奥州藤原氏の滅亡後、いつの頃からか駿馬の産地「糠部(ぬかのぶ)」を領することとなっていたのは南部氏でありました。
 南部氏は、八幡太郎「源義家」の弟である甲斐源氏「源義光」の流れをくむ武田氏の氏族とされているわけですが、奥州南部氏の始祖とされている「南部光行」は、父の「加賀美二郎遠光」から甲斐國巨摩郡南部郷―現:山梨県南巨摩郡南部町―を与えられたことを機に南部氏を称したようです。
 その後、奥州征伐の論功行賞により源頼朝から糠部の地を与えられたと伝えられ、すなわち、ここにいわゆる「三戸南部氏―後の盛岡藩南部氏―」が発祥したのだというのです。
 しかし、『岩手県史』を信ずるならば、その情報を補強する史料は奥州南部氏の家伝以外に存在していないようです。 
 鎌倉幕府による当地の支配が文献上にあらわれる最初は、寛元四(1246)年のそれ―『鎌倉遺文』所収6768号「小田部庄右衛門氏所蔵文書」―、すなわち「陸奥国糠部五戸」の正地頭たる「北条時頼―鎌倉五代執権―」が左衛門尉「平盛時―三浦盛時―」に地頭代職を給与した旨を記したそれとされております。
 なにやら、少なくとも奥州征伐から半世紀後の糠部を領していたのは執権北条氏であり、その補任を託されたのは三浦氏であって、甲斐源氏系の南部氏ではなかったということになりそうです。
 七海雅人さんは、『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で大石直正さんの2007年の論稿をひいて、「幕府は平泉藤原氏の権限を取り込んで、朝廷に対する貢馬送信の役割を継承していた。国家的な軍事・警察権を保持し、東国を固有基盤とする幕府は、この貢納儀礼を通じて、国制上の位置づけを朝廷との間に確認していたのである」としておりますが、さすれば、糠部は執権北条氏の支配下にあって然るべきといえそうです。やがてそれは、「元寇」という未曽有の国難を経て、いみじくも七海さんが論ずるところの「安達泰盛の東北政策―『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』―」につながっていくのでしょう。※拙記事:「蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―」参照。

 司馬遼太郎さんが面白いことを語っております。

―引用:『街道をゆく(朝日新聞)』より―
「そういう土地がある」
 という情報を、鎌倉期のいつのころか、甲斐国(山梨県)巨摩郡南部村に住んでいた人物が耳にして大海に押し出し、いまの八戸あたりの海岸に上陸して冬の過ぎるのを待ち、そのあとじりじりとこの広大な土地を切り従えて行ったのがその後の南部の殿様の先祖だというのである。
 私は、時代の推定が困難ながら多分に真実性をもったこの南部伝説が好きで、日本の歴史のなかで冒険的征服ということが存在した唯一の例ではないかとおもわれる。
 豊臣期に大名として公認?される南部家は、徳川期にもっともらしい草創期をこしらえたが、それによると源頼朝から封ぜられたと言い、決して先祖は馬賊の頭目のようなものではないという印象をあたえるようにしつらえてある。
 が、これはあやしい。むしろ、
「承久元年(一二一九)十二月、甲州を発し・・・」
 という伝承のほうが、真実性がありはしまいか。大船に乗り、その人数は七十五人だったとも言い、ただの八騎だったともいうが、おそらく八騎であろう。

 司馬さんは甲斐源氏の流れを自称する南部の家伝を信じていないようです。
 司馬さんに限らず、研究諸氏の間にも甲斐源氏系譜は北奥支配の正当性を主張せんが為に創作された家伝とみる論調を少なからず見かけます。
 ただ「馬賊の頭目」という意味では、そもそも甲斐源氏自体もその属性を有する一党であったものと考えております。
 おそらく、元弘元(1331)年に勃発した「元弘の乱」の際、南朝勢力の陸奥守に就いた「北畠顕家」に従い糠部入りした「波木井南部氏」の「南部師行」のイメージ、すなわち八戸に「根城」を築き、糠部一帯を支配するようになった彼のイメージを、「源頼朝」ないし「北条時政」と「南部氏初代光行」の関係に置き換えたものが、今に伝わる南部氏の家伝なのではないでしょうか。もしかしたら過去の南朝武士の色への憚りも入り混じってのことなのかもしれません。
 いずれ、家伝の真偽がどうあれ、少なくとも南部氏は甲斐源氏の権威を背景に糠部を統治していったのでしょう。
 おそらく南北朝の頃に初めて糠部入りしたのであろう南部氏は、あたかも幕末の錦の御旗の如く源氏の白幡を振りかざしながら堂々と馬淵川(まべちがわ)の河口に入り、八戸に根城を築いたのではないでしょうか。

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新井田川河口―旧馬淵川河口―と八戸大橋

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かつては馬淵川と新井田川が合流して太平洋に注いでおりましたが、長年水害に悩まされ続けたため、近代になって河口を分けられたのだそうです。現在、新井田川を挟んで住吉神を祀る御前神社と祓戸神を祀る川口神社が河口を鎮めております。

 ともあれ、「糠部駿馬」の初見が奥州征伐の戦後処理中の文治五(1189)年九月十七日―『東鑑』―にまで遡るとあらば、奥州藤原氏の時代には既にそれがブランド化されていたことになるわけですが、そのような特殊なエリアに溶け込みすんなり統治できたからには、やはり「馬賊の頭目」的要素があったのでしょうし、むしろそれであればこそ、南部氏は中・近世を通じて馬産業を背景にした北奥における支配者の地位を維持し得たのではないでしょうか。
 このことは、仙臺藩の伊達政宗や久保田藩―秋田藩―の佐竹善宣が真田幸村の遺児を匿ったことと同根の事情があったものと私はみております。
 すなわち、仙臺藩や久保田藩―秋田藩―は、各々領内に栗原郡なり由利郡といった、古来馬産に精通した信濃系移民の土着する地域を抱えていたわけですが、おそらくは軍事的に重要なその特殊な馬産集団の手綱を握る上で、古来信濃牧監一族の裔とも言われる真田家の子孫を保護することは極めて有効であったのではなかろうか、というのが私の仮説でありました。
 こと信濃系の馬産地域においては、すべからくそのような特別な事情が推察されるものとみるのです。※拙記事:「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照。