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 由利氏の祖は、どうも信濃國から移住してきた人達のようです。先に中原姓や、那珂・中臣・大中臣姓説があることをさらりと触れておきましたが、そのあたりを含めて語ります。由利中八維平などの名にある「由利」は郡名であるとして、「中」は、氏族の本姓を示すものとされているわけですが、これについて姉崎岩蔵さん他、幾人かの識者は「中原」あるいはその祖となる「中」姓を意味するものとしております。姉崎さんの説に代表していただくならば、これは木曽義仲を擁立した信濃の「中原兼遠(かねとう)」の一党ではないか、ということになります。
 木曽義仲は、言うまでもなく木曽に本拠を置いた源氏であり、相当屈強な軍を率いていたようです。なにしろ、源頼朝よりもはるかに早く平氏を京から追い出したほどの剛の者でした。その突破口があったからこそ平氏はほころび、後の源義経の奇跡的勝利があり、源頼朝の最終的勝利があったとも言えます。
 ただ、義仲の軍勢は、飢饉続きで食糧難の京にあって素行が悪く、ただでさえ財政難で疲弊していた京における狼藉三昧とあっては、都人から激しい不評を買うのも必然でした。さらに義仲自身が皇位継承問題にまで首を突っ込んだことは致命的となりました。結局義仲は源頼朝に派遣された源範頼・義経ら鎌倉軍に討たれてしまうのでした。こうして見ると義仲には勝利後の政権運営の理念が感じられず、平氏打倒が目的で、その後の動きはまさかの勝利を得てから湧き起こった蛇足のような野心であったと感じざるを得ません。軍事的勝利だけでは天下をとれない恰好の例と言えるでしょう。おかげで、自分を倒した義経を大スターとして祭り上げることになってしまいました。そして、したたかな頼朝などは義仲と同じ轍を踏まぬよう細心の注意をはらって軍律を厳しく定め、違反者は厳しく処罰し、周知のように武家政権を確立させていったわけです。私たちはそのような歴史を知っているので、どうしても木曽義仲を過小評価してしまいがちですが、よく考えてみれば当時の絶対的な平氏を追いやり、一時でも京を支配したというのは相当な快挙であったことには違いありません。パイオニアの宿命とはいえ、後世の評価の低さは少々気の毒な気もします。
 さて、この義仲を養育及び擁立したのが、由利氏の本姓とされる信州木曽の中原兼遠なのです。いわば、頼朝に対する北条時政、義経に対する藤原秀衡のようなものでしょうか。姉崎さんは、矢島――秋田県由利本荘市矢島――の小番氏の過去帳式の家系に「本姓中原」とあるのを確認しており、小番氏が由利氏の同系氏族であることの確認とともに、「奈良時代以来、由利地方に移住した住民の中心は、信濃関係の人たちであり、その氏族の代表が由利氏であったと見ることが出来よう」としております。
 由利氏は、もしかしたら木曽義仲の失脚後、奥州藤原氏の庇護下に逃げ延びた一族なのかもしれません。古来奥州には栗原――宮城県栗原市――に代表されるような信濃系すなわち高句麗系の移民がたくさんおり、良馬を重要な交易の目玉に据える奥州藤原氏はこれを大いに厚遇していたように思えます。彼らが軍馬に精通していたことは先に何度も触れたところですが、由利氏はそのようなツテを頼ってきたのではないでしょうか。
 戦国時代、由利維平の後裔で羽後国由利郡瀧澤邑――現:秋田県由利本荘市滝ノ沢字滝ノ沢?――に起った瀧澤氏がおります。そもそも由利氏自体、信濃の小縣郡瀧澤邑の邑名を冠した“瀧澤”なる一党が、出羽の由利郡に移住して“由利”を名乗ったようですので、由利郡の瀧澤氏はむしろ本姓に復した一党と言うべきかもしれません。戦国時代の由利郡には特筆に足る大領主がいたわけでもなく、中小の在地領主たちが、各々最上氏や秋田氏、津軽氏といった周囲の名だたる大領主の武威を背景に、時には争い、時には結ぶなどして、互いに牽制し合っていたようです。彼らは「由利衆」などとひとくくりに表現されることが多く、後世、物語などの影響で「由利十二頭」として伝えられていきます。その中にあって、件の瀧澤氏は頭一つ抜きんでていた感もあるのですが、由利十二頭は「多くが信濃より移住の士なるが如し」――太田亮さん『姓氏家系大辞典(角川書店)』――であったようで、たしかに入植信濃一派のリーダー的存在であったのでしょう。
 さて、地図好きな私は当然の作業として「信濃國小縣郡」――現:長野県小県郡(ちいさがたぐん)」――の瀧澤地名を探してみるわけですが、実はどうにも見当たらなかったのです。もちろん昨今の市町村合併の影響で、小県郡の範囲も大幅に縮小されているだろうことを考慮して、予め旧来の範囲を調べた上で探してみたのですが、やはり見当たらないのです。
 しかし、代わりと言っては何ですが、同郡の青木村から隣接の上田市などにかけて「滝沢寺」をはじめ「滝沢○○」といった施設名が集中して見られました。ほとんどは経営者の苗字なのでしょうが、由利氏と同系の瀧澤姓の裔孫が存在していると捉えていいでしょう。つまり、そのあたりこそ由利氏の祖が発生した瀧澤邑であったのでしょう。なにより、そこには“八木沢(やぎさわ)地名”が重なっております。当地を走る上田電鉄の駅名も「八木沢」です。そして、その八木沢地区には「兜神社」が見られます。前に触れましたが、仙台市泉区の若有氏の屋敷神を祀るという八木沢神社は、“兜”が御神体であると伝わっておりました。
 今、このくだりを書きながらふと思ったのですが、もしかしたらこの“兜”の意味するところと仙台泉エリアで志波彦神が落とした“冠”には何か関係があるのでしょうか・・・。
 それはともかく、手前味噌ながら、仙台市泉区の八木沢(やぎさわ)は滝沢の変遷であろう、という私論の妥当性は高まったと自負しております。同時に、奥州藤原秀衡の八木沢牧場と由利氏の因果への私の着眼点も捨てたものではなかったと悦に浸っております。
 あらためて鑑みるに、仙台市泉区と信濃の縁はなかなかに古いものなのかもしれません。『続日本紀』によれば、 伊治公砦麻呂が反乱を起こした後の混乱がまだおさまりやらぬ宝亀十一(780)年、征東使の奏上に、鷲倉・楯座・石沢・大菅屋・柳沢の五道をニ千の兵を派遣して攻め取り堅固な砦を造り逆賊の要害を断つ旨が記されておりますが、この「柳沢」は上谷刈八木沢――仙台市泉区――であろうとされており、また、その5年後の延暦四(785)年、春宮(とうぐう)大夫・陸奥按察使(あぜち)・鎮守府将軍を兼任していた大伴家持が、多賀城の防御態勢の不備を補わんと迅速な徴兵に直結する人口の増加策を掲げ、周辺に多賀郡・階上(しなのえ)郡の二郡を開設したと記されております。この階上郡は、現在の仙台市泉区あたりとされておりますが、“しなのえ”の韻が物語るように信濃からの移民を扶植した郡であったと考えられます――大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)』参照――。
 ちなみに、若有氏の菩提寺であったという柳澤寺(りゅうたくじ)の案内板には、かつて真田幸村との因果が説明されておりました。最近確認したときには無くなっておりましたが、真田幸村は言うまでもなく“信州上田”の武将です。兜神社の所在地はその信州上田の“八木沢”であり、無関係にも思えません。 伊達政宗――厳密には片倉小十郎――が真田幸村の遺児を引き取った際に、この八木沢地区の“リトル信濃”がいかなる役割を果たしていたのか、興味の湧くところです。
 さらに言わせてもらいましょう。この上田市八木沢の付近には“丸子地名”も存在しております。
 なにしろ、先の伊治公砦麻呂の反乱は、牡鹿郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおたて)」への発作的な怒りがきっかけであったと考えられるわけですが、この道嶋氏の本姓が“丸子氏”でした。砦麻呂の反乱は、おそらく史料にもあるとおり上司への個人的感情に起因するものであったのでしょうが、このような事件が起り得たように、蝦夷のエリートとされる丸子氏と在地の蝦夷は濃密な主従関係におかれておりました。私論では、この丸子氏は本来鹿島御児神を奉斎して進出して土着していたオホ氏の本流であると見ているわけですが、同じく私論では、浅間山噴火――榛名山噴火か?――によって壊滅状態にあった信濃の高句麗牧場の人馬を、やはり冷涼な陸奥の栗原に移転させる手引をしたのも、陸奥の地勢に精通したオホ氏と信濃国造の連携であろうと考えておりました。信濃国造はオホ氏と同じ「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」系譜です。したがって、大伴家持の命で階上郡の入植に活躍したのも、おそらくはオホ系の丸子氏ではなかったか、と考えるのです。仙台市泉区の八木沢付近を貫く秀衡街道沿いにも“丸地名”が連なっております。これを願望的な思い過ごしと切り捨てるなかれ。長野県全体で滝沢地名を検索して真っ先にヒットする飯田市の「滝の沢」も、“丸山地名”に隣接しております。その付近に相当規模の高岡古墳群があり、何より副葬品に“馬具”が多いことは看過できません。
 これらを因果づけるべく、滝沢氏なり由利氏の本姓と思われる「中原氏」について太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』から私にとって実に刺激のある内容を抽出して列記しておきます。番号は私が便宜上ふったもので原典のそれとは異なります。

① 中原連 十市(とおち)氏の族か
② 中原眞人 天武帝の御裔。~姓を清原眞人と賜ふ
③ (物部)中原宿禰 物部氏の族
④ 中原宿禰 大和磯城彦の後裔。~安寧帝裔(採るに足らざるか)
⑤ 木曽中原氏 中原を称せしや明白なるも、実は金刺氏かと云ふ。一に諏訪神家
⑥ 越後の中原氏 彌彦社、船越の神官に中原氏あり

 引き続き、これらを軸にした推論なり所感なりを展開します。