谷川健一さん編『日本の神々 神社と聖地12 東北・北海道(白水社)』の「早池峰(はやちね)神社―岩手県花巻市大迫町内川目―」の項は、次のようなくだりから始まっておりました。

 

「北上山地の主峰早池峰山(一九一四メートル)を神体とし、山頂に奥宮を祀る。祭神はもと姫大神(ひめおおかみ)とされていたが、いつのころからか瀬織津姫(せおりつひめ)を主神とするようになった」

 

 

 

 

 

 

 

 早池峰山は、活火山である西の岩手山が男性神格を宿す“男体山”として信仰されてきたのと対称して、女性神格を宿す東の“女体山”として信仰されてきたものと推察されます。

 したがって「姫大神」なる神名についても、単に神格化した女体山を指すきわめて抽象的な呼称と捉えておくのが穏当かと思われます。

 しかし、「祭神はもと姫大神(ひめおおかみ)とされていたが、いつのころからか瀬織津姫(せおりつひめ)を主神とするようになった」などとあらためて書かれると、妙に意味を勘繰り始めてしまいます。

 おそらく同稿執筆者の小形信夫さんは、単に祭神表記の変遷に触れたにすぎず、ことさらに示唆めかしたつもりなどもなかったことでしょうが、私の頭の中で混沌としていた情報がいたずらに刺激されて錯綜を始めてしまうのです。

 何故なら、“ヒメオオカミ”の韻は、全国4万4千もの八幡宮の総本宮たる宇佐神宮―大分県―の謎めく二之御殿の祭神「比売大神(ひめおおかみ)」を連想させ得るものでもあるからです。

 早池峰神社の祭神が「瀬織津姫神」であることにはなんの疑いもありませんが、ややもすれば、古来宇佐の「比売大神」が祀られていたところにいつのころからか瀬織津姫神が被ってきたかのような印象も禁じ得ません。

 そもそも宇佐の比売大神を瀬織津姫神だとする論もあるようですが、私はそのようには見ません。何故なら宇佐比売大神と瀬織津姫神の各々の神裔の毛色が異なっているように思えているからです。

 早池峰山の女神に瀬織津姫神を投影したのは、おそらく陸奥安倍一族であろうと思われるわけですが、仮にそれ以前に宇佐比売大神を投影し得た勢力の可能性を探るとするならば、如何なる氏族が考えられるでしょうか。

 とりあえず宇佐氏と辛島氏、加えて大宰府の官人として関わった大神氏が宇佐の奉斎氏族と言えそうですが、九州色の強い宇佐氏や辛島氏に比べるならば、しいてあげれば三輪信仰と関わりの深い大神氏でしょうか。

 八幡神という観点からすれば一旦は八幡太郎義家を輩出した源氏も頭に浮かびましたが、その義家に滅ぼされたのが陸奥安倍氏であるわけで、安倍氏以前に源氏の勢力が早池峰山一帯を席捲していたとは思えません。

 さすれば、大神氏あたりがもっとも疑わしく思えてくるところですが、ここで私はあえて上毛野氏を疑ってみるのです。

 といいますのは、陸中一宮「駒形神社―奥州市水沢区―」が、自らの祭祀を上毛野胆沢公なる人物によるそれが始原であったとしており、胆沢郡周辺において同氏の土着した時期があったことを窺わせているからです。

 

 

 陸中一宮駒形神社

 

 

 なにしろ、『出雲と蘇我王国(大元出版)』の斎木雲州さんの語るところが事実ならば、上毛野氏は宇佐八幡との間に秘密裏な関係性があったものと考えられます。

 その関係性については後に触れるとして、明治三十六(1903)年、現在地に遷されたという駒形神社の由緒には、雄略天皇の御代(456年頃)、第十代崇神天皇の末裔である上毛野胆沢公が駒ケ岳山頂(現在は大日岳)焼石連峰の駒ケ岳山頂に祀ったことから始まった旨が伝えられております。

 陸奥安倍氏が討伐された「前九年の役」の勃発は永承六(1051)年とされているわけで、すなわち十一世紀の中ごろ既に陸奥安倍氏は隆盛を極めていたわけです。いつの頃から奥六郡を実効支配していたのかは不明ですが、仮に上毛野氏が雄略天皇時代の五世紀に繁衍していたというならば、上毛野氏が先であったと考えるのが自然でしょう。

 ただ、雄略天皇の御代における「上毛野胆沢公」なる人物の存在は管見にありません。

 そもそも“胆沢公”のような賜姓があったのだすれば、それは胆沢郡に鎮守府が置かれて以降、遡っても多賀城に國府が置かれて蝦夷征討政策が旺盛になってきた八世紀以降のことだと思うのです。

 しいていえば、『続日本紀』の承和八(841)年癸酉(三月二日)条に「“上毛野胆沢公”毛人(かみつのぬいさわのきみえみし)」なる人物らが国司の推挙によって外従五位下を借授した云々の記事が見えますので、もしかしたらその頃の話なのか、あるいは本当に雄略天皇の御代に駒ヶ岳山頂に同社を祀った上毛野一族の何某かの人物がいて、底地が胆沢郡であるがために後世の上毛野胆沢公と混乱したものか、それはわかりません。

 早池峰神社の由緒によれば、大迫地区の田中兵部なり遠野地区の始閣籐蔵なりが早池峰山に姫大神を祀り始めたのは大同二(807)年あるいは大同元(806)年とのことですから、駒形神社の創始が仮にその上毛野胆沢公毛人によるものであるならば、それは早池峰神社の創始よりも後の話ということになります。

 ただ駒形神社の由緒によれば、坂上田村麻呂征夷大将軍による蝦夷のアテルイとの無血の戦ののち、蝦夷の守護神でもあった駒形神社の神階昇格を幾度と朝廷に申し出たのだとしており、いみじくもそれは早池峰神社の創始の時期にあたります。

 ちなみに蝦夷の守護神でもあったという駒形神社の祭神「駒形大神」は、天照大神・天常立(あめのとこたち)尊・國狭槌(くにのさづち)尊・吾勝(あかつ)尊・置瀬(おきせ)尊・彦火(ひこほの)尊を指すようです―境内案内板―。

 

 

 

 いずれ、アテルイとの和平交渉中、将軍田村麻呂によって多賀城の鎮守府機能があえてアテルイの本拠地胆沢郡に遷されて築かれた施設こそが胆沢城であり、上毛野氏が胆沢郡周辺に関わり始めたのもその頃と考えるのが穏当でしょう。

 何故なら、それ以前の同地はいわゆる荒蝦夷の巣窟であり、彼らと幾度となく死闘を繰り広げていたことが正史上にも残る征討軍の代名詞のような上毛野氏が入り込める余地などはなかったものと思うからです。

 ましてや、それより更に北の早池峰神社における姫大神が上毛野氏によるものと考えるのは、案の定ではありますが、やはり無理があるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 にもかかわらず、何故私がそのような思考に迷走したのか・・・。

 最大の原因は、上毛野氏と宇佐比売神との秘密裏な関係の情報にあります。

 結論からいえば、宇佐神宮の一之御殿の祭神、いわゆる八幡大神たる人皇15代応神天皇―誉田天皇―が、実は「上毛野竹葉瀬(たかはせ)」であった旨の情報が前述『出雲と蘇我王国』にあるのです。

 「竹葉瀬」なる人物については、 『日本書紀』に、人皇16代仁徳天皇五十三年、上毛野君の先祖たる竹葉瀬が朝貢を怠った新羅に対してその真意を問いただすために二度に渡り派遣されたとする記事があり、二度目には精兵をともなった弟の田道と共に新羅軍を壊滅させたとあります。

 ちなみに弟の田道については、その二年後の仁徳天皇五十五年、蝦夷征討の際に「伊峙水門(いしのみなと)―宮城県石巻市あるいは千葉県いすみ市か―」にて返り討ちにあって死没したことが記されております。

 いずれ、古来上毛野君が異賊征討の一族であったことを窺えるわけですが、何故『紀』には新羅に遣わせられたのが竹葉瀬であったと記されたのでしょうか。なにしろ『出雲と蘇我王国』を信じるならば、彼は応神天皇その人であるはずなのです。正史上、応神天皇は仁徳天皇の父であるはずですが、そのあたりは複雑なので割愛させていただくとして、同書の語る宇佐宮と竹葉瀬のつながりについて簡略に触れておこうと思います。

 正史上の応神天皇の母親であるオキナガタラシ姫―神功皇后―は、新羅の王子、厳密には辰韓王の長男アメノヒボコの血を受けていた母から生まれていたようです。

 辰韓王家が断絶し、家来があらたに新羅なる国を起こしたとき、オキナガタラシ姫は新羅領地と年貢の相続権が自分にあることを主張し、日向の武内ソツ彦王―“いわゆる”武内宿禰―の協力を得て新羅出兵に至ったようです。

 新羅はオキナガ姫軍の大船団を目の当たりにして戦わずにして降伏したようで、オキナガタラシ姫はそのまま海上をまわり百済・高句麗をも降伏させ、いわゆる三韓征伐の成功と相成ったようです。

 なるほど、神功皇后以降の古墳が著しく巨大なのことにも頷けます。それを可能にするだけの莫大な財が三韓からもたらされていたのでしょう。

 ところが、三韓征伐後に生まれた彼女の子が、七歳にして夭折してしまい、それが新羅に知れると年貢が滞ってしまう懸念があったため、彼女はその事実を隠し、付き合いのあった上毛野家の竹葉瀬が同じ七歳であることを知り、秘密裏に呼び寄せ息長家の養子にしたのだそうです。

 向家―出雲王家―に伝わる情報に基づいていると思しき同書によれば、このあたりは出石神社の元社家・神床家―ヒボコの裔―の伝承とも一致しているようです。

 なにしろその養子縁組を知った宇佐家は喜び、それまで宇佐豊玉姫―比売大神―を祀っていた宇佐宮の本殿を二之御殿とし、一之御殿に誉田天皇―応神天皇―、三之御殿にオキナガタラシ姫―神功皇后―を祀る現在の形が誕生したようです。

 宇佐家が何故喜んだのかというと、毛野氏の祖「豊来入彦(とよきいりひこ)」が実は宇佐豊玉姫の腹から生まれた人物であったらしいからです。

 毛野氏の祖「豊来入彦」が人皇10代「祟神天皇」の子であることは『紀』にも記されているところですが、その母については、祟神の妃たる紀伊国の荒河戸畔(あらかはとべ)の女「遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしひめ)」、あるいは、大海宿禰の女「八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)」などと曖昧にされております。「宇佐豊玉姫」を窺わせる情報などは一切みられません。一連の養子縁組が国際的にトップシークレットであったわけですから、正史においてそれに繋がり得る情報が書き換えられるのは当然でしょう。

 いずれ、それが事実であったならば、上毛野氏には宇佐比売大神を祀る必然性があり、しかもそれは秘密裏でなければならなかったことでしょう。

 では、やはり早池峰山の姫大神は上毛野氏による宇佐のそれであったのか・・・。

 いや、それは違うであろう、というのが私の結論です。

 勝手に自分で提起しておきながら、勝手に自分で火消ししてしまうわけですが、やはりそれはなかったことであろう、と思い直さざるを得ないのです。

 何故なら、いみじくも前述『出雲と蘇我王国』をはじめ、大元出版の各書籍の語るところを信じるならば、陸奥出羽の地は、登美家を母系として出雲王家と関わりの深い磯城王家系勢力―いわゆる闕史八代系勢力―の、特に大彦―いわゆる長髄彦―系譜が畿内を追われて流転の後に辿りつき開拓した安倍王国であったはずだからです。それは前九年の役よりもはるかに古い時代からそうであったことを意味します。

 そして、おそらくこの勢力は瀬織津姫神の奉斎氏族であり、それ故に早池峰山の女神も瀬織津姫神とされたのでしょう。

 なにしろ彼らを東北の地にまで追い詰めた勢力こそが祟神天皇裔孫の毛野氏ら豊国―宇佐―勢力であり、関東まで追撃していた彼らは、逆に後追いの出雲軍の反撃によって北関東―群馬県・栃木県―に追いやられてしまったようです。

 結果的に群馬・栃木以外の関東の國造のほとんどを出雲勢力が占めることとなり、毛野勢力は南北の敵から挟まれる形になっていたと言えます。

 上毛野氏が安倍王国の胆沢を領した時期があったとしたならば、やはり坂上田村麻呂によって胆沢の地に鎮守府が置かれるようになってからではないでしょうか。