東北でも「蝦夷塚」などと俗称されることの多い「末期古墳」群は散見されますが、古墳時代中期以前に限ればやはり大崎平野あたりが最北であったものと思われます。

 一方、前方後方墳の個体としては、その大崎平野の南東部に位置する「京銭塚(きょうせんづか)古墳―宮城県遠田郡美里町:旧小牛田(こごた)町―」が、少なくとも平成四(1996)年三月時点においては最北端と認識されておりました。

 

―引用:小牛田町教育委員会による現地説明板―

京銭塚(きょうせんづか)古墳

 古墳時代中期(五世紀~六世紀)の古墳と推定され、県内における代表的な中期古墳のひとつです。

 古墳の周辺部は部分的に削られ、原型を変えていますが、主軸の長さが六六メートル、高さが四メートルの前方後方墳で最北端に位置するものです。

 このような古墳の存在は、この地方においても稲作の生産力が上がり、それを基礎とした階級社会、政治社会が現れ、権力の集中があったことを示しています。

平成四年三月

小牛田町教育委員会

 

 

京銭塚古墳

 

 

 最北端云々についてはこの説明板の数年後に早くもあてはまらなくなっていたようですが、それはともかく、当該古墳が「古墳時代中期(五世紀~六世紀)の古墳」と推定されていることは気になります。何故なら、前方後方墳はおしなべて古墳時代前期―三世紀後半~四世紀初め頃―の築造と推定されているからです。中期まで下るのであれば、出雲をのぞく列島全域の古墳文化は遍く前方後円墳の波に呑まれていたフシがあります。

 東国首長の象徴とも目されている前方後方墳は、「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」など方形の墓にこだわりをみせるアイデンティティーが継承された埋葬形態と考えられるわけですが、その発祥地は出雲と思われ、それ以外の地域では時代が下るにつれ前方後円墳に上塗りされていったものと考えられます。おそらくは畿内を中心とした前方後円墳勢力の拡大―ヤマト王権の強大化―が無視できないほどのレベルになるにつれ、方形墓祭式の集団はそれへの忖度を余儀なくされていったのでしょう。

 『【前方後方墳】の謎(学生社)』の植田文雄さんは、列島最大の前方後方墳とされている「西山古墳―奈良県天理市―」が段築二段目から上に前方後円墳を乗せているという奇妙な形であることに着目し、「大和の西山古墳が列島最大でかつ折衷のかたちをもつ理由は、新しく興った河内勢力の伸長で畿内のなかでも争いが勃発し、三・四世紀に纒向・大和古墳群を築いた本家本元の大和勢力が河内勢力と対抗するために、前方後方世界と通じたのではないかと考える。つまり、四世紀末~五世紀代の河内勢力は瀬戸内海の流通を掌握して朝鮮半島・百済とむすび、大和勢力を弱体化させた」と興味深い推測を展開しております。

 「纒向(まきむく)・大和」にせよ「河内(かわち)」にせよ、古墳時代の勝ち組が前方後円墳祭式の集団であったことは疑う余地もなく、それだけに前方後方墳でありながら現地説明板に中期古墳であることが強調されている京銭塚古墳はやけに気になるのです。何故なら、その時代には大崎平野にも既に前方後円墳と思しき「青塚古墳―大崎市古川―」のような前期古墳が出現していたはずだからです。京銭塚古墳を中期古墳と推定した小牛田町教育委員会の論拠は未確認ですが、それが妥当なのであれば、同時代の畿内王権との馴れ合いを頑なに拒み続けていた勢力がこの地に土着していたことを窺わせます。自立性の強い出雲の一部地域では、大和vs河内のいずれにも左右されることなく「岡田山古墳―島根県松江市―」など古墳時代後期―六世紀末―に至るまで前方後方墳がつくられておりました。それに限りなく近いアイデンティティーが小牛田周辺にも根付いていたのかもしれません。

 ただ、平成十一(1999)年五月の『宮城県色麻町熊野神社古墳測量報告』において、京銭塚古墳は中期古墳ではなく前期古墳にカテゴライズされております。〔前方後方墳?〕とことさらに「?」を付されてはおりますが、むしろそれが妥当でしょう。また、この報告では京銭塚古墳より高緯度に位置する「氷室B古墳―同県大崎市古川―」が前方後方墳とみなされており、少なくともこの時点で既に最北の座が更新されていたことになります。

 

―引用:藤原二郎さん、小野寺智哉さん、辻秀人さん、東北学院大学考古学ゼミナール『宮城県色麻町熊野神社古墳測量報告』―

前項では熊野神社古墳は、前期古墳である可能性が高いという結果が得られた。宮城県北部における前期古墳は、小牛田町蜂谷森古墳〔円墳〕、保土塚古墳〔円墳〕、京銭塚古墳〔前方後方墳?〕、古川市青塚古墳〔前方後円墳?〕、氷室B古墳〔前方後方墳〕、宮崎町大塚森古墳〔円墳〕、大黒森古墳〔円墳〕と7例が知られ(辻1997)色麻町熊野神社古墳で8例目となる。これらの古墳で前方後円墳は、全長100m以上の規模をもつとされる青塚古墳(太田1981)と熊野神社古墳の2例のみである。しかし、青塚古墳は前方部が現存せず、円形の墳丘が残存しているだけで、前方後円墳と確定するにはやや疑問が残る。熊野神社古墳は宮城県北部前期古墳の中で、唯一確実な形で発見された前期の前方後円墳である。~以下省略~

最北の前方後方墳と思しき氷室B古墳一帯の丘陵

 

 この測量によって、表題の熊野神社古墳は前方後円墳であり、かつ、前期古墳である可能性の高いことが確認されたようで、さすればやはり古墳時代前期には既に宮城県北部にまで前方後円墳の波が押し寄せていたということになりそうです。とはいえ、前述の青塚古墳を前方後円墳と確定するにも疑問が残るようで、〔前方後円墳?〕と「?」が付されております。前方部の可能性を窺える部分が人為的な削平で現存していないのだからやむを得ないでしょう。

青塚古墳現地説明

 

 一方で、理由はわかりませんが、小牛田の京銭塚古墳が前方後方墳であることについても疑問が残るらしく、同測量報告では〔前方後方墳?〕というように「?」が付されております。

 ふと、ある記憶が蘇りました。かつて私は、古墳時代前期としては最北の前方後円墳とみられる「青塚古墳―宮城県大崎市―」の現地説明板をみたとき、あくまで感覚ながら、これはもしかしたら前方後方墳ではないか、と思ったことがありました。京銭塚古墳が前方後方墳とされていることへの「?」とは反対の可能性を勘繰るものではありますが、1600年以上もの長い歴史の中で、風雨や地震、雑木雑草の繁衍のみならず人為的な削平を受けた古墳の本来形状に対して、はたしてどこまで正確に判定できるものだろうか、という素朴な疑問も抱きました。なにしろ方形という形状はその特性上経年で角が失われやすいはずで、円形に比べて原型を留め難かったであろうことが思考を支配したのです。もちろん、緻密な測量を経た上で有識者が「後方ではなく後円」と判定したものを疑うのはあまりにおこがましいのですが、私のようなド素人の感覚はともかく、数多くの古墳調査にも関わってきた植田さんが前述著書の終章で次のように提言していたことは引っかかります。

 

―引用:『【前方後方墳】の謎(学生社)』―

 全国的には現在、前方後円墳とされているかずかずの古墳が、ほんとうに前方後円墳なのかどうか再吟味も必要になる。神郷亀塚古墳も、発掘するまでは前方部の細い柄鏡形の前方後円墳と考えられてきた。それが簡単な試掘調査で前方後方墳と判明したことを、身をもって体験した。墳形をたしかめる試掘と墳丘測量は、さほどの労力ではない。なによりも一つの古墳が、前方後円墳か前方後方墳かでは歴史的な意味あいが大きくことなるのだ。

 江戸後期、蒲生君平による「前方後円墳」命名が影響力の強いものであり、明治以降の郷土史研究のなかで、「古墳」といえば安易に「前方後円墳」とされたきらいもある。しかし、近年いくつかの前方後円墳が前方後方墳に訂正されており、今後まだまだ前方後方墳がふえると予測される。定型化した前方後円墳として知られた、すばらしい副葬品をもつ兵庫県西求女塚(にしもとめづか)古墳が、発掘調査の結果、前方後方墳だと判明したこともこの流れにある。

 

 前方後方墳や方墳は、おしなべて前方後円墳や円墳よりも下位階層の首長墓と位置付けられる傾向があるだけに、地元側なり検証側に前方後円墳であってほしいという願望的バイアスがかかってはいやしないか・・・そんな懸念が残るのです。そもそも、その相違は階層の位置づけに起因するものではなく各々のアイデンティティーに起因でするものであろうと私は考えております。おそらくは3世紀以前の「銅剣・銅鉾文化vs銅鐸文化」の名残が古墳時代の「後円墳文化vs後方墳文化」の関係であり、劣勢となってしまった「後方墳文化≒銅鐸文化」側が「後円墳文化≒銅剣・銅鉾文化」側への忖度を余儀なくされていったが故に下位の階層にみえてしまうものと私は考えるのです。

 前述の測量報告で8例が確認されている宮城県北部の前期古墳のうち、4例が円墳、2例が前方後円墳、そして残り2例が前方後方墳と判定されておりました。円墳は塚を盛る際の最も普遍的な形状でしょうから、殊更にアイデンティティーめいたものを勘繰る余地もなさそうですが、植田さんの言葉を借りれば「前方後円墳か前方後方墳かでは歴史的な意味あいが大きくことなる」わけですから、くれぐれもバイアスのかかった調査にはならないよう願うところです。

 尚、本稿で触れた京銭塚古墳や氷室B古墳、青塚古墳はいずれも「鳴瀬(なるせ)川」の流域―鳴瀬川流域界―の左岸にあるわけですが、京銭塚古墳に近い中流域には塩竈神社や紫神社、見渡神社など陸奥國色の濃厚な神々の社が散見され、河口付近には石上神社や三輪神社といった大和磯城エリアの神々、氷室B古墳や青塚古墳に比較的近い上流域には鹿島神や石神が散見される他、伊達神社や磯良神社など五十猛系―香語山系―の神々も鎮座しております。なにしろ鳴瀬川の左岸側―北側―を並行して流れている「江合(えあい)川―荒雄(あらお)川―」では、 かつて流域36カ所に「瀬織津姫神」が祀られておりました。当地の前期古墳文化との関係性が気になります。

 

国土交通省HP掲載図に一部加筆