「後三年の役」が過去の記憶となりつつあるある盆の14日、奥州平泉首都圏の前線を守護する屈強な一族が三々五々集まり始めました。
 その場所は真坂邑――現:宮城県栗原市一迫真坂――にある一族の屋敷です。彼らは5年に一度、盆の14日には決まって真坂邑の菩提寺「阿弥陀寺」にて平泉様――藤原氏――の安寧祈願、そして自らの先祖の供養を行っており、そのために一旦この屋敷に集まるのです。
 この日は雲ひとつない晴れ空で、屋敷には早いうちから何人かの武将が集まっておりました。彼らは久しぶりの親族の会話を楽しみ、奥座敷からは高笑いが聞こえておりました。
 「衣川の高春様は、見事な雄鹿をモノにしたそうじゃ」
 どうやら後三年の役で鎌倉勢が攻めのぼった際の槻木の韮山――現:宮城県柴田郡――での武勇伝のようです。彼らは暮れ六つに始まる供養会を待つ間、屋敷の奥座敷で自慢話に花を咲かせていたのでした。
 いよいよ会の時間が近くなり、家老である千葉家の使いが見えました。
 背丈六尺もある彼らはぬっくと立ちあがり、菩提寺の阿弥陀寺に向いました。
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 供養会は、住職の治安の先導で華やかな読経と共に開かれましたが、勢ぞろいした彼らの威容には、いよいよ一族の安泰を思わされました。
 帰途、佐沼――現:宮城県登米市迫町佐沼――の鹿ケ城主が、かつて八幡太郎義家が苦戦の末勝ち取った花山城――淵牛館――を望見して、昔の安倍貞任や宗任の世を思い出しておりました。
 すると梨木館主の祥宝山殿が、
 「それがしの城に立ち寄ってくだされ。淵牛館がそれはよう見えまする」
と誘いをかけました。
 そこに姫松城主が対抗してきました。
 「それならばわしの城がよろしかろう。源氏の陣所をくまなく説明つかまつりますぞ」
 彼らは互いに譲らず、やや騒がしくなっていたとき、戒める声がありました。
 「わが兄弟たちよ。後三年の役で勲功を立てたわが祖先の前でめいしいことを話すでないぞ」
 それは池月城主でした。
 こうして5年に一度の供養会も無事に終わりました。
 清水目の経塚山に鹿の鳴き声が聞こえたと思えば、もう盆の日も暮れました。お阿弥陀さまに参詣した地元の百姓たちの顔も燈明に輝き、わが殿様の隆昌を心から祈っているのでした。

 以上は、狩野義章さんの『切支丹婆さま 一迫の民話』の「照井物語」を私が小説風にアレンジしたものです。これは“照井(てるい)一族”の供養会の一コマを伝える昔話なのです。