「前九年の役」は陸奥安倍氏対国家権力といった明確な対立構図で終始しましたが、「後三年の役」のそれは実に不可解なものでありました。すなわち、出羽清原家の内紛に陸奥守源義家が介入したものの、清原家内対立構図の変転のまま義家も当初の討伐相手に与することになるなど、終わってみれば結局誰と誰が何のために争っていたのかわからくなってしまった奇妙な戦乱だったのです。

 その火種は、子のない当主「清原真衡(さねひら)―武貞の子・清衡の異母兄弟―」が「平國香(くにか)」流「平権守安忠」の子「成衡(しげひら・なりひら?)」を養子としたことでくすぶり始めたものと思われます。何故ならこれは、当主真衡が異母弟の清衡や家衡ら同族の者を清原家の跡継ぎにはしないと宣言したようなものだからです。そのくすぶる不満は、一族の長老「吉彦秀武」が真衡から侮辱的応対を受けたことによって臨界点に達しました。

 

安倍氏・清原氏系図:梶原正昭校注『陸奥話記(現代思潮社)』所載系図より

 

吉彦秀武・清原家相関への拙解釈:前掲系図を一部加筆修正

 

 それは秀武が真衡の養子成衡の婚儀にご祝儀の品を持ち込んだときの事でした。秀武は、朱の盤に金をうずたかく積んで頭上に高く掲げたまま庭にひざまずき、真衡の応対を待っていたのですが、真衡は秀武を無視し、護持僧との囲碁に熱中していたようなのです。老骨に鞭打ち、その姿勢でどれだけの時間ひざまずいていたものか、そもそも成衡の養子縁組そのものに納得していなかったであろう秀武は、ついに堪忍袋の緒が切れました。盤を庭に投げ出し、郎党をひきつれて出羽に走ったというのです。

 そのふるまいに真衡は激高し、秀武討伐の命を下しました。一方の秀武は「清原清衡―のちの奥州藤原初代清衡―」と「清原家衡―清衡の同母異父弟―」に決起を促し、真衡攻めに舵を切ったのです。真衡舘がどこにあったのかはわかりませんが、秀武が出羽―秋田県―に走ったと伝えられていること、秀武の意を受けた清衡らが真衡舘襲撃前に白鳥邑―岩手県奥州市前沢区―を焼き払っていることからみて、おそらく出羽―秋田県―ではなく陸奥―岩手県―の胆沢あたりであったのでしょう。陸奥安倍氏が滅び、もはや奥羽無双の勢力となっていた出羽清原氏は陸奥の支配も兼任していたので、鎮守府所在地の旧安倍領内に本拠を移していたのかもしれません。陸奥での争乱故か、「八幡太郎源義家」が急遽「陸奥守」となって清原家の内輪もめに過ぎない事案に介入してくるわけですが、義家から買って出たものか、あるいは真衡の要請を受けたものかはわかりません。少なくとも真衡は義家を歓待したようではあります。

 しかし真衡は迎撃準備中に病で頓死します。あまりに唐突が故に八幡太郎義家による暗殺という説もあります。ただ、清衡と家衡の鎮圧に成功した義家が、彼らの降伏を受け入れ生かしていることを鑑みると、考えにくいものがあります。なにしろ論功行賞よろしく奥六郡―岩手県―を三郡ずつに分け折半で彼らに支配させているのです。同エリアは清衡・家衡兄弟の母にとっての父祖伝来の地であり、とりわけ清衡にとっては願ってもない仕置といえるでしょう。もし義家に奥羽獲得の野心があってそのプロセスとして真衡を暗殺したとするならば、清衡と家衡の降伏など受け入れずにその場で殺していたはずです。彼らの母親は、義家とその父頼義に前夫「藤原経清」を惨殺され、実家の安倍家も滅ぼされているわけで、とりわけ前夫の種とされる清衡は幼少期から母の恨み節を聞かせられていたと想像するに難くありません。義家としては、後顧の憂いをなくすためにも彼らを殺しておくことがセオリーのはずであり、単に凡将だったのか、それとも規格外に優しかったのか、いえ、優しかったとは思えません。後の話となりますが、最後の砦となった金沢柵を攻め落した後の処断では父頼義に勝るとも劣らない残虐さを見せているのです。特に「清原武衡―家衡の叔父―」や「千任(せんとう・ちとう)―家衡の乳母―」を処刑する際の方法や言動からは、むしろ狭量さすら窺わせます。

 義家は交戦のさなか間接直接に再三降伏を申し出ていた武衡を一切無視しておりました。捕縛された武衡は尚も助命嘆願をし、それに同情したのであろう「源義光―新羅三郎:義家の弟―」は「降伏してきた者を許すのも武士の道」である旨を義家に進言したようですが、義家は「趨勢が決してから降伏してきたものはそれにあたらない」として容赦なく処刑しました。降伏の申し出を一切無視し続けておきながらそれはないだろうと思うのですが、武衡と家衡については初めから殺すつもりであったようです。

 また、千任については舌を斬り、縛り上げて木の枝に吊るしたようです。その足下に武衡の首をおき、力尽きた千任に武衡の首を踏ませ、「主人の首を踏んだ不忠者めが」などと嘲って悦に浸っていた旨が『奥州後三年記』に生々しく伝えられております。千任の舌を斬ったわけは、彼女―『奥羽後三年合戦絵詞』の絵では男―が交戦中に浴びせかけた謗りを看過できなかったからのようです。義家は千任に「主人―清原家―を攻める恩知らずめ」と罵倒されたことがよほど悔しかったのでしょう。それは、『前九年の役』の緒戦で安倍氏に惨敗した頼義・義家父子が、臣従の礼に等しい嘆願によって清原氏の加勢を得たことを窺わせるものです―拙記事:藤原秀衡の八木沢牧場――その8:「阿彦と沼河比売」及び「後三年の役」―― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。もしかしたら、私的な感情優先で仕置の判断をしていたのではないでしょうか。

 話を戻しますが、義家の命じた奥六郡の折半支配については家衡側になんらかの不満があったようです。家衡は清衡の非を讒すなどしてその不満を露わにしましたが、義家はそれに耳を貸さず、かえって清衡を引き立てる態度をとり、極めつけに清衡の家に同居するよう家衡に命じたのです。もしかしたら義家ははじめから両者の衝突を目論んでいたのかもしれません。

 案の定、家衡がキレました。家衡は清衡殺害を目論み、館に火を放ったのです。事前に察した清衡は一人草むらに逃れましたが、彼の妻子眷属は全員焼死してしまいました。清衡は事の顛末を義家に訴え、義家はいよいよ家衡討伐に動き出します。家衡の立て籠もる「沼柵―秋田県横手市雄物川町沼館―」を数千騎の陣容で包囲したのです。義家はこの機会を待っていたのかもしれません。

 ところが、家衡はなかなかに強かったようです。戦は長期化し、冬が訪れ、大雪に見舞われた義家は敗退するのです。

 

 

沼柵跡推定地―蔵光院周辺―

 

 

沼館八幡神社

 横手周辺では、敗走する源氏軍の馬の背で発酵した大豆が納豆の起こりと伝わっているらしく、沼館八幡神社は「納豆八幡」とも呼ばれております。同社祭典の宵祭りには縁起物として納豆が参道にて売られるとのことです。

 

もしや納豆・・・?

 

 沼柵の戦況をみて、それまで日和見をきめこんでいた家衡の叔父「清原武衡―武貞の弟―」が俄かに勢いづき、家衡への加勢を決意しました。武衡は沼柵よりも「金沢柵―秋田県横手市―」の方が防御力に優れていることを説き、家衡は陣の移動を決めたのです。

 家衡に加勢した武衡の心境はもしかしたら清原家のマジョリティを代表していたのかもしれません。第三者の義家や安倍色の濃い清衡と比べるならば家衡に同調したくなるのも無理からぬことでしょう。

 陸奥守への敵対は殲滅された安倍氏と同じ道をたどりかねないわけですが、その懸念と向き合いつつも、沼柵にて義家を敗走させた家衡の大番狂わせに奥羽の覇権を握っているのは自分たちに他ならないという誇りを揺さぶられたのかもしれません。

 結局武衡の策ははまり、沼柵攻めの布陣をはるかに上回る数万騎の義家・清衡軍はまたしても家衡軍を攻めあぐねることとなるのです。

 

 

 

 そこで久々に登場するのが吉彦秀武です。彼がどの時点から義家・清衡軍に加担し始めたのはわかりませんが、義家に兵糧攻めを献策しました。すると目論見通り形成は逆転し、ついに金沢柵が落ちました。武衡と千任は前述のように処刑され、家衡の首も届き、「後三年の役」が幕を閉じるのです。

 このように対立構図が二転三転した「後三年の役」ですが、ひとつ言えるのは、吉彦秀武の激高に戦端が開かれ、最後も秀武の戦術を採用した源義家・清原清衡連合軍の勝利で締めくくられていることです。秀武がどこまで意図していたものかはわかりませんが、結果として清衡による奥州藤原政権が平泉の地に花開き、奥羽に百年の平和が訪れるのでした。

金沢柵推定地から望む鳥海山