寛保三(1743)年に書かれた『日本最初奥州宮城郡荒野ノ里馬攊神由来記』に、次のような記述があります。

~陸奥ハ日本六拾餘州乃内馬生(産)第一にして中でも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一なるを以て同郡多賀城の任官時の按察使兼陸奥守國分寺の西門荒野乃里に於て其駒を相し選みて年毎に時の帝に奉りし事、我朝にて牧場の駒を選み帝に奉り始元なり~

 すなわち、日本全国の内でも最高品質の駒は古来宮城野原のそれであり、牧場の駒から選びぬかれて時の天皇に奉納されるシステムのパイオニアでもある、といったところでしょうか。
 その約30年後の明和九(1772)年―安永元年―に完成した『封内風土記』には、仙台藩領内の名産物を列挙する「土産」の項において、「所在出。駿馬尤多。栗原郡所出爲佳。」とあり、栗原郡産の駿馬の優れていることが特筆されております。
 最大公約数的に鑑みるならば、これは、遠ノ朝廷たる陸奥國府多賀城なり、駒市場の震源地的な側面をもつ陸奥國分寺にほど近い宮城野原が、古来、栗原産から選びぬかれた駒の、いわば生簀(いけす)のような場所になっていたことを意味しているかに思えます。
 一方で、中世史に造詣の深い識者に奥州馬を語らせたならば、おそらく圧倒的に「糠部(ぬかのぶ)の駿馬」という語彙が飛び交うことでしょう。したがって、宮城野原産なり栗原産なりを“最高品質の奥州駒”などと力説したところで、むしろ違和感を増幅させてしまうだけかもしれません。
 もちろん、馬櫪神御由来記にせよ封内風土記にせよ、いずれも仙臺領内発のものなので、多少なり手前味噌の要素はあることでしょう。
 とはいえ、栗原にはかの「善光寺」の縁起において「日本三善光寺―信州・甲州・奥州―」として並び称された「奥善光寺―奥州善光寺―」がありました。
 奥州藤原氏の滅亡とともに衰退したものか、明治の廃仏毀釈で廃滅せられたものか、今は簡素な堂宇と地名にその名残を残すのみなのですが、吉田東吾の『大日本地名辞書』によれば、本田善光の子善佐が秦川勝と共に信濃水内郡の阿弥陀如来の尊容を写させて、それを、推古十一年に聖徳太子の命によって栗原に安置した、という旨の縁起があったようです。※拙記事:「栗原誕生――エピソード2:善光寺縁起――」参照。
 なにやら、勅旨牧を有した信濃と当地との密接な関係を窺わせます。
 また、藤原頼長(1120~1156)の日記である『台記』において、久安四(1148)年と仁平三(1153)年に陸奥高鞍―栗原郡―の地から馬と鞍を献じた旨の記事があることも無視できません。
 では、奥州馬産地の代名詞ともいえる糠部―青森県八戸市周辺―の実態はどうなのでしょうか。
 「糠部郡」なり「糠部駿馬」の初見は、各々『東鑑』の文治五(1189)年九月三日条、および同十七日条となっております。つまり、文献上栗原馬の献上記事が先に現れているとは言えます。
 ただ、それは単に糠部なるエリアが律令なり中央政情に組み込まれる時期の遅かったが故とみるべきで、もしかしたら古来知る人ぞ知る蝦夷の隠し馬柵の聖地であったものが、俘囚長を自称する奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府の支配によって、初めて表に出てきただけであるのかもしれません。
 例えば高橋富雄さんは、『平泉の世紀(講談社)』において、『扶桑略記』にみえる『続日本紀』養老二(718)年八月十四日条の「出羽並びに渡嶋のエゾ八十七人が来て、馬一千匹を貢上した~」という記事を重視しております。
 1000頭からの大量の馬であることから、これを珍品の「朝貢」とは一線を画す実用・実益のための政府用軍馬・乗馬としての取引であったとみて、馬飼い産業の“エゾ”が、米作り農業のヤマトの律令国家と「貿易」をする経済の民であったと主張するのです。
 同時に、それはその頃既に糠部においても馬の売り手側としての同様の動きがあったことを示唆する記事ともみているようです。
 高橋さんは、『東鑑』文治五(1189)年九月条で源頼朝が奥州から連れ帰った奥州駒30疋のうち、おそらくその中から選ばれて京都に特別に貢上されたであろう20疋についてはもちろんのこと、他のすべても「糠部駿馬」とみており、加えて、鎌倉と言わず京都と言わず、市場ではその中の特定産地、すなわち糠部地方の中でも「三戸立ち」「七戸立ち」などといった「戸立ち」を確認して名馬の極めつけ―ブランド化―をしていたところに、「馬飼いの国糠部郡村づくりの確かさが裏書きされるのである」としております。
 ついぞ仙臺領内発の史料が絶賛する栗原産の名馬との優劣が気になってくるところではありますが、そもそもその“馬飼い産業のエゾ”なる民俗自体が、私論上の栗原の信濃系馬産民と極めて近い人たちであったのではなかろうか、と勘繰ってみる価値もありそうです。
 つまり、奥州藤原二代基衡あたりが、摂関家の荘園と化してしまった栗原の人馬の一部を極秘裏に奥地の糠部に分け、糠部地域一帯を秘密戦略特区化して奥州十七万騎の担保にしたということはなかったか、という仮説を立ててみたいのです。
 先の『台記』における久安四(1148)年と仁平三(1153)年の陸奥高鞍―栗原―に関する記事は、同地を含む「奥羽五箇荘―高鞍(宮城県栗原地方)・本吉(同本吉地方)・大曾禰(山形県村山地方)・屋代(同置賜地方)・遊佐(同庄内地方)―」の年貢の増徴に関して、惡左府藤原頼長と奥州藤原二代基衡が熾烈な駆け引きを繰り広げた顛末を書き残したものでありました。
 奥羽五箇荘の権益は、頼長が父の関白藤原忠実から継承したものでありますが、これらの庄に関わる年貢の増徴に関して、最終的に妥協案を受け入れたとはいえ、奥州藤原二代基衡は頑なに拒否し続けていたのです。
 ところで、ここでの荘園年貢において、貢馬が共通項目であったことには注意を要します。
 信濃の望月牧に限られるようになっていた勅旨牧からの貢馬なり、「駒牽(こまひき)」なる朝廷行事、その観閲のための天皇の出御もなくなってきていた平安末期というその時代にあって、陸奥國からの貢馬がその伝統を継ぐ国家的行事となっていたようだからです―高橋富雄さん『奥州藤原四代(吉川弘文館)』参照―。
 高橋さんは、貢馬が律令国家への服属のあかしであるという古い建前が形式と化していた中で、これを国司層と摂関家との私的な保護関係をも儀礼的に取り持つ形式になってきたらしい、とみて、無冠の野人の貢進の例が全くないことから、「(奥州)藤原氏の、事実における奥羽支配者としての地位はほぼ彼(二代基衡)の時代に固まった」、としているわけです。
 それはそれとして、このことは陸奥の馬産文化が信濃の特別なそれを継承するものであったことの証左に他ならない、と私は考えております。
 そこで話を戻し、糠部の駿馬文化が栗原の駿馬文化の血統を継いだ可能性について考えて見たいと思います。
 たびたび述べているとおり、私論上、栗原のそれは天武天皇の政策に基づいた信濃のそれ、すなわち亡国の高句麗系渡来人の騎馬文化を受け継いできたものということになります。
 したがって、ひとまず高橋富雄さんの見解とは相容れなくなるということになってきます。
 何故なら、高橋さんは糠部の駿馬たるエゾ馬を古来日本の在来種とみているからです。
 そのことと関係があるのか、日本三駒のひとつとされている「八幡“馬”(やわたうま)」が、他の「木ノ下“駒”」、「三春“駒”」と異なり、「駒」ではなく「馬」と称して憚らない事実があります。
 一応は、八幡馬の本来のかたちが台車の上に大小の親子馬が乗っているものであったがため「子馬(こま)」という表現はあたらない、という理屈がつけられているようですが、もしかしたら暗に「高麗(こま)」と区別したい意図でもあったのかもしれない、という勘繰りも芽生えます。
 このあたり、引き続き考えていきたいと思います。


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八幡馬―於:櫛引八幡宮―
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株式会社八幡馬の八幡馬
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ようやく我が家に日本三駒が揃いました。画像を貼っていて気づきましたが、未確認ながら、櫛引八幡宮の配置といい、株式会社八幡馬の梱包といい、もしかしたら、八幡馬は赤い子馬(?)を向かって右に置くべきものであるのかもしれません・・・。