仙臺藩祖伊達政宗の仙臺城―青葉城―築城に際し、当該地の地主たる天台の古刹「龍泉院」と「長泉寺」の二寺は移転を余儀なくされました。

 二寺の換地先となった「八ツ塚―現:新寺地区―」なる地域には、行者なのか国司なのか、城下町の縄張り以前から八人の何者かを埋めた八つの塚があったようです。

 それらの供養をも兼ねたものか、本拠を仙臺城に遷した伊達家は慶長六(1601)年の開府に同期して、「大林寺」、「長泉寺―現:松音寺―」、「妙心院」、「愚鈍院」、「成覺寺」、「正雲寺」、「大徳寺」、「林松院」の八寺院を各々の塚に被せていったようです。

 開府十年あまりのうちに寺町化した八ツ塚地区ですが、地域を東西に貫く街路は「新寺小路」と呼ばれるようになりました。城下の「元寺小路」に対称してそう呼ばれたようです。

 『残月臺本荒萩』は「寛永年中本寺小路より。寺院を此所へ移さる」と伝えます。

 同じく『仙臺鹿の子』はより具体的に「元寺小路昔寺町なり寛永十四年の頃八ツ塚へ移し侍丁となる故に元寺小路といふ」と伝えております。

 なにやら、寛永年中(1624~1643)の元寺小路エリア再開発により移転を余儀なくされた既存寺院の換地先こそが新寺小路であったと伝えているわけです。

 しかし、藩事業として編纂された『封内風土記』や新寺地区の各寺院の縁起を確認してみても、元寺小路から遷ってきた旨を伝える寺は見当たりません。しいてあげれば、車地蔵付近―元寺小路と鉄砲町の境あたり―から遷ってきたとされる「東秀院」については元寺小路からの移転と言えなくもなさそうですが、その一例のみで両寺町全体の地名に影響が及んだとは考えにくいものがあります。

 なにしろ八ツ塚地区は、寛永年中(1624~1643)どころか、慶長六(1601)年の仙臺城築城に同期して寺町の体を成していったわけですから、元寺小路の再開発とは無関係に成立していった街区とみるべきでしょう。

 それでも元寺小路に対してことさらに新寺小路と対称されたのは、後者が前者の成立よりも新しかったからに他ならず、さすれば、元寺小路は伊達家による仙臺開府以前からの寺町であったものと考える他はありません。開府以前は原野であったと伝わる仙臺城下の底地でありますが、政宗の縄張り以前にも「寺小路」と俗称される程度には市街地の原型が存在していたものと私はみております。おそらくは後に四ツ谷用水第一支流として機能することとなる段丘崖―上町段丘と中町段丘の境―に沿った湧水群が荒駒の民たちの生活を潤していたのでしょう。

 四年前―平成二十八(2016)年―の今頃、そのあたりを意識しながら私は新寺周辺を散策していたわけですが、つい最近、善導寺の北側に分譲マンションが建ち、その区割りの西側一角だけが緑地として不自然に残っていることに気付きました。

 

Googleマップ航空写真より

 

 真偽のほどはわかりませんが、その一角だけは地主の善導寺が手放さなかったとも耳にしました。

 なんとなく興味の湧いてきた私は、その一角は寺として大切な場所であるに違いない、などと想像しながら、『昭和3年仙臺市全図(有限会社イーピー 風の時編集部)』を開いてみると、善導寺の境内地らしき所に「網宗公母堂墓」という文字を見つけました。

 

 

 「卍(まんじ)」の記号はおそらく本堂の位置に書かれているのでしょうが、その北側やや西寄りにその墓碑の位置を示しているのであろう記念碑の地図記号もあり、私は、おそらくそれがマンション西側の緑地部分にあたるのではないかと考えました。

 「網宗」とは言うまでもなく仙臺藩主三代「伊達網宗」のことであり、H.O.氏にその話をすると、網宗公の生母は父忠宗公の側室でありながらその実は公家の出であり、生母の姉―網宗の伯母―は天皇に嫁ぎ、生まれた子が次代の天皇になっている旨を語り始めました。

 氏曰く、網宗と天皇が従兄弟の関係になることは徳川幕府としてあまり喜ばしいものではなく、酒好きと吉原通いを問題視された網宗が逼塞させられた真の原因はその血筋にあったのではないか、という陰謀説があるとのこと。

 なるほど、たしかに少し気になることはありました。

 二代藩主忠宗が、正室「振姫―孝勝院―」に「光宗」なる息子がいたにも関わらず、何故か、側室貝姫の産んだ子「巳之助丸―網宗―」を振姫の養子としていたからです。

 結果的に光宗はその三年後に病没し、繰り上がった養子網宗が三代藩主となるわけですが、まるでそれを予見していたかのようでもあります。

 単に、貝姫が夭折し、幼くして母なし子となった巳之助丸を振姫が哀れんだため養子にとったとも言われているようですが、忠宗に何か思うところがあったようにも窺われ、引っかかるのです。

 いずれ、H.O.氏の語った陰謀説に興味を覚えた私は、『仙台市史』をはじめ手元の資料を引っ張り出して読み返してみたり、ウェブ上で検索してみたりしました。

 『仙台市史』によれば、網宗の問題行動については『池田光正日記』や『田村家記録』、『万治日録』などによって伊達家一門の中から懸念する声があがっていたことがわかり、必ずしも幕府による陰謀とは言えなさそうでもあります。

 また、ウェブ百科事典のWikipediaには、網宗の生母「貝姫―得生院―」の享年について、「善導寺の記録には19歳となっているが、父の櫛笥隆致は慶長18年(1613年)に亡くなっている。そのころ貝姫が生誕したとすれば、寛永19年(1642年)には30歳となり、30歳以上で歿したことになる。いずれかの記録に誤りがある」とも書き込まれてあり、辻褄が合わず、公家の出であること自体に詐称の疑念も生じてきます。

 しかし、仙台市博物館にある「伊達文書」の中には、後西天皇やその母―貝姫の姉―逢春門院からの手紙も現存している―小林清治さん『伊達騒動と原田甲斐(吉川弘文館)』・木村孝文さん『若林の散歩手帖(宝文堂)』―ようなので、貝姫―得生院―がその血筋であったことには間違いなさそうです。

 貝姫は公家の落胤であったが故に身を秘して忠宗の側室になり、その素性は、彼女が亡くなった後に発覚したものとされております。

 特に政略に長けた藩祖政宗亡き後、伊達家は幕府からの過剰な警戒心に細心の注意をはらっていく必要があったはずで、天皇家との血縁関係など、隠しこそすれ、詐称して益することなど何一つなかったものと思われます。幕府による陰謀ではないにせよ、幕府に対する仙臺藩側の忖度が働いていた可能性は否定できないものと私はみております。

 網宗の逼塞について、幕府老中「酒井忠清」と伊達政宗の子「伊達宗勝」の共謀による陰謀説が流布した最たる根拠は『茂庭家記録』にあるようですが、『仙台市史』は、これが同記録の編纂された天保五(1834)年段階の伝聞記事であることにいぶかしさを露わにしております。すなわち、万治三(1660)年の網宗逼塞から170年もあとのうわさ話を陰謀の根拠とすることには無理がある、と述べているのです。

 たしかに根拠とするには心もとないとも思いますが、170年経ているからこそ同時代には憚らざるを得なかった不穏な噂話を取り上げ得た可能性も大いにあるわけで、無碍には出来ないと私は思います。

 貝姫は寛永十六(1639)年の夏に仙台に下り二代藩主忠宗の側室となり、翌十七(1640)年八月に仙臺城で網宗―巳之助丸―を産み、その後わずか一年余り、寛永十九(1642)年二月に十九歳で病没してしまったわけですが、網宗は、父忠宗が没した万治元(1658)年、すなわち自分が三代藩主となったその年、いみじくも生母の享年と同じ年齢に並んだ年にそれを意識したものか、母のための壮麗な廟を善導寺に造営したようです。残念ながらそれは宝永五(1708)年に城下を襲った大火によって焼失してしまったようですが、芸術的才能に秀でた網宗の寄進とあらば、さぞや壮麗であったことでしょう。

 

 いろいろ思考を巡らせているうちに、貝姫に手を合わせたくなってきたので、善導寺を訪れてみました。

 道路沿い南西角に面した説明板には得生院―貝姫―の墓や位牌の存在についても説明されておりましたが、立派な楼門形式の山門をくぐってはみたものの、どこにそれがあるのか、どれがそれであるか、探すのにやや難儀しました。

 

 

 

 

 

 

 本堂の西脇に「刀工本郷国包各代の墓所」があり、それについての丁寧な説明板はあるのですが、得生院の墓についての個別の説明板は見当たりません。

 しかし、刀匠本郷家十三代の墓所の南隣りにやや独立して厳かな墓があり、墓石をつぶさに眺めてみると、辛うじて「得生院殿深譽妙高大禅定法尼」と銘の刻まれていることが読み取れ、貝姫のそれであることを確信出来ました。

 

 

 

 

 先に触れたマンション西隣の緑地には取り立てて何があるわけでもありませんでしたが、本郷十三代墓所の説明の中に、「この墓所はもとはこの寺の本堂の裏にあったが、区画整理事業にともない現在の場所に移された」とありましたので、昭和三十五年に事業認可された新寺小路の区画整理によって境内の各々の位置関係に変化があったことはわかりました。たしかに各年代の地図を眺めてみるに、善導寺北側は戦後しばらくの間「孝勝寺」と接していたことを確認出来ております。手持ちの地図では、昭和三十九年に初めて北側の市道が開通しており、もしかしたら貝姫の墓もそれによって現在地に移されたものなのかもしれません。マンション西側の緑地は網宗による壮麗な廟の跡であったりするのでしょうか・・・。


 気がつけば、得生院の墓前で蝉の声を聞きながら、静かに手を合わせている自分がいたのでした。

 

 

 

 善導寺の北隣にある「孝勝寺」には近年五重塔が建立されました。

 網宗のもう一人の母振姫の菩提が弔われたこの寺は、かつて「大仙寺」と呼ばれた日蓮宗本山でありましたが、藩祖政宗が戦勝を祈願し全勝を収めたので「全勝寺」と改めさせ、その後法華経の信心深い振姫が亡くなったとき網宗が法号を「孝勝院」とおくり、その法号にちなみ「孝勝寺」と改めたのだそうです。