仙臺藩の藩事業として編纂された地誌『封内名蹟志』・『封内風土記』には、「日高見神社―石巻市桃生町太田―」を建てたのが「安倍厨川二郎貞任」である旨の伝説がみえます。

 

日高見神社

 

 

 

 両地誌ともそれを否定する注釈を加えているわけですが、それに依らずとも、同社が十世紀の『延喜式』「神名帳」に記載されている以上、十一世紀の人である厨川二郎貞任以前から存在していたことは明白です。

 仙臺藩地誌の元祖ともいうべき『奥羽観迹聞老志』には「源義家―八幡太郎―」が建てた旨の伝説も紹介されておりますが、八幡太郎義家は厨川二郎貞任と同時代の人物でありますから、やはり式内社であることを理由に否定の注釈が補されております。

 また、『仙臺叢書(宝文堂)』所載『封内名蹟志』を訳した庄司惣七は「貞任は夷賊反命の者也。何ぞ神を祀るにいたらんや。其古舘に近きを以て。後人の附會せし事疑ふべからず」と所感を挟んでおります。

 「夷賊反命の者~」やら「何ぞ神を~」はともかく、藩誌の編纂者はすべからく日高見神社の鎮座地が安倍舘の傍らであるが故にそういった俗伝が広まったものとみているようです。

 

 

 しかし、そもそも何故そこに安倍舘と伝わる城址があったのか、もし先に触れたとおり日高見國がアベ王国の名称であったとするならば、厨川二郎貞任はともかく、安倍氏による祭祀であった可能性については否定できません。

 そしてそれを意識し始めると、いくつか思い当る情報が記憶の底から浮かんでくるのです。

 以前、牡鹿半島給分浜の十一面観音菩薩について触れたことがあります―拙記事:宮城県石巻市――金華山へゆく:給分浜への寄り道―― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 この観音様について牡鹿町教育委員会による現地の説明板は、鎌倉時代に安倍忠良―貞任の祖父―が京都の名工を招いて造らせた旨の“由緒”を掲げておりました。

 また、石巻市のホームページには奥州藤原氏の守り本尊であった旨の伝説も紹介されております。しかしこれはおそらく奥州藤原氏と奥六郡安倍氏とが混同されたもの、あるいは、衣川(ころもがわ)―奥六郡南限:岩手県奥州市あたり―から50キロ以上も南に下った朝廷支配圏域にあって俘囚首たる安倍氏のそれであるわけがない、という後世のバイアスによって捻じ曲った伝説でしょう。

 いずれ、安倍氏にせよ奥州藤原氏にせよ平安時代に滅びたことになっているので、鎌倉時代の作とあらば彼らによるものではないということになりますが、反対に言えば、何故鎌倉時代の仏像が同時代の源氏なり葛西氏ではなく平安時代に滅亡している「夷賊反命の者」由来のものとして伝わり続けたのか、そもそも何故北上川河口エリアにこうも根強く奥六郡の俘囚主たる安倍氏の名が出てくるのか、東北地方の歴史を考究する上においてもっと重視されるべきであるように思います。

 先の庄司惣七が語るように、安倍氏が「夷賊反命の者」というのは鎌倉時代以来の為政者側の認識なわけであり、前九年の役は夷賊たる安倍氏が衣川(ころもがわ)を南に越えて勢力を拡大しようとしたことで起きた討伐劇であったとされております。

 しかしこれが誤った認識であろうことは、安倍貞任の妹が衣川どころか多賀國府をも南に越えた亘理郡の官人「藤原経清」や伊具郡の豪族「平永衡」に嫁いでいたことからも察せられます。つまり國府が気にも留めないほどそういった婚姻はごくあたりまえのことであったのであり、且つ、安倍氏の勢力が少なくとも奥州南部にまで及んでいたと考えるほかはありません。

 いみじくも『封内風土記』に「土人言鳥海彌三郎産于斯地此名」とあり、亘理郡「鳥の海」の地名が「安倍鳥海彌三郎宗任」の出生地であることに因む旨が地元に伝わっていたこと、また、『秋田家系図』に「安倍白鳥八郎則任」が「苅田郡白鳥之住」とあり、白鳥八郎則任が苅田郡―宮城県南部―に住んでいたと伝わっていたことなどはその傍証と言えるでしょう。

 度々触れておりますが、前九年の役以前の安倍氏は後の奥州藤原氏の如く奥州王家の自負のもと、陸奥守以上の実質権力をもって多賀國府周辺をも管掌し、原・鹽竈神―松島明神?―を奉斎していたものと私は考えております。

 ところで、『封内風土記』に「日高見神社は中世に牡鹿郡の給分浜へ移されたと郷説にあるが、その地で訊ねても今は誰も知らない―郷説曰中古移日高見神社於牡鹿郡給分濱今問其地則無知之者―」とありました。それを受けて同風土記「給分濱」の項を追ってみると、「何時勧請されたものかは不詳」とされてはいるものの、「鳥海彌三郎社」なる神社が記されておりました。

 前述拙記事の投稿時には全く認識していなかったのですが、なにやらそれは十一面観音のさらに奥の山中の「観音館跡」あたりに鎮座していたことを知りました。

 そこであらためて熊鈴を持って現地に行ってみたのですが、館跡を縦断しているのであろう遊歩道の入口には虎ロープが張られておりました。

 

 先の震災や昨今の豪雨被害などで遊歩道の地盤がその先で軟弱になっているのか、あるいはそもそも一般人の立ち入りが禁止されているのかはわかりませんが、参拝はあきらめました。小鹿らしき野生の動物が叢林の中を駆け抜けていくのを見たので、もしかしたら猪や熊などが出没するのかもしれません。

 「観音舘跡」の現地説明板に「築城主は不明」とありましたが、少なくとも鳥海彌三郎を神として祀り得る城主であった可能性は濃厚でしょう。

 いずれ、鳥海彌三郎は、源頼義・義家父子によって筑前大島に配流された安倍宗任のことでしょうから、「夷賊反命の者」と貶められることとなった安倍氏系の一党が素性を秘してこの地に隠棲していたものと私は推察します。

 鑑みるに、当地の十一面観音は本来安倍氏の残り形見の如く日高見神社に安置されていたものが、天正十九(1591)年の葛西氏滅亡の兵火の際に社人か氏子、はたまた別当寺の僧によって神域外に持ち出され、舟で北上川を下り石巻湾を経て牡鹿半島は給分浜に移され、それがさも日高見神社自体の御遷座であるかに伝わったのではないでしょうか。

 気になるのは、観音堂―持福院観音堂―の創建が大同元(806)年と伝わっていることです。十一面観音が鎌倉時代の作であるのに、器の創始がそれより三百年以上も古いというのは違和感があります。現存の十一面観音像が初代ではないということなのかもしれませんし、はたまた十一面観音へのこじつけで坂上田村麻呂伝説の被った時期があったのかもしれません。

 穿った見方をすれば、落人部落と化したのであろう当地の郷民が、意図的に攪乱情報を流した可能性もあるのではないでしょうか。『封内風土記』編纂に係る調査の際、日高見神社遷座云々の郷説について現地の誰も知らなかったというのは、単に部落ぐるみで秘していたものと私はみております。

 なにしろ「夷賊反命の者」に誇りを抱き祭神として大切に祀り続けるような郷民なわけですから、その素性や鬱屈した感情は推して知るべしでしょう。

 もしかしたら、「富主姫大神」なる女神の尊像を「龍宮よりあがりたまう秘仏」とする「金華山―牡鹿半島沖に浮かぶ島―」の伝説―拙記事:宮城県石巻市――金華山へゆく:金華山の女神―― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―とも関連するものなのかもしれませんが、深入りせずに保留しておきます。

 

 

 ところで宮城県神社庁HPには日高見神社の由緒が次のように書き出されております。

 

―引用―

古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。~以下省略~

 

 この冒頭部分はほぼ『伊勢國風土記』―逸文―の焼き直しと言っても良いでしょう。『伊勢國風土記』に語られた伊勢の國は、天御中主(あめのみなかぬし)命の十二世孫たる天日別(あめのひわけ)命が平らげた地でありました。

 心なしか、金華山の女神富主姫大神を形容する「天照太神の分魂」の字義が「天日別尊」を示唆するものであるかにも思えてくるわけですが、それはともかく、同風土記逸文によれば、人皇初代神武天皇が大部日臣(おおとものひおみ)に大和のナガスネヒコを討てと勅し、天日別には伊勢の國を平らげろと勅しております。伊勢の地は既に出雲神の子たる伊勢津彦が領していたようですが、これを天日別が殺そうとしたとき、伊勢津彦はこの國を天孫に献上するとして風を起こし波浪に乗って東の海に去っていったとされております。

 なにやら日高見神社は天日別になぞらえられ得る何者かによって天日別が祀り始められたということになりそうですが、それに先んじて繁衍していた当地の勢力が伊勢津彦になぞらえられ得る存在であるらしきことは気になります。

 正史の四道将軍譚など、中央から遠征して辺境の夷賊を討つ古代の征服譚では、畿内政権の相克に敗北して辺境へ敗走した有力者を英雄に仕立てていると思しき例が少なからず見受けられます。

 例えば以前記事化した越の魔王「阿彦」の伝説を顧みるならば、討たれた凶賊阿彦が四道将軍オオビコの投影であったようにも見受けられ、また直接的に討伐したとされる「大若子命―大幡主命―」の投影であったフシもありました。

 『先代旧事本紀』「國造本紀」には伊勢國造の始祖が天日鷲命とあり、天日別はその後裔と考えられますから、忌部氏の同系氏族ということになるわけですが、『倭姫命世記』は伊勢國造を度會神主遠祖の「大若子命―大幡主命―」であったとしております。

 ただ、この『倭姫命世記』を含む『神道五部書』は、中世に外宮神主の立場としての度會氏が内宮に対抗すべく世に出した「度會神道」の根本経典であったことは留意する必要があるでしょう。

 あらためて思うに、越の阿彦伝説もまた度會氏による『伊勢國風土記』の焼き直しがベースであったのかもしれませんが、日高見神社の由緒にもなんらかの影響が及んでいるのでしょうか。

 いえ、日高見神社の主祭神は『倭姫命世記』にみえる「大若子命」でも『先代旧事本紀』―國造本紀―にみえる「天日鷲命」でもなく、『伊勢國風土記』―逸文―にみえる「天日別命」であるわけですから、度會氏や忌部氏の影響とは限らなさそうです。

 ところで、伊勢津彦の去った先として、『伊勢國風土記』―逸文―には「信濃国」という補記が後世に加筆されております。

 一方『國造本紀』「相武國造―相模國造―」の項には「~伊勢都彦命三世孫苐武彦命定賜國造」とあり、少なくともその裔孫は相模國―神奈川県相模原市―の國造家として繁衍していたようです。 

 当初の相模國には後の駿河國や伊豆國のエリアも含まれていたものと推察され、その中心は三嶋大社の鎮座する伊豆の賀茂郡三島郷―静岡県三島市―にあったと考えられる旨を『三島市誌』が説いております―『三島市誌』:拙記事「伊豆國の三島:その4―相模國府と賀茂三島郷― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)」参照―。

 『古事記』には、ヤマトタケルが相模國造の謀略にはまり野火攻めされるも返り討ちにして攻め滅ぼした旨が語られております。その際、國造勢を皆殺しにして焼き払った故事からその地が「焼津―静岡県焼津市―」という地名になったとあるわけですが、なるほど『三島市誌』の説くとおり後の駿河國に括られる焼津もヤマトタケルの時代には相模國の内であったのでしょう。

 とりあえず私は伊勢津彦を正史上で東海に派遣されたとされる四道将軍「武淳川別(たけぬなわかわけ)命」ではなかろうかとも勘繰っているわけですが、秋田氏や安東氏、藤崎氏などナガスネヒコの裔孫を自称して憚らない安倍厨川二郎貞任系氏族はそのタケヌナカワワケを自らの直祖として系図に併称しております。

 それだけに、日高見神社が伊勢國風土記の焼き直しを由緒に掲げていることには、日高見國の本質がアベ王国であったことの示唆を窺わずにいられないのです。