このほど、「承和の変」あたりから平清盛が政権中枢に辿りつくまでの、どちらかと言えば藤原良房から始まる摂関藤原氏の栄枯盛衰を主軸に話を進めようと考えていたのですが、肝心な「承和の変」が何故起り得たのかを語るため、桓武天皇の奇妙な遺言に触れておく必要を感じました。
 さらに、桓武天皇が何故そのような遺言を発したのかを語るために、結局藤原四家の発祥にまで遡って話を進めることになってしまったのです。
 そのようなわけで、桓武天皇の奇妙な遺言と、その背景をあらためて振り返っておきます。遺言の中で私が着目していたのは以下の点です。

1、桓武天皇が次代の皇位について「安殿(あて)親王――平城天皇――」、「神野(かみの)親王――嵯峨天皇――」、「大伴親王――淳和天皇――」の順に、各々十年ずつで継承すべしと遺言した、という伝承がある。特に、大伴親王は「藤原旅子(たびこ)」の子で、皇后「藤原乙牟漏(おとむろ)」の子ではない。

2、桓武天皇は、「藤原種継殺害事件」の主犯格とされた「大伴継人」や、関与したとされていた「大伴家持(やかもち)」とその家族らについて生死を問わず復権させた。

 これらがあったからこそ、「藤原旅子」の名が「大伴旅人(たびと)――家持の父――」の名に似ていることや、旅子が生んだ桓武天皇の子の名が「大伴親王――淳和天皇――」であったことについて、私は大伴氏の影を疑っていたわけです。なにしろ、桓武天皇が人生最後に大伴氏の復権を気にかけていることは事実です。
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藤原旅子の人生と時代背景

 桓武天皇は、言うまでもなく有史以降確実なところでは最長寿命の首都を築いた天皇であり、その功績は特筆すべきものがあります――征伐された東北人としての感情は別次元の話として――。全般に藤原式家を重用していた部分はあるものの、とりたてて彼らの傀儡に陥っていた様子もなく、自らの政治をしっかり行った天皇だったと認めざるを得ません。
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 反面、ずっと怨霊に怯え続けていた側面もありました。「怨霊」という言葉に抵抗があるならば、「後ろめたさ」と言い換えてもいいのですが、桓武天皇は自分の政策の犠牲になった親族や政府高官たちを生涯気にしていたとしか思えません。
 政策とは、特に首都移転のことです。「藤原種継殺害事件」とは、桓武天皇の信任が厚く内外の事をみな決定する立場にいた藤原種継が、新首都「長岡京」造営の現場責任者として検分中に殺害された事件です。それは、大伴家持の死後二十余日後の事でした。
 この事件によって、「大伴継人(つぐひと)」、「大伴竹良(つくら)」らが犯人として投獄され、取り調べの末、事は家持にも及んでいたとされました。継人・竹良らとその徒党数十人は斬首、あるいは配流され、既に故人の家持も除名処分とされ、その子「大伴永主」らも流罪に処せられました。
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 主犯格にされた大伴継人とは、「大伴古麻呂(こまろ)」の子です。古麻呂は、かつて「孝謙天皇」の廃帝及び「藤原仲麻呂――恵美押勝――」の暗殺を企てた疑いで、虐殺――橘奈良麻呂(ならまろ)の乱――された人物です。これは間違いなく「大炊(おおい)王――淳仁天皇――」を立てようとしていた仲麻呂の陰謀でしょう。大炊王は、早くに薨じた仲麻呂の子「真従(まより)」の未亡人を妻に迎えており、仲麻呂の邸宅に住まうなど、いわゆる“マスオさん状態”にあったようです。
 大伴継人系譜の話に戻りますが、後に「応天門の変」で流罪に処される大納言「伴義男」は、継人の孫であったとされております。善男の父である「大伴国道――伴国道――」は、継人の有罪判決に縁座して佐渡に流されたのですが、善男はその配流中の二十年の間に生まれたとされております。母については、仁寿ニ(852)年に没したということ以外は全て謎です。なにしろ配流中の種なので、佐渡の女から生まれたと考えるべきでしょうが、例えば『伴善男(吉川弘文館)』の佐伯有清さんは「その可能性は、ほとんどない。おそらく善男の母は、父国道と同程度の階層に属する貴族の娘であったのであろう」としております。理由は、母が没した頃、善男は、すでに従四位上、参議として政界で活躍していたからです。このあたり、大伴氏を名乗る善男に私がどこか毛色の違いを感じる要因の一つでもあります。
 いずれ、結果的にこの事件によって大伴氏の主流は政治的に無力化されました。後の大納言「伴善雄」はまだ生まれておりませんし、その父親とされる「伴国道」は佐渡に配流されたので、両者の表舞台への登場は少なくとも20年以上先の話になります。
 更に、この事件では桓武天皇の実母弟で皇太子であった「早良親王」も連座して廃されました。彼は淡路国に配流されることとなったのですが、一貫して無実を主張し、配流の道中、絶食し抗議の憤死を遂げました。その後、彼と桓武の母「高野新笠」や、皇后の乙牟漏、旅子の病死、安殿親王――平城天皇――の発病、疫病の流行、相次ぐ洪水などが早良親王の祟りであるとされたことは、十年ほど前に大流行した映画『陰陽師』のモデルにもなった有名な話です。
 これによって早良親王は「祟道天皇」と追称されることになり事実上復権させられ、丁重に鎮魂されることになりました。
 しかし、桓武天皇には尚も苦味が残り続けていたようです。それが忌の際に至って耐えられなくなったのでしょう。『日本後記』の大同元年三月十七日条の記述によれば、桓武天皇は具体的に次のように言い残して崩御しております。

――引用:森田悌さん全現代語訳『日本後記(講談社)』より――
○辛巳(一七日) 天皇が次のように勅した。
 延暦四年のこと(同年九月の藤原種継暗殺事件)に連座して配流となった者はすでに罪を許し帰郷させている。いま朕は思うことがあり、生死を論ぜず、本位に復することにする。大伴宿禰家持を従三位、藤原朝臣小依(おより)を従四位上、大伴宿禰継人・紀朝臣白麻呂(しろまろ)を正五位上、大伴宿禰真麻呂(ままろ)・大伴宿禰永主を従五位下、林宿禰稲麻呂(いなまろ)を外従五位下に復せ。
~中略~
 しばらくして桓武天皇が内裏正殿で死去した。行年七十。
~以下省略~

 「藤原種継暗殺事件」は、遷都に異を唱える奈良仏教勢力とそれを支持基盤とする有力者たちによる犯行に見せかけた陰謀と考えるのが穏当ですが、私はここに大伴氏排斥の目論見があったことも否定できないものと思っております。
 藤原四家の相克の中で、藤原仲麻呂の失脚によって勢いを失った南家に入れ替わって式家が抜きんでてくるわけですが、思うに式家は四家の相克を勝ち抜く為、同盟相手として大伴氏を取り込もうとしていたのではないでしょうか。四家の相克を勝ち抜きたい式家と、復権を狙う大伴氏とで当座の利害が一致したのではないでしょうか。