「豊臣秀吉が徳川家康に江戸の地を勧めたのは、必ずしも家康の力を削ぐためだけではなく、家康の不満を封じるための恩賞として大坂―大阪―の地勢に似た江戸を与えたのだ」

 どなたがおっしゃっていたのか、本で読んだのか、あるいはテレビで視たのか、はたまたラジオで聴いたのか、そのあたりは忘れました。
 しかし、いかにも秀吉らしい人たらしの方便だな、と思ったことはよく覚えております。
 江戸が大坂を超える世界最大級の大都市に発展したことは否定しようのない事実ではありますが、だとしても、当時の江戸は京から離れた辺境の荒地であり、結果的に天下人になった家康による専制的な天下普請の強制があってこそはじめて大都市になり得ただけであるから、本来家康にとっては微塵も喜ばしい論功行賞ではなかったのではなかろうか、という思いが多分にありました。
 しかしあらためて考え直してみると、現在の東京都府中市は「府中」という地名が語るとおり、「武蔵國―无邪志國―」の國府が所在した場所であり、国分寺市などは言わずもがな、「武蔵國分寺」に因む地名です。
 ましてや、その武蔵國分寺の規模は全国最大級であり、武蔵國の古代における立ち位置が相当に大きなものであったことは想像に難くありません。
 隣接の「下総國―現:千葉県北半分―」とて侮れません。
 なにしろ『延喜式』の『神名帳』において、「伊勢神宮」・「鹿島神宮」と並んで三例しかない“神宮”称号の「香取神宮」を擁する古来東国支配の一大拠点國なのです。
 「隣接の~」と書きましたが、下総國の國府は現在の千葉県市川市国府台あたりにあったとされており、江戸城からみれば武蔵國のそれよりも近いと言えます。
 そもそも両國府の距離は直線にして40キロメートルほどでしかなく、江戸城の地は、その中間なわけですから、古くから十分“要の地”であったに違いありません。
 現代人の我々にとって日本はあたりまえに一つの国であり、家康が秀吉の後に天下を取ったという結果も知っており、ついついその視点で考えてしまいますが、目の前で20万以上の兵力を動かして今まさに天下人になった全盛期の秀吉を前に、家康がすぐさま次の天下など意識できたものでしょうか。リアリストの家康が望むところは、せいぜい秀吉新政権内で最大の発言力を得ることであったことでしょうし、その目的からすれば、東の雄として君臨することは意に叶ったものと思われます。なにしろ、東国は鎌倉以来武士の国です。
 したがって、東国支配を前提にするならば、家康は十分に要たる所領を預けられたとは言えるのではないでしょうか。

 念のため補足をしておきますと、『先代旧事本紀』の『國造本紀』には「下総國造」なるものは存在しておりません。「國造」の制度が残されていた時代、あるいは『國造本紀』の原典が編纂された時代には、まだ「下総國」が成立していなかったのでしょう。
 そもそも『國造本紀』は、同一國の異なる時代の名称の重複も指摘され、各國造の成立時期の段階性が論じられるところではあります。
 さしあたり、「印波國造」や「下海上國造」などが後の下総國エリアの國造とされているわけですが、下総國一之宮たる「香取神宮」の鎮座地「香取郡」は、「下海上國」に該当するのでしょうか。
 尚、『先代旧事本紀大成経』における「香取神宮」は「下海國」の「楫取大社」のことと思われます。
「香取神宮」と一対に扱われる「鹿島神宮」らしき社は、「日中國」の「鹿嶋大社」になるのでしょうが、いずれも「神宮」ではなく「大社」と表記されているところは留意しておきたいところです。

 さて、江戸を大坂に見立てるならば、房総半島は方位的にも紀伊半島に相当するといえるでしょう。東京湾に流れていた利根川―江戸川―は淀川になぞらえられなくもなく、うまく流路をつなぎ航路さえ開けば―後に実現したわけですが―、霞ヶ浦は琵琶湖の役割をはたしてくれそうでもあります。
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現在の利根川下流域
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 そのこじつけ発想の延長で、伊甚國に該当する房総半島南東岸の「勝浦」という地名にも、紀伊半島の「那智勝浦」を連想させられていたわけですが、あながち的外れでもなさそうです。
 安本美典さん監修、志村裕子さん現代語訳の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』は、「阿波の国造」の注釈の中で「~アワは四国の忌部氏からもたらされた地名であろう。忌部氏は、紀伊半島沿岸にも由緒があるが、白浜・勝浦など房総半島への類似地名をもたらしたとみられる」としております。
 そのあたりは、後にもう少し掘り下げて語ってみるつもりですが、なにしろ、房総に紀伊半島の漁民がよく関わっていたことは事実です。

―引用:川名登さん編『千葉県の歴史100話(国書刊行会)』所収・内田龍哉さんの稿―
 外房の漁業も関東各地と同様近世の初頭から上方漁民の進出により、新漁法が伝えられ、それを受け入れながら発展していった。『誕生寺領山海由緒書』によれば、寛永六年(一六二九)十二月末、伊勢から海蜑人船(かつきあまぶね)数艘が小湊村へ着き、同村の鮑磯(あわびいそ)を請負って鮑漁に携わった。また、元和元年(一六一五)から承応頃(一六五二頃)まで、紀州栖原村の漁師が房州の浦々に下り、漁業の場所を見立て、長狭郡天津、浜萩(天津小湊町)両村の浦で鰯漁を始め、天津、浜萩その他所々に住み、漁業年貢を納めて地元百姓同様に安心して漁猟を行って来たと、『安房郡水産沿革史』は伝えている。

 この天津、浜萩は、現在の鴨川市に属しますが、同じく現在の勝浦市に属する先の守谷、興津から南(西)側に一山越えた漁村です。いずれも10キロメートル内外に展開しており、ほぼ同じ並びの浦々と言っていいでしょう。
 徳川幕府の本拠となった江戸への人口集中に伴い、連動して海産物の需要も急増したことがこのような上方漁民の積極的な進出の要因になったのでしょうが、その100年ほど前から次のような縁故があったことも無視出来ません。

―引用:森輝さん著『夷隅風土記(千葉縣文化財保護協会)』―
~天正十一年(一五八三)には、石山合戦で信長に追われた西光法師が、紀州湯浅から門徒九人を連れてこの地(鵜原)に来往、真光寺を開基した(真光寺縁起)。
 右の門徒九人は、いずれも紀州漁民の出身であったので、その後紀州漁民の進出には、極力この地に移植することに努めた。その結果定住する者も次第に多くなり、今の船戸港の岸壁には、当時彼らが居住したといわれるトンネルがあり、港内に紀州根と呼ばれる岩礁がある。また、紀州漁民の居住していた毛戸浦には、彼らが郷里加太の淡島明神から勧請したという粟島神社がある。毛戸という地名も、当時ここに集団していた加太の漁民から、いつかカダ(加太)の地名となり、のちにケドと母音変化したものと思われる。粟島神社では、今でも針供養行事が行われている。

 粟島神社云々については後にあらためて触れるとして、西光法師ら本願寺一派は、何故極力この地に移植することに努めたのでしょうか。
 思うに、そこには先の阿波忌部以来の地縁があったからではないのでしょうか。