藤原実方中将の不審死といい、祟りを為す安倍則任――白鳥八郎――といい、霊感寺なる命名といい、かつての宮城県柴田郡周辺には何やら奥州武士たちの地縛霊が住み着いていたかのようですが、照井太郎高直もその一角を担っていたようです。
 高直最後の陣所、韮神(にらかみ)山――宮城県柴田郡村田町――の西隣の小山の上、その名も「山の上屋敷」には照井太郎高直を供養する地蔵堂と供養塔があります。供養塔は、もとは五重の石塔であったというのですが、現在は単純な石を重ねたシンプルなものになっております。
 『村田町史』によれば、墓地後方約20メートルの所にあるけやきの木の下の盛り土が、輝井(照井)太郎――高直――の亡きがらを埋めた場所と推定されているようです。
 ふと私はその形態に目が行きました。もしや積石塚古墳では・・・、などと想像してみたのです。
 残念ながら、そのような気配は全く感じられませんでしたが・・・。
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 地蔵堂

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 首塚

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 何故そのような想像をしてみたかというと、もし積石塚古墳だとすれば、照井氏と高句麗系渡来騎馬民の関係が極めて密接であっただろうという私見を物的に補強できると思ったからです。
 前に触れたとおり、積石塚古墳は高句麗人を主とした古代朝鮮人に顕著な埋葬習慣です。信濃国の“馬”と高句麗系渡来人が結び付いた最大の論拠も、当該地に展開する積石塚古墳群の存在にありました。
 とはいえ、高直が戦死したのは平安時代最末期、鎌倉時代になろうとしている頃です――ある意味、高直が戦死したから鎌倉時代になったとも言えますが・・・――。7世紀の高句麗滅亡からは既に500年以上も経過しておりますので、そもそも時代そのものが違いすぎるのかもしれません。
 さて、『村田町史』は「輝井太郎後日談」として以下のように書いております。

――引用――
輝井太郎の死後、山の上屋敷およびその周辺の住民は、輝井太郎の死を惜しんだ。今も名に残る首洗いの池で殉死した夫人とともにその首を洗い、山の上屋敷に葬り夫妻の菩提を弔うべく、ここに東岳山洞秀院を建立したが、これが間もなく焼失した。それから五十年余りたった仁治元年(一二四〇)に、金ヶ瀬の新寺村にこの寺を再建した

 高直ゆかりの地蔵堂や供養塔の場所は、焼失した「洞秀院」の旧地のようです。
 洞秀院なる寺院は既に廃寺となりましたが、照井太郎夫妻の位牌は引き続き「香林寺」に安置されております。

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 ところで、町史はここで奇妙な話を続けております。

――引用――
 昭和四十九年九月のある日曜日に、沼辺の男子高校生が友人たち八人と韮神山に登り、そのついでに輝井太郎の供養塔の写真をとった、写真をとったのは、二人であるが、どちらにも墓にかけられた屋根の上に、昔の武将と思われる顔がうつっていたので驚いた。そのうちの一人が、その写真を家に持ち帰り母にみせた。その母は、日頃信仰の厚い人だった。十月のある日、仏壇に手を合わせている母のまぶたに、傷ついた武将の姿が現れ「われは左肩から、右わき腹に、射ぬかれた矢のために死んだのだ、どうか、法華経をあげて供養してほしい」と告げた。母は五十年四月、この墓に、わが子と共に詣でて、法華経を埋めて供養したが、それからは、この墓の写真を何度とっても、武将の姿は写らなかったという。
 この事が、五十年六月五日発行の週刊紙「女性自身」に、写真入りで詳細に報道され全国に、この話が広まり、また「東北放送」でも放送され、話題を呼んだ。
 「あの不思議な写真こそ心霊写真だ」という人もある。また、「そんなことが・・・」と疑う人もある。このことは将来なんらかの形で解明されねばなるまい。

 昭和の現代に至っても高直の心霊が現れたようです。
 なんとも鳥肌ものの不思議な話ですが、これだけでは終わりません。町史は追い打ちをかけるように次のような話も載せております。

――引用同町史――
朝寝屋敷
 この屋敷は、韮神山の西北に当り、現在の山の屋敷一帯と推定される。またこの里を「不起臥(おきずふし)の里」ともいわれた。里人の言い伝えによると、文治の役の後には、毎年、七月七日の朝になると、韮神山と対岸の四保山との間、松の木の彼方に、朝もやがかかり、それは雲と見まちがえるような白旗数本の形となって現れるという。また、武者の甲冑姿があらわれるともいう。ともかく、それを見た人はその年一年の間に必ず凶事に見舞われるといい、それを恐れた住民は、この日は朝寝する習慣がつき、いつしか「朝寝屋敷」の名がついたという。~以下省略~

 いささか町史編者個人のオカルト志向のような流れを感じなくもありませんが、決して嘘を書いているわけではなく、いずれ照井太郎の戦死がこの地において強烈な記憶として刻み込まれていたことの証といっていいでしょう。
 このように、柴田郡は安倍氏なり奥州藤原氏に縁の深い土地柄という背景に加え、藤原国衡――西木戸太郎――や照井太郎高直が戦死した場所ということもあり、何かと濃厚な遺跡なり伝承を見受けられるのですが、特に照井太郎高直の御霊については地元栗原においても手厚く供養されております。
 宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁に、高直の妻が築いたという五輪塔がありました。高直戦死の後、落人となった妻子は有壁の地に逃げ隠れていたというのです。
 しかし、この母子はやがて酒造りで成功して富を蓄えることになります。
 柴田郡の伝承では、高直の妻は殉死して韮神山付近の山の上屋敷に一緒に葬られたことになっておりました。とすると、有壁に落ち延びたというこの妻は一体誰なのか、という疑問もわき起こりますが、単に伝承上の矛盾なのか、それとも正妻と妾の違いなのかはわかりません。
 いずれ、有壁に落ち延びた妻もやがて亡くなりました。そこで、息子の“照井太郎”は更にもう一基の五輪塔を建てたようです。“照井太郎”ということは、この落ち延びた母子が照井一族の本家筋であったと考えてよさそうです。もちろん藤原国衡――西木戸太郎――のように、当時必ずしも長男――太郎――が本家の相続人とは限りませんが、国衡が家督から外れたのは、秀衡の鎮守府将軍や陸奥守といった国家権威をも継承しなければならない、という特別なケースだからであり、全く別次元の話と考えます。
 さて、高直の息子は、母の五輪塔に続けて更に3基の五輪塔を建てました。
 つまりこの地には合計5基の五輪塔が建っているということになります。そして追加の3基は、照井家の先祖を弔うためのものであったといいます。それが何故3基なのかが気になりますが、もしかしたらアテルイも含まれているのでしょうか・・・。
 なにしろ、照井氏の中には、自分をアテルイの末裔であると自称していた人達がいることは前に触れたとおりです。

 それにしても・・・・・。
 この五輪塔の建つ塚は、なんと“積石塚”です。

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 読者の皆様の中には「積石塚といっても、いわゆる積石塚古墳とは全然違うよ」と軽く否定する方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、このあたりでは珍しい積石の塚であることは間違いありません。少なくとも管見では付近に同様なものが思い当たりません。
 正しい高句麗の様式(?)ではなかったにしても、また、これを建立した人物が高直の家族であろうとなかろうと、少なくとも高直あるいは照井氏は「このように供養されるべき」、という造立者の“積極的な意図”がなければこのような形態にはならないでしょう。
 したがって、設計知識もなく頭の中のイメージに基づいて“積石塚古墳もどき”を造り上げたということは十分あり得るのではないでしょうか。
 あるいは逆に、「これはたしかに高句麗の様式だが、被葬者が誰かわからないものを勝手に照井氏と伝えているかもしれないではないか」という意見もあるかもしれません。
 それであれば、それが何故あえて「照井太郎の墓」と伝承されたのかを熟考しなければなりません。誰かがこの積石塚を「照井太郎のものだろう」と確信し、それが説得力をもって長く信じられてきたという事実は、少なくとも照井氏にそれ相応の属性があり、それが一般に浸透していたことの証になります。
 一笑に付されるかもしれませんが、私の中で照井太郎高直は、あるいはもしかしたらアテルイは、“高句麗系渡来人騎馬軍の子孫であったのだろう”とほぼ確信せざるを得ないのです。