数年前、死の山“月山”登拝の機会があり、あらためて自分のご先祖様と向き合う機会に恵まれました。その際、予めご先祖さまの名を刻んだ供養串を100本ほど用意しなければならなかったのですが、ふと、せいぜい四代前くらいまでしか遡れない自分に気付きました。私の祖父は、父系母系とも第二次大戦中に亡くなっており、面識がありません。私は、祖父も曾祖父も墓石に刻まれた名前でしか知らないのです。そのような自分を顧みるとき、何百年以上もの自家の系譜をしっかりと認識できる方々が、如何に徹底してご先祖様の尊厳を守り続けていたのかを思い知らされるのです。天皇家をはじめ、公家、大名、宗派、伝統芸能、豪商、豪農等々・・・栄枯盛衰が必定の浮世のなかで、諸兄を取り巻く世情も常にめまぐるしく変化し続けていたわけで、綺麗事ばかりではなく、時代によっては必ずや耐えがたきほどの苦難もあったはずです。善・悪・敵・味方を問わず、私はその尊き歴史の重みに対して敬意を表さざるを得ないのです。
 話を戻しますが、私自身について、必ずしも自分がどのような系譜であったかを推し量る術がないわけでもありません。とりあえず“姓――苗字――”からなにかしら推察出来るはずだからです。
 「姓」と「苗字」は本来異なる意味を持つものなのですが、現代人には同じ意味のモノとなっております。ざっくりと言うならば、姓は遺伝子、苗字は本籍地と考えて、そうそう外れてはいないと思います。 ニュアンスを分りやすくするため、具体例を挙げてみましょう。木曽義仲、足利尊氏、彼らの姓は「源(みなもと)」です。しかし、本家の地位を勝ち得た源頼朝の系譜と区別するため、「木曽」「足利」という各々の地盤の地名、すなわち“苗字”を冠しておりました。
 その他、例えば伊達政宗ら有力大名が徳川家康から松平姓を賜ったようなケースや、職掌や身分の姓(かばね)があったりしていて、異なる氏族があたかも同族のように見えてしまう場合もあるのですが、いずれにしても、そこにご先祖様が背負ってきた経歴について、なんらかのヒントがあることには間違いありません。それが長い歴史の途中で、捏造あるいは創作されたものであっても、ご先祖様がそのように自分の系譜を書き換えた理由や事情も必ずあるはずで、そこに検討を加えれば、ご先祖様の置かれていた立場もある程度絞れてくるのではないでしょうか。とはいえ、幸い、宮城県の「今野(こんの)」については、わりと推察しやすい環境にあります。

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故郷の風景――泉ケ岳:仙台市泉区――

 かつて、今は亡き宮城の偉大な郷土史家「紫桃(しとう)正隆」さんと初めて電話で会話させていただいたとき、紫桃さんは私の姓について、元々は「金(きん・こん)」であり、「女真(じょしん)族」の出であるとおっしゃっておりました。コンノの「ノ」は、「ミナモト“ノ”ヨリトモ」や「タイラ“ノ”キヨモリ」の「ノ」と同じで、今野政明も本来は「今ノ政明」なのでしょう。
 余談ですが、かつて職場の机上や電話機に、度々「今の君へ」から始まる業務連絡が付箋で貼られていたことがありました。「今野君へ」と書くのがよほど面倒だったのでしょうか・・・。“野(の)”が本来接続詞であったのだとするとあながち間違いでもなさそうですが、どうしても「いまのきみは~ピカピカに光って~」という歌が頭から離れなくなり、業務に支障をきたしていたことが思い出されます。
 それはともかく、たしかに女真族は、12世紀に中国北部にて「金朝」を建国しておりますので、彼らと「金」という文字には浅からぬ縁があることは事実です。紫桃さんが故人となられた今となっては、どのような根拠でそうおっしゃっていたのかを確認する術もありませんが、これまで述べてきたように東北地方とツングース系の密接具合を鑑みるならば、今はそれも頷けるように思えております。
 いずれ、今野一族のルーツが女真族である、という説は、このとき初めて聞きました。通常「金(こん)氏」の系譜を渡来系に結び付ける場合、太田亮さんが『姓氏家系大辞典』の中で第一項に挙げているように、「新羅族」と考えるのが一般的です。すなわち「新羅王金閼智の後裔」だとするものです。
 新羅王の裔族ではなかったにせよ、『続日本紀』の天平五年六月の記事に、徳師なる武蔵国埼玉(さきたま)郡の新羅人ら男女五十三人が請願によって金姓とした記事もありますので、新羅系渡来人が金を名乗っていたケースは実際にあったことがわかります。
 一方で、陸奥金(こん)氏の菩提寺である長安寺――岩手県大船渡市――の傳においては、金(こん)一族は阿倍倉梯麻呂の裔とされているようです。
 また、『陸奥話記』には「度々合戦之場賊帥死者數十人所謂散位平孝忠金帥道安倍時任同貞行金依方等也皆是貞任宗任之一族驍勇驃悍(?)精兵也云々」とあります。つまり、源氏方に敗れて戦死した金帥道・金依方なる金姓の賊将が「貞任・宗任の一族」と報告されていたことが記されております。更に先の『姓氏家系大辞典』によれば、『安倍氏筆録』に「平形の城主金氏は、藤島殿の家老にて、先祖は安倍の一黨、金為時に出で~」とあるようで、奥羽の金一族が陸奥安倍一族の同族であった可能性はかなり濃厚です。
 ここに「金為時(こんのためとき)」なる名前が出てきました。さまざまに伝わる金氏系図ですが、先の阿倍倉梯麻呂とこの金為時については一致をみているようです。穏当に考えるならば、宮城県、岩手県の今野姓は、さしあたりこの人物に辿りつくようです。